ちゆき
2025-09-09 22:20:04
1755文字
Public ワンドロ
 

恋の予感

2025.9.9 非公式スタバレワンドロお題「夏の花」
セバスチャン×女牧場主(ネームレス)

 引っ越してきて翌年の夏の二日目、ポピーを育てたいのだと山から一人の男がこの牧場まで降りてきた。彼の名はセバスチャン、自他共に認める町の変わり者だ。真夏であるにも関わらず頭から足の先まで真っ黒尽くめの彼は朝も早くに牧場の裏口から現れたかと思うとそんな世迷言を言ってのけた。
「うちのポピーからはあなたの望むようなものは取れませんけど?」
「別に間に合ってるよ」
「間に合っちゃだめだし……でもなんで?」
 ポピー、ケシ科に属する色鮮やかな花。それを彼は育てたいのだと言うけれど、この観賞用の花には生憎彼が母に隠れて摂取しているようなものなど一切含まれていない。ましてやこの男は春の祭りの際に花など嫌いだと言って憚らず、そうしたいと望む理由が見当たらない。見当たらないが種まで買ってきたのだと言われてしまっては仕方もなく、私は畑のひと区画を貸し出した。

 セバスチャンの植えたポピーの種は十二粒。その長い前髪が汗で額に張りつくのを見てどうせすぐに根を上げるだろうと思い、スプリンクラーでも置いてみてはどうかと提案した。しかしセバスチャンはそれに首を振り、毎日水をやりにくると言う。だからじょうろの場所を教えてあとは好きにして構わないと伝えたところ、彼は本当に毎日欠かさず山から牧場までやってきた。
 本当になんの熱意があるというのか、別に高く売れるわけでもないし危ない成分もない。ましてや花が嫌いなくせに燦々と照りつける太陽に文句を言ってまでどういう風の吹き回しなのだろう。ただ色彩豊かなこの牧場にたったひとつ異物となるその黒が、次第に私のお気に入りの色になっていった。

 しかし夏の陽気は長くは続かずそれは突然やってきた。なんとも運の悪いことにポピーが翌日にも見事に咲き誇るであろうというその日、この谷を嵐が襲ったのだ。天気予報であらかじめ備えることはできたものの間に合わせのネットを被せただけでどうにかなるはずもなく、私の育てた作物も少しやられてしまいセバスチャンの育てたポピーもそのほとんどがだめになってしまった。
「やっぱりだめだったか?」
……セバスチャン」
 嵐も去り美しい夏空の広がる早朝、セバスチャンは律儀に牧場へとやってきた。そこかしこに浮かぶ泥も気にせず駆けてきたかと思うと、ポピーの花壇の前で項垂れていた私のそばへしゃがみ込む。
 彼の植えた十二輪のうち残ったのはたった一輪だけだった。オレンジ色のそれは朝露を受け綺麗に輝いていたが、それ以外の土に横たわる花々を見て私は溜息を吐いた。
「せっかく育てたのにね……
 指先で倒れた茎を支えてももう元には戻らない。その姿に私はじわりと目の奥が熱くなるのを感じた。夏だから嵐がくることもなんとなく予想はしていたのだ。どうせなら温室で育ててあげればよかった。せっかくこのずっと地下室に篭りきりのこの人が花を育てたいとそう言ってくれたのに──悔しさに震える唇を噛み締めたときだった。セバスチャンの指がそのポピーを容易く手折り、そうして私の目の前にそれを差し出したのだ。
「本当は花束にしたかったんだがな」
……え?」
「やっぱりこれだけじゃ足りないか? でも来年までは待てないよ」
 そうこちらを覗き込み微笑むセバスチャンに私は言葉を失った。長く谷に住むこの男が花束の意味を知らないはずなどない。それなのにどうしてそんなにやわらかく目を細めて私を見つめているのか、答えを待つようにセバスチャンはなにも言わずただオレンジに輝くポピーを傾ける。花びらに浮かんだ朝露がぽたりと滴って、またひとつ、もうひとつと私の抱え込んだ膝を濡らした。
……煙草やめてくれる?」
「煙草でよければ」
「だめ、やっぱり全部やめて」
「わがままだな……
 セバスチャンの指が私の俯き隠れているはずの眦を優しく拭う。夏なのに少し冷えた指先はどこかぎこちなく、けれど私はそれをどうしようもなく心地よいと思ってしまって、だからその可憐な花を受け取った。
「でもいいよ。お前がいればなにもいらない」
  ポピーの花言葉、十二輪だった意味。そして偶然残ったオレンジ色の花。私がもう一度種を買いに行こうと呟くと、セバスチャンは私の頭を抱き寄せこの髪にそっとキスをした。