史加
2025-09-08 23:36:04
5524文字
Public zzz(アキ悠)
 

『いつかあんたのものにして』

アキ悠/『月が綺麗だね』の悠真視点と続き。単品で読めます






 目から遠くなると心に近くなる、ということわざがある。物理的に相手との距離が離れると、かえって想いが募り相手のことを意識してしまうという意味だ。
 そのことわざを紡ぎ出した文豪の生まれた国にはほかにも多くの作家が存在し、いくつもの物語が生まれた。その物語をほかの国の、異なる言葉を持つ人間が訳し、人種や国籍といった垣根を越えて広めていった。訳す者もまた言葉を操ることを得意とする者であるから、ときにはそこで原作にはない、ロマンチックな意訳が与えられることもあったという。
 すべてはこの世界がもっと広々としていて、新エリー都という人類最後の都市が生まれてすらいなかった頃の話だ。まるで御伽話のようだが、それらの逸話とことわざが今も残されている時点で、確かにそういう時代がこの世界にはあったのだろう。
 歴史という礎の上に築かれた人類の生存圏で、今日も誰もが逃れることの出来ない死の気配や喪失の痛みを知った身で、それでも希望を見失うことなく生きている。
「秋といえば食欲、読書、スポーツ、芸術だっけ」
 涼やかな夜風に吹かれながら、悠真はぽつりと呟いた。目の前には半球体に見えるホロウの禍々しい光があり、夜の帳の降りた空には丸い月が輝いている。見慣れたポート・エルピスの夜景だが、今日の月は常よりも色が濃い。茹だるような暑さに苦しめられた夏も気付けば終わり、新エリー都には次の季節が訪れたようだった。
 秋は気温的には過ごしやすい一方で、自分自身を上手くなだめるのに苦労する季節でもある。悪夢に苛まれ目を覚ましてから朝を迎えるまでの時間が長いから、こうしてふらりと部屋を抜け出して風に吹かれたり、ぼんやりと空を見たりする日が増えるのは悠真にとってお決まりだ。そんなことが「お決まり」になっているのは世間一般的にはいいことではないけれど、悠真にとって変化がないというのは、そう悪いことでもなかった。
 秋といえば食欲の秋。読書の秋。スポーツの秋。芸術の秋。思い浮かべたものを順番になぞり、どれも自分には当てはまらないな、と肩をすくめる。悠真はあまり食に執着するほうではないし、紙という媒体自体は嫌いではないが、文字のぎっしりと詰まった本を読んでいると睡魔に負ける。スポーツに関しては、年中無休でパルクールと弓道と剣道を合体させてめちゃくちゃにしたような仕事をしているので論外もいいところ。芸術と言われても、絵画や陶芸、彫刻といったものに惹かれる心もない。まあ当たり障りのない毎日を過ごせていれば十分ってね、とひとりぼやいた。
 実際のところ、他愛のない日々は悠真にとって贅沢品に等しいものだ。ただ、もしも「秋」というものを満喫するのなら、食欲は蒼角、スポーツという名の修行は雅、読書は柳に任せて、彼女らがそれを楽しむ様を鑑賞することを「芸術」とでもこじつけておけばそれっぽいかたちにはなるだろうか。とりとめもないことを思いながら月を見上げて、ゆっくりと息を吐き出す。
 芸術といえばもうひとつ、思い浮かぶものがある。アートを扱った映画だ。そして映画といえば、脳裡を過ぎるひとがいる。
……映画鑑賞も、芸術の秋ってやつになるのかな」
 ぽつりと呟くと、目の前の月がいちだんと明るくなった気がした。熟れきった果実を握りつぶしたように胸の奥が痛くなって、悠真はたまらず唇を引き結ぶ。発作とは異なるこの痛みにはまだ慣れていないから、表情を崩さずにいるのが難しかった。
 アキラ。六分街にあるビデオ屋の店長のひとりで、悠真の友人であり、命の恩人であり、いつか必ず訪れるお別れのあとも笑っていてほしいと願うひと。
 彼が妹共々衛非地区へと一時的に拠点を移してから、気付くともう季節ひとつ分の時間が過ぎていた。それまでは頻繁に会って一緒に遊んだり、ただ風に吹かれたりして顔を合わせていたのに、今となってはノックノックで近況報告をするばかりでもうずいぶん長いこと会えていない。夏のバカンスシーズンに六課全員で休みを取り、ファンタジィ・リゾートへ遊びに行ったときに姿を見かけはしたけれど、そのくらいだ。予定を合わせて一緒にリゾートで遊んだり、賑やかな場所から少し離れて風に吹かれたりすることなく、まばゆい夏は終わった。
