階段を一段一段降り、踊り場で反転して、また降りる。それを三回繰り返して一階の待合室に到着すると、そこはしんと静まり返っていた。はっはっと弾む自分の息と、自動販売機が立てるジーッという音がいやに大きく聞こえる。
「ああ……日曜日か」
明かりも点いていない待合室は、ホラー映画に出てくる廃病院そのものだった。映画のセットはきちんと現実を再現しているんだなぁなどと呑気なことを考えて、合皮張りの椅子の間をすり抜ける。公衆電話と並んで置いてある冷水機で水を飲もうと身をかがめると、右の下腹がずきりと傷んだ。
「あれ?」
後ろから聞き覚えのある声が飛んできて、一之倉は振り返った。また、ずきり。
「もう動いて大丈夫なのか?」
大きな目を見開いて駆け寄ってくる松本は、見慣れたTシャツとバスパン姿だ。一之倉はなんとなく、水色の浴衣の合わせをぎゅっと握りしめた。
「ああ、うん。内臓が癒着しないように、歩いたほうがいいって言われて」
「そうなのか! 思ったより元気そうで良かった」
「……松本、今日、練習は?」
「ああ」
松本は右手に持っていた紙袋を広げてみせた。
「今は昼休憩。これ、みんなからの見舞い」
ぱんぱんに膨らんだ紙袋の中には菓子や雑誌やマンガが詰め込まれて、今にも底が破れそうになっている。
「せいぜい一週間の入院なのに、大げさ」
「そう言うなよ、みんな心配してるんだ。病室どこだ? 俺が持っていくよ」
紙袋を閉じてエレベーターに向かおうとする松本の手を、咄嗟に掴んだ。
「それより、ちょっと付き合ってよ」
そのままエレベーターの前を素通りして、階段へ向かう。ぺたぺたというスリッパの足音と、きゅっきゅっと鳴るランニングシューズの足音。二階を過ぎたあたりで、一之倉の額からはぽたりと汗が垂れた。誰よりも長く走り続けられるはずの脚が萎えそうになる。それでも休憩はせず、後ろを振り向かず、松本の手を引いて登り続けた。松本も無言でついてくる。
最後の踊り場を抜け、階段の先にある扉を開けば、真っ白い波が二人を出迎えた。
薄水色の空の下、無数のシーツがぱたぱたとひるがえっている。ドラマの中でしか見たことのない光景に、二人はしばらくぼんやりと立ち尽くした。鉄筋コンクリート造の四階建てはこのあたりでは一番高い建物で、空を遮るものはない。東側には山の稜線が、西側には日本海の水平線が見える。
ぐるりと見渡そうとすると、下っ腹がまたじくじくと傷んだ。走りまくって脇腹が痛くなるのとは違う、もっと表面の痛みだ。ガーゼに隠されたそこをまだ直接見てはいないけれど、術後の説明を受けた母は「傷口がどす黒くなってて、これ本当に大丈夫なのかしらと思った」らしい。
「おお、いい景色だなぁ。病院の屋上って、ほんとにこんな感じなんだな」
素直に感心してみせる松本にふっと息を吐いて、一之倉ははためく洗濯物たちに背を向けた。今度は松本が、一之倉の腕を引く。
「一之倉、本当に大丈夫か? 汗、すごいぞ」
「こんなとこで足踏みしてらんないでしょ」
上半身だけをひねって、松本を見上げる。痛みに顔をしかめそうになるのをなんとか我慢する。ちゃんと勝ち気な顔ができただろうか。
「松本こそ、こんなとこで油売ってていいの? ちゃんと練習しないと、俺が復帰したら即ベンチ外されるかもよ?」
「……そうはさせねぇよ」
逆光のなかでも、松本がぎゅっと目を細めたのがわかった。コートの中で見せるのと同じ眼光。傷口ではなく、胸がきゅうと痛む。
一之倉はもう一度浴衣の合わせを握りしめて、手のひらの汗を拭った。それから松本の手から紙袋を奪って、ひょいと持ち上げてみせる。
「じゃあもう練習戻りな。これはありがたくもらっとくからさ」
松本はいよいよ眩しそうに目を細めた。
「カッコいいな、一之倉は」
それはお前だろ、とは、今はまだ言えない。
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