青嵐は三日ほど、存在していないことになっていたらしい。と、いうのも三日前に寝込んで以来、目を覚まさなかったというのだった。紫垂月頼宗がイチジクを取りに行った夜——共寝をしたその後から目覚めなかったという。その間、まるで時間が止まったような静けさと、誰も訪わない不穏さに紫垂月頼宗、彼はここにとどまっていた。現実と夢、夢といっていいものかわからないが、魂が半分もっていかれたような中で彼はおそらく何か勘づいていたのかもしれない。ことが成ると。
知らぬうちに過ごした二日、三日はカレンダーを見ればわかる。タイムスリップなどというものではなく、ただ単に妖魔の力にあてられただけだ。
——三日、横たわっていたからだは案外動いた。
池の中で目が覚めるというおかしな展開ではあったが、なんとなく覚えている。誘われたのだろう。青嵐の、無意識の中にある意識に。
しんとしている。息づくものが見当たらないくらいに。
「君が眠っている間、大蛇の彼女が来たよ」
「大蛇。お聞きになったのですか」
彼女があの白い大蛇だと聞いたのは、夢の中の出来事であったけれど、現実でもそうだったのだろうか。
「彼女から聞いた。君の過去を」
「招いたのですか」
「そうだね」
彼女は招かれなければ入れない、といっていた。他に招く人間がいてもきっと招かれないだろう。そもそもひとが、いないから。
「どうにかしなくてはいけなかったから」
続けて、そう呟いた。
「あなたには助けていただいてばかりですね」
視線を落とす。過去も、現在も、彼がいなければこの命はとうになかった。
「そう思う?」
「思います」
「そうしたらここから見事、出なくてはいけないね」
頷く。植柾國雪が妖魔であることは間違いない。この目でたしかに見たのだから。
強大な力をもっているであろうあの妖魔は、自身にあのような夢——のようなものを見せて何をしたかったのか。
「君は夢を見ていると彼女から聞いたのだけれど」
やはり、夢だったか。あのさまは。
「ええ。植柾國雪の屋敷に入る手筈をととのえ、屋敷に入れば妖魔の巣、奥座敷に踏み入れば足を取られる。そのような夢です」
言葉にまとめればなかなか情けなくて恥ずかしいありようだ。恐縮しながら答える。
「それと、彼女を訪えば常にいました」
「へえ」
何かを考えるようなそぶりで、ちら、と中庭を見やる。
黒い影がすっと視界を撫でるように横切った。
「噂をすればだ」
中庭と部屋を隔てる硝子戸が、ノックをするように震える。
片膝をたてながら庭に視線を落とすと、大きな白い蛇がとぐろを巻いていた。
「……」
ひとつ、呼吸をしてから戸を開ける。白い蛇はたやすく、するするとこの部屋に入ってきた。
「ようやく目が覚めたわね。坊や」
「ええ」
「わたくしと植柾國雪の話をしましょう」
白い蛇は長い首をもたげ、人間の女の姿に変化した。
「そこの刀神と約束をしたのよ。目が覚めたら全てを話すと」
紫垂月頼宗を見やる。彼はいつも通りの表情で、緩やかに笑んでいた。
「わたくしと植柾國雪は——出会った頃はまだ彼は青年だった。とっても無邪気な」
白蛇の姿をしたわたくしを指先で持ち上げて遊ぶような、物おじしない男だった。そのときわたくしはこの地に招かれたばかりで、力もそうなかったから。そう、わたくしを沖縄から招いたのは植柾國雪の父。彼は信心深く、わたくしを丁重に招き入れた。わたくしの家にちいさな神社があったでしょう。あれがわたくしのやしろ。國雪の父がつくらせたものよ。今は長い間潮風に当たってあんなボロになってしまったけれどね。
坊やみたいに話せはしなかったけれど、國雪とはいい関係だったのよ。それが二年くらい、続いたかしら。國雪はどこからかやってきた女と夫婦になった。子を産み、育て、その子も大人になり、嫁をとり、そしてまた子を産んで育てている。國雪の息子は影子の夫。そしてその子どもは夕乃。國雪から見れば孫娘。その子の命と引き換えに、國雪は死んだ。妖魔に殺された。本当は夕乃の——産まれたばかりの、みずみずしい命を取るようだったけれど、國雪が身代わりになったのよ。どうして天照に相談しなかったって?それはね、信頼していなかったから。天照という組織を。この島は一見、広くても狭い。その中ではぐくまれるものと言ったら、身内への異様な執着。我が身かわいさでよそ者を拒絶するのは当たり前のことだったのかもしれないわね。