 悠真も悠真で、残念ながら暇人ではない。六課の緊急出動の回数が減る気配はないし、ままならない身体はときおりまとまった休みを必要として、その間はノックノックに文字を打ち込むことすら出来なくなる。立場があるから、何の用もないのに衛非地区までわざわざ会いに行くなんて真似も出来ない。かといってすっかり開いてしまった距離が悠真からアキラの存在を薄れさせることもなく、むしろありとあらゆるものから彼のことを思い出さずにはいられなくなる体たらくで困ったものだった。
 夜風が悠真の頬を撫でて、黄色のハチマキを静かに揺らす。秋の夜は肌寒い。真夏のあの暑さが嘘のようだ。見上げる空には太陽と寄り添い合うことの決してない月が寂しげに佇んでいて、つい唇が震えてしまう。
「アキラくん……
 名を呟いた瞬間、ポケットの中にねじ込んでいたスマホが振動した。悠真ははっと我に返り、素早くスマホを取り出す。緊急招集の知らせであればこんなところでうつつを抜かしている場合ではない。夜中の連絡に速やかに反応するのは、身に染み付いた行動だった。
 着信ではなくメッセージの受信であることを確かめて、ひとまず緊急性はなさそうだと悠真は肩の力を抜く。けれど送り主の名を確かめて、また身体を強ばらせる。今しがた脳裡に思い描いていたそのひとの名前が都合よくディスプレイの上に表示されていれば、そうなるのも当然だろう。
 逸る気持ちを抑えながら画面をタップして、メッセージ画面を開いた。
『月が綺麗だね』
 送られてきたのは陳腐な一文だった。
 けれどそれは文字通りの意味を指すばかりのものでもない。脆弱な心臓が軋みを上げて、は、と唇から息がこぼれ落ちる。
 一体何を意味してアキラは悠真に突然こんなメッセージを送ってきたのだろう。草木も眠る、こんな、何の変哲もない秋の夜中に。
 普段の悠真ならそこに秘められた意味を慎重に探り、考えて、当たり障りのない返事をするように努めていただろう。けれどホロウでは斥候としてよく回る頭も、ひとより優れた洞察力も、今はすべて月明かりに惑わされてしまったのか上手く働かない。真意を探るでもなく、指先はただ正直に返信を打つ。
『そうだね。あんたと一緒に見たいなって思ってたところだよ』
 送信のボタンを押してから、悠真は我に返った。メッセージの隣にはもう既読の文字が浮かんでいる。誤魔化しがきくのは長く見積もっても三十秒以内だ。それだって簡単なことで、「なんてね」と付け足すだけ。そうすれば少なくとも悠真の本心がアキラに伝わることはない。もっと言うと、誤魔化したほうがいい。そう思うのに、指先はぴくりとも動いてくれなかった。
 雲ひとつない快晴の空に浮かぶ月の光が、そんな悠真の手元を照らしている。どうやら今宵の月は、嘘をゆるしてくれないらしい。
 三十秒が経った。悠真は淡々と画面を操作して、電話の発信ボタンを押す。呼出音を三回鳴らして出なかったら今日はもうスマホの電源を切って家に帰ろうと、この期に及んで抵抗を試みる。
 ――こんな夜中に起きていて、わざわざメッセージを送ってくる男が、この短い間に寝落ちることも、着信に気付かないことも有り得ないというのに。
……悠真?』
 一回分、鳴り終えるか否かといったところで、耳に馴染む声がスマホの向こうから響いた。
 ただ名前を呼ばれただけなのに胸の奥のやわいところが熱を帯び、瞬く間に頬まで伝播する。
「久しぶり、アキラくん。こんな夜中に突然熱烈なDMを送ってくるなんて、何か悩み事でもあった? それとも、僕に会いたくなっちゃったとか?」
 茶化すような言い方をしたものの、その声は普段よりもずいぶんと静かで、重みのあるものになってしまった。
 半衝動的に電話をかけてしまったが、アキラの胸のうちがわに悠真と同じ熱が存在する保証はどこにもないのだ。それに彼が寝付けずにいるのは、なにか思い悩むことや、気がかりなことがあるからかもしれない。身勝手な期待が自らを滅ぼすことに対する怯えと、純粋な心配とが今になって追いついてきて、緩み切った悠真の喉元を絞め上げようとしている。それでも抑えきれない情と信頼が、悠真を突き動かそうとしている。
 アキラはすぐには答えなかった。覚悟を決めるための沈黙の時間を与えられて、悠真はひそやかに胸を撫で下ろす。
 火照った頬を撫でる夜風の冷たさが心地よい。すぐ隣にアキラの存在を感じられないのは惜しいけれど、今はいなくてよかったのかもしれない。きっと隣にいたら、彼が心の準備を終えるのを待つこともせずに悠真はその手を握り締めて、自分のうちがわにある熱の存在を伝えてしまっていただろうから。
