深夜の執務室で書類仕事を進める合間に雑談をするなかで、時折秘書である重岳は遠くを見つめてゆるりと瞬きをする。何かあったのかとドクターが聞くたびに必ず彼はこう返すのだ。
「ーーーああ、そろそろ貴公に客人が来るな。私がいては触りがあるだろうから、そろそろ暇をもらうとしよう」
潮騒の御仁によろしくな。そう朗らかに笑って重岳が席を外して、大抵は十分程でウルピアヌスが執務室にくるものだからさすがと言うべきか。
「俺の事は誰にも悟らせるなと言っただろう」
「それは理解しているが、彼相手にそれは難しいと思うな……」
隣の席で深々とした皺を眉間に刻むウルピアヌスを見てドクターは所在なさげに言葉を返した。来る時間が目安であってもわかるなら、とここ何回かウルピアヌスが来るタイミングに合わせてお茶を用意していたのが裏目にでたらしい。
「なぜ毎回計ったようにちょうど良いタイミングで用意がされている。監視でもつけているのか」と低い声で問いつめられ、誤解だと説明したのが重岳の事だった。
龍門からの客人であり武術の達人であることは元より、重岳の素性についても公開できる範囲で伝えることになったのはウルピアヌスから納得と理解を得るためには致し方のないことだろう。ウルピアヌスが機密を漏らすとは考えづらく、そもそも彼自身も特殊な身の上であるため他者との接触はそう多くない。
「……事情は理解したが、お前の危機管理はどうなっている。海の脅威を傍に置くだけでは飽きたらず、陸までも傍に置くか」
「脅威だなんて言わないでくれ。私は重岳を脅威だと思ったことはないし、それは君も同じだよ」
心配から来ているものだとしても、重岳とウルピアヌス自身を脅威と言いきる言葉にドクターは首を横に振った。
確かに歳とシーボーン、それぞれにテラの脅威となる側面があることは事実ではある。だが、それだけではないこともまた事実だろう。重岳はテラの命に寄り添い、ウルピアヌスもまた同胞たちの生存と存続のために身を尽くしている。その姿を見てどうして脅威しかないのだと言いきることができるだろう。
「ーーーそれに脅威で言うのなら私とて変わらない。むしろテラから見れば私こそが一番の脅威だろうな」
歳にしろ、シーボーンにしろ、その問題の元凶には旧人類が関わっている。旧人類が自らの生存と存続のために行った計画は、巡りめぐってテラの生命の脅威となってしまった。たとえ記憶が曖昧だとしても、その計画に関わっているのだと記録が残されているのだから背負うべきものなのだろう。
かつての自身が成したことに対する罪悪感とともにドクターが目を伏せたときだった。びりりと肌が震えるような気配が空間を走る。その鋭さに身を固くしたところで大層な舌打ちとともに立ち上がった傍らのウルピアヌスに抱き寄せられた。執務室の扉を睨む視線は常になく鋭い。
「あ、ええと…何が、」
「ーーー静かにしていろ」
立ち上がらされ外套の中にくるまれるがまま、耳が金属質な音を拾う。それがウルピアヌスが武器である錨を手にする時の音だと遅まきながら理解する。ーーーロドスでももっとも警備が厳重なこの場所になぜ。ましてや歴戦のウルピアヌスでも即座に警戒対象に入るような相手が。
咄嗟に手にした端末で緊急連絡のアイコンをドクターは叩こうとするものの、ウルピアヌスの大きな手が上から握りしめて止められた。いつもよりも微かに脈が早い手に握りしめられどれぐらいたっただろうか。10秒、20秒ーーーふと前触れなく執務室から張りつめた気配が消えた。
「は…っ、」
緊張が途切れ、漏れた吐息と共に足が崩れ落ちる。すぐにウルピアヌスが気付いてソファーに座らせてくれて事なきをえたが、未だに鼓動が治まらない。落ち着くために深呼吸をしていると、背中を宥めるようにウルピアヌスが撫でてくれるのが優しい。
「ありがとう。君は大丈夫?いったいなんだったのかな」
「支障はない。強いていうなら口は災いの元だと言うべきか」
いずれにしろお前に危害が及ぶことはないと言いきるウルピアヌスに首をかしげるが、聞いても答えがもらえる雰囲気ではないからドクターは頷くにとどめた。
(それにしても。あれは殺気というよりは)
確かに鋭く物々しい気配ではあった。けれどもそれは誰かを害するための冷ややかものではなく、むしろ熱を感じたそれは。
(ーーーまるで誰かが怒っているような)
