狼嵜選手は、オリンピックで銀メダルを獲得した次のシーズンに、海外のクラブに移籍していた。そして、一年で再び日本に戻ってきたようだ。
彼女はシニアになってからジャンプの調整に苦心していた印象がある。
とはいえ、彼女はずっといのりさんの最大のライバルで、いのりさんがオリンピックに出場したシーズンのグランプリファイナルと世界選手権では金メダルを獲得していた。
その狼嵜選手が何故か、スターフォックス所属のコーチとなった俺と、純さんの仮の姿であるJさんをコーチにしたい、と希望してクラブを訪れていた。
「狼嵜選手、昨シーズンのプログラムも素晴らしかったよ。今までとは振り付けのイメージも変わって
……」
「ありがとうございます。では、本題のお話を」
俺と狼嵜選手は、スターフォックスのミーティングルームで机を挟んで向き合っていた。俺の隣にはアッシュブロンドのウィッグと黒いアイマスクを着けた純さんが無言で座っている。
俺は狼嵜選手の眼力を正面から受けてたじろいでいた。隠していることがあるから、余計に。
「えーと
……、俺とJさんをコーチに、って希望してくれたのはとても光栄なんだけど、俺もJさんも専属のコーチは引き受けていなくて
……」
トップ選手の専属コーチとなれば、シーズン中は選手にほぼ付きっきりのスケジュールになるため自由がきかないし、パスポートの問題があって純さんを付き合わせるわけにはいかない。俺が純さんを置いて海外に行くのは、多分
……というか絶対に嫌がるだろう。
俺も純さんと何日も離れたくはない。
いのりさんが再演ではなく新しいアイスショーをプロデュースするという企画も始動中で、俺と純さんは出演が内定していた。純さんが俺と一緒なら出演する、と乗り気だったからだ。
「専属でなくても構いません。次のオリンピックで金メダルを取るために
……私のジャンプにはコーチ
……J先生が必要です」
じっと見つめられて、これは謎のロシア人Jの正体がバレてるな、と確信した。
(中略)
「明浦路先生、この度は光のコーチをお引き受けいただきありがとうございます」
「うわあああ! 鴗鳥先生っ、頭を上げてください!」
光さんと契約した翌週、俺のマンションに鴗鳥先生が訪ねてきた。玄関先で深々と頭を下げられて焦る。
「慎一郎くん
……老けたね」
一緒に玄関まで出てきていた純さんが率直すぎる感想を述べる。電話では話したけれど、鴗鳥先生と純さんが直接顔を合わせるのはこれが初めてだ。
「ちょっと、純さん!」
「はは、今年で四十六になるからね。純くんは、僕が知る限り、今が一番健康そうで生き生きしてるように見えるよ」
「うん。司くんが毎日可愛いから、一緒に食べるご飯も美味しい」
「ななな何言ってるんですか!?」
「純くんから
惚気られる日が来るなんて、感慨深いよ。幸せそうで良かった」
年を隔てた親友同士の会話に挟まれて、焦っているのは俺だけだった。
「今日は、これを渡そうと思って
……持ってきたんだ」
住所や連絡先が書かれた紙と共に、三枚のカードがダイニングテーブルの上に並べられた。
「これは
……?」
「失踪した純くんから預かっていた、マンションのカードキーです。三部屋分あります」
(中略)
俺は、純さんと二人で名古屋市のマンションを訪れていた。名港のスケートリンクで、理凰さんの振り付けをするついででもある。
カードキーを読み取り部に押し当てると、カチリと鍵が開いた音がした。
「おじゃましまーす
……」
勝手に入っていいのかなぁ、という気もするけれど、純さんが引き継いだ以上、中に何があるのかわからないまま放置しておくのも良くない気がする。
純さんは『部屋とその中身は僕と司で好きにして大丈夫』と確信めいた口調で言っていたので、それを信じることにした。
ドアを開けて入った玄関は、埃ひとつなく綺麗で、当然ながら人が住んでいる気配はなく、しんと静まり返っていた。
共用廊下に避難経路図が書かれたフロアマップがあったけれど、このワンフロアの三部屋は全部、夜鷹さんのものだ。一部屋だけでも、今俺が住んでいる部屋より広い。
純さんは靴を脱いで遠慮なく上がり、手近にあった部屋のドアを開けた。
「
……うわ」
部屋の中を見て思わず声を上げてしまう。
そこには、ラックに収められた黒いスケート靴がずらっと並んでいたからだ。
どの靴にも使い込んだような傷が入っている。
「これ
……」
「僕が使ってた靴だね」
純さんが室内に入っていく。
「ずっと、捨てずにとってあったんですね。それにしても、すごい数
……」
「
……僕は高いジャンプを跳ぶから、靴が傷みやすくて
……短い時は二ヶ月で替えてたよ」
それは靴代だけですごい金額になりそうだ。
全部同じサイズかと思いきや、端の方に子供用の小さい靴が並べてあった。
「わっ、小さい! 可愛い〜! これ履いてた時期があったんですね」
俺は小さい靴を見てテンションが上がったけれど、純さんは何だかむっとしている。
(後略)
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