 しばしの静寂のあと、意を決したように息を吸う音が響く。
……そうだ。君に、会いたくなった』
 次いで紡がれた言葉に、心臓は落ち着いたままだった。もっと盛大に跳ね回るものだと思っていたから、不思議だった。
 顔を上げると、夜の帳の降りた空にひときわ明るくなった月が佇んでいるのが視界に入る。太陽には寄り添えないけれど、その光を反射して輝き、空にその存在を知らしめる姿がこうも美しく見えたことなど一度もなかった。眠れない夜に気にかけるべきは自分の身体と、自分に残された時間であって、こんなふうに自分以外のものに思い馳せて過ごすことを知ったのはここ最近のことだから。
『君は?』
 短く問う声にわずかな緊張を感じ取って、思わず悠真は笑みをこぼす。もしかするとあの熱烈なメッセージは、悠真が通話ボタンを押したのと同じように、彼もまた衝動に任せて送ったものなのかもしれない。だとしたら自分たちは気が合うようだ。
「さっきメッセージで伝えた通りだよ」
 少しずるいかもしれないと思いながら答えると、スマホの向こうで苦笑う気配がした。
 何の飾り気もない言葉を伝えてみたってよかったけれど、最初にそうしなかったのはアキラのほうだ。ならば素直な言葉はこの指先の温かさをきちんと伝えられるときまでとっておくべきだろう。
 かつてとある文豪は愛を謳う言葉を「月が綺麗だ」と訳したという。色恋には疎いほうに分類される悠真でも知るくらい、有名な話だ。しかしその真偽については諸説あり、結局のところそのひとにしか正解はわからない。大衆によって後付けされた解釈がそのひとしか知り得ない真実を隠し、「本物」に取って代わってしまうことはこの世界ではごまんとある。だからこそ悠真は徹底してアキラに傷をつけなければならない。悠真が容赦をしてしまったせいでアキラが悠真の言動に誤った解釈を添えてしまうのは、本意ではないからだ。
「そういえば、ある作家が愛の言葉を「私、死んでもいいわ」って意訳した、なんて話は聞いたことある?」
 そっと目を伏せて、悠真は問いかけた。
『ああ、知っているよ。けれどそれは間違いのはずだ』
「さすがだね。こういった雑学にも精通してるのはあんたなりの処世術のひとつとか?」
『想像におまかせするよ。でも、意外だな。まさか君がそれを知っているなんて』
「たまたま見かけたときに気になったんだよね、どうして「死んでもいい」なんて意訳になったのか。それでちょっと調べたんだ。もちろん、それが真実なのかも今の僕らには確かめようもないんだけど、こういうのって意外と面白いよねぇ」
 話しながら、その解釈にまつわる記事を読んだときのことを悠真は思い出す。アキラと出会い、師匠との一件がひと段落ついたあとの、かなり新しい記憶だ。
 なかなか興味深い内容だったし、熱烈だとも思った。
 死んでもいい、なんて、たとえ文字通りではない意味を伝えるための台詞だとしても悠真は口にしたいと思わない。けれど気持ちとしては十分にわかるし、それを読んだときに自らのうちがわに生まれていた願いの存在にも気付いた。今日のアキラにきちんと応えるのなら、ある意味これが相応しいのかもしれない。
 短い回想を終えた悠真は顔を上げた。橙に近い色合いをした月が映る。それはあの美しい碧のひとみにひとひら浮かぶ花びらの色に似ていて、胸の奥が苦しい。
……ねえ、アキラくん」
 あたたかなままの指先を握りこんで、名前を呼んだ。
 なんだい、とどこか余裕のない声が返ってくる。
 今、彼はどんな表情をしているのだろうか。この胸を焦がす想いの温度は同じだろうか。お互いを取り巻く様々な物事が落ち着いてまた会えたそのとき、今度はふたりで肩を並べて月を眺めることが出来るだろうか。すっかりかさを増した慕情に満たされた胸は窮屈で、じんわりと目の奥が熱を帯びる。
 ――限られた時間の中で悠真に出来ることなんてほんの少ししかない。けれどその「ほんの少し」を妥協せずに積み重ねて出来る限り引き延ばしていくし、少なくともまた改めて真っ直ぐな言葉と温度を伝えてみせるから、「死んでもいい」なんて言うまでもなく訪れるその日がきたらどうか、この願いに応えて欲しい。
 ゆっくりと唇を開いて、悠真は言の葉を紡ぐ。
 これが映画だったのなら、この後に待ち受けているのはふたりの再会と改めての告白、そしてキスシーンかな、なんて思いながら。