——だから國雪は躊躇わなかった。夕乃よりも老い先短いから、というのは建前だったかもしれない。國雪の父の代から、この島は徐々に廃れていった。そう、わたくしを招いたのは守って欲しかったから。この島と、自分の家族を。けれども心労もあったのでしょう。そして、逃げたいと思ったのかもしれない。絶対的で揺らがない、豪商、大地主という地位から。それももう昔のことなのにね。妖魔はその心につけ込んでからだを奪った。わたくしは、なにもできなかった。屋敷に招かれることがなかったから。このことは、わたくし以外誰も知らない。けれど、そうね。影子は知っているかもしれない。彼女の血筋はわたくしがもともといた場所と似通っている家だったから。わたくしのやしろにあいさつにきたときも、何かを知っているふうだった。
勝手に疲れ切って勝手に絶望して妖魔にからだを明け渡した國雪は、きっと斬られることを望んでいる。
けれど身内にこんなことをさせられないから、まだ意識が少しだけあった四年前に天照に噂を流した。すこし不思議なだけの、昔話としてね。
そして実をつけたの。それがあなたがた。刀神、紫垂月頼宗。刀遣い、雲井青嵐。
わたくしとしても、これ以上、國雪の中にいる妖魔の狼藉は許せない。低級の妖魔を使って数多外部の人間を喰ってきた存在、通称デクマワシ。そしてそれと対をなす存在——あなたを夢に落とした妖魔、通称ユメワタシ。二つの妖魔が、それぞれ國雪の左目、右目に住んでいる。
國雪を助けてやってちょうだい。その手で斬って、自由にしてあげて。
女は、語った。
國雪の父が沖縄に置き去りにされた女を招き、やしろを建てさせて祀り、その息子、國雪と交流を続け、人間の営みというものを目の当たりにしてきた。青嵐ができなかったことを、植柾家はしてきたのだ。
ほのかな灯火を彼らは手渡した。薄い、仄暗い影とともに。
「……そうでしたか。そう、繋がりましたか」
滔々と、縁の糸は繋がっていた。
そうならば、斬らねばならない。必ず。天照の刀遣いとしての矜持と、女に対するわずかな贖罪の気持ちをもって。
ひとの皮を被った妖魔を斬れる、斬れないと言って惑うことも、もうない。。
「主、斬れるね」
彼は青嵐の出した答えを知ってなお、問う。あえて覚悟を決めさせるように。
「斬ります。私の手で」
「そう。安心したわ。その言葉に二言はないわね。足がすくむような真似をしないでちょうだい」
すっ、と女は立ち上がった。しずかすぎる部屋の中で絹の擦れた音が響く。
「ユメワタシがいつ、また坊やを夢に落としてくるか分からない。急ぎましょう」
現実味のある夢だった。見せる夢が現実味があればあるほど、目覚めることが難しくなるのだろう。夢だと分からなければ、死ぬまで床につかなければならないのかもしれない。
外は静かで日も暮れ始めている。ただ、鳥や虫の鳴き声がするばかりであった。
もとから打ち捨てられた島の一端のように。
その景色を、青嵐は知っていた。生まれ、育った島のそれとよく似ていたからだ。
閉鎖的な島だった。その分、穏やかなひとびとが多くいた。
島外の人間をよそとし、島内の人間をうちとする悪習。それはおそらく、怯えからくるものなのかもしれないと、最近思うようになった。
自分とちがうということへの怯えと、恐れ。
なんて視野も世界も狭い、軽々しい恐怖だろう。それを、自分も周りも理解しないからこそ、思いいたることもない。歩み寄り、会話すらしようとしないのだから当たり前か。
——左手の中の紫垂月頼宗が重たく感じる。落とすなどという無礼なことはしてはならない。言い聞かせ、奥歯をそっと噛んだ。
背を少し曲げ、するりと懐から降魔が降り立った。
にゃあご、と赤い口内と白くちいさな牙を覗かせて鳴く。彼女は早足で坂を駆け、やがてその姿は見えなくなった。
「偵察に行かせました。擬人式神では焼かれて終わりですから」
「それは、夢のなかのこと?」
「ええ。飛ばした式神はみな、帰ってはきましたが焼かれていましたから」