情報共有が終わり、日付もとうに変わった深夜。日中とはうってかわって人気の無い通路をウルピアヌスは一人歩いていく。停泊している船内に源石エンジンの音や振動はなく、静まりかえった通路に響くのはウルピアヌスの足音のみだ。
ロドスが補給のために停泊している合間に情報共有をしている身からすればこの静寂には慣れたものだが、常であればドクターが人払いをし無人であるはずの滞在先の部屋の前に佇む人影を見て足を止めた。
「先程は不躾にすまなかったな。ドクターにも貴公にも無用な負担と心労を強いてしまった」
「お前は……」
「ああ、名前も名乗らずに失礼した。私は重岳という」
通路のぼんやりとした明かりの中、泰然とした態度で笑みを浮かべる姿にウルピアヌスは微かに眉間に皺を寄せた。ーーー重岳。ドクターから聞いた歳の代理人。ウルピアヌスとてシーボーンの遺伝子を体内に受け入れた異形の身ではあるが、それはやむを得ない事情から後天的に会得したものだ。だが、目の前にいる存在はそうではない。生来のものとしてテラの中で異形としてあるもの。
思わず手が錨に伸びて、それを見た眼前にいる人ならざる不可思議な存在が苦笑する。
「貴公に危害を加えるつもりはない。警戒してくれるなと言える身ではないが、武器から手を離してくれるとありがたい」
貴公もロドスで騒動を起こすことは本意ではないだろう。そう声をかけられては錨を離す他はない。
「ーーーそれで重岳といったか。なぜ俺に声をかけた」
来訪を察して席を外していた相手がわざわざ出向いてまで声をかけてくる理由がわからなかった。もっとも執務室での前後のやり取りを思えば、思い当たるふしが無いとは言えなかったが。
「立ち入るつもりはなかったのだが、斯様な言葉を聞いてしまっては致し方なかろうよ。あまりドクターを追い詰めてくれるな。かつてはどうあれ、今のドクターはこの星に生きようとする人故に」
「……それは警告か?」
「いいや、ただのお願いにすぎないさ。貴公にもそうせざる負えない理由があるだろうからな。恐魚、今ではシーボーンというのだったか。かつてと比べ、海が随分と不吉な様子を呈しているのは私とて理解している」
だからこそ貴公のような存在がいるのだろう、潮騒の気配がする者よ。
笑みを消し、自身とは異なる赤を持つ瞳に静かに見つめられ、久しく感じていなかった畏怖ともにウルピアヌスはみじろいだ。どこまでも見透かすような視線は随分とたちが悪い。微かにため息をついたところで重岳が再び笑みを浮かべる。
「ーーーさて、もう随分と夜も遅い。話し込むには不似合いな時間だな。貴公も十分に休んでくれ」
人にはそれが何より必要だからなと呟き、軽く会釈をして重岳が通路を歩いていく。ゆらりと揺れる尾が通路の曲がり角に消えるまで見つめたあと、ウルピアヌスは与えられた自室に入りドアを閉めた。思わず漏れるのは一つの言葉。
「随分と過保護なものだ」
ドクターの自嘲じみた言葉に対して怒気を飛ばし、そしてそれを言わせてしまったウルピアヌスに対してお願いをしに来るなど歳の代理人というのは随分と人間臭い。明らかに纏う気配も所作もただ人ではないくせ、一人の人間のために心を砕く様は確かにドクターの言うとおり脅威だと一概には言いがたい。
海のあれとは随分と違うものだと首を横にふり、足を進めると帽子と外套をおざなりにベッドの近くにある備え付けの椅子にかけた。行儀が悪いとは思うものの、あんな事があってはすぐにでも眠ってしまいたい。口は災いの元と陸では言うようだが、まさか龍を呼び寄せるとは思わないだろう。
深々とため息をついてベッドに横になる。緩やかな沈む意識の中でぼんやりと思うことはドクターのことだ。ウルピアヌスとてあのような事を言わせたい訳ではなかった。かつてがどうあれ、今のドクターが優しい存在であることは注がれる心から理解していたから。
それでも海の状況を解決するためにはかつてのドクターの情報が必要で。それがなければ接点を持たず、それがあるからただ穏やかにはいられない。
(ままならないものだな)
静かな自嘲とともにウルピアヌスの意識が沈んでいく。次に来るときはせめてあの美しい瞳が伏せることがないように、と思うのは我ながら随分と甘かっただろうか。
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