ユメワタシがどういう経緯で人間に夢を見せるのか。おそらくだが外部から来た人間、そして植柾國雪の敷地——妖魔の領域に入り、直接見ることが条件だと考えている。そうでもなければデクマワシ、ユメワタシが喰った被害者は倍増していたことだろう。
「出来うる限りの対策はしました。両妖魔への。もう夢に落ちることもないでしょう」
呟きながら、静寂を占める坂を登ってゆく。
茅葺き屋根と、門が見えてきた。
迷うことなく門をくぐり、踏み込む。女は門の前に立っている。やはり、招き入れなければならないのだろう。
「……いい加減、名前を教えてくださいませんか」
女はただほほ笑み、立っている。
「名前を知ったからと言って貴女の心も力も、その体も縛ろうなど思っていません」
「ほんとうに人間は不便ねぇ。名前がないと呼べないのだから」
「私は、人間として申し上げているんです。かつての過去も今も、私は貴女を呼んだことがない。年月は流れた。私も変わった。……貴女も、変わった。変化が必要です。人間にも、神にも。不変などこの世にはない。どれほど信仰し、願ったとしても時の流れというものには逆らえない」
「そうね」
「時も、我々も進むしかないのです。神代の伊弉諾尊、伊弉冉尊の二柱が大和をつくりたもうた——そんなことはどうでもよろしい。神も人も、過去ではなく、今を生きている。その二柱がつくろうがつくるまいが、日本という国はあって、過ちを犯しながら今に至っているんです」
「あなたのいう琉球が、踏み躙られ蹂躙され、自由も尊厳も奪われたというのに、あなたは大和に足を踏み入れた。そして太陽神の名の組織に組み込まれた。今でも許せていないというのに、大和を信じたいというの?」
風の音、虫の鳴き声が大きくなってくる。鳥はすでに自らのねぐらに帰り、息を殺して朝をじっと待っている。
「……ええ、そうです。私は憎んでいる。大和に住む人類を。けれど、触れてしまった。彼らの優しさに。彼らのいとなみを知らず知らず愛おしみ、認め、そして信じたいと思った。誰が悪いかなどもうどうでも良いのです。当事者は死に絶えたのですから。私はただ、美しいと思った。大和の海も、花も、ひとびとの心も、大和に住む刀の神々も」
喪服の大蛇はただ青嵐の言葉を噛み砕くように佇んでいた。
「紫垂月頼宗」
青嵐のくちびるがゆっくりとその名をかたどる。
「私の刀。私の神。私のただひとつの月。貴女はもう、私の神ではない」
「変わったわねぇ。坊や」
人間の男の、粘ついた独占欲に彼女はただ笑んでいた。自分の子を見るような目で微笑ましそうに、目尻をそっとゆるめている。
「人間の心は移ろい、強い縁を求めて紡ぎ、繋いでいく。そうね。あなたもわたくしのことを忘れてくれるのでしょう。いつか、きっと」
「ええ。きっと」
「——神という存在は、つねにヒトとあった。その中の、たった数十年しか生きていないヒトの子ひとり、どうということもないわね。あと二十年もすれば、あなたも消えるのだから」
——惜しくはないかと問われれば、惜しいに決まっている。けれど命の使い道を決めたのなら、その感情に従って生きていくだけ。
単純なものである。
惜しいと言いながら手を伸ばすことを躊躇い、離れてしまうことを恐れ、手を伸ばそうとする。その手を振り払われることを恐れながら、となりを歩きたいと願う。
矛盾に満ちた、身勝手な人間。それが雲井青嵐という男であった。
高尚で高潔で、欲がなく、常日頃を清く正しく緩やかに、日々を慈しみながら生きている。そんな姿はただの隠れ蓑、まやかしだ。皮を一枚剥げば欲深く、欲に溺れ、欲に爪を立てて縋り付くような男であり、愛した神に嫌われることを唯一恐れている不器用でお粗末な、ただの人間の男。
「……私は欲深いなりに、貴女のおっしゃった通り、身の振り方というものを考えていますので」
「ふふ。どの口が言うのかしらね。良いでしょう。わたくしの名を、あなたがたに告げます」
彼女は説くように囁き、こういった。
「わたくしは薬宮蛇神。かつて大和の国で生まれた神の幻影です」
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