人が狼へと化けても不思議ではない満月が、緞帳を下ろしたウィルダネスの中天に懸かり、イミテーションの夜空を照らしている。煌々たる月夜は怪談をするにはうってつけだ。日頃、スーツケースの住人らの団欒の場となっている居間は何故か照明が落とされ、代わりに蝋燭の頼りない明かりが物々しい語り口に合わせて揺らめく。そのたび、辺りは独特の緊張感に包まれた。
「――太陽の光を嫌う吸血鬼は、日中は墓場でひっそり眠って過ごしているんだ。埋葬された棺桶の中でね。そうして日がとっぷりと暮れた頃、彼らは霧となって棺の隙間から這い出てくるのさ……。人間の血肉を啜るために……!」
フッと灯火が一度大きく揺れると、小さな悲鳴が上がった。
「まぁ、恐ろしいですわ……!」
恐怖に身を竦ませながらも、幼い淑女は好奇の光を宿した瞳を爛々と輝かせている。
語り部の熱は留まることを知らず、今まさに最高潮に達しようとしていた。
「だから僕は思うんだ。吸血鬼の生誕祭には、吸血鬼に相応しい棺桶が必要なんじゃないか、と!」
拳を振り上げ熱弁を振るう青年に、ぱらぱらとまばらに拍手が起こる。
その渦中にいたセンメルワイスは大きく息を吸い込み、深い徒労を滲ませ、長い溜息を吐き出した。
いいところに来た! と勢いよく呼び止められ、わけも分からぬまま茶番に巻き込まれていた彼女はにわかに疼き出したこめかみを押さえつつ、やっとのことで部屋の電気を点けた。パチッという音とともに室内は均一な明かりに照らされ、チープに演出された恐怖は瞬く間に霧散していく。
「……演説は終わったかしら?」
腕を組んだまま呆れを含ませて問いかけると、青年は得意げに胸を張った。
「どうだい、僕のプレゼンテーションは。この上なく奇想天外で誰とも被らない自信があるんだが、吸血鬼本人から忌憚のない意見を伺いたいッ!」
「結構よ。」
鼻息荒く訴える青年に、若き吸血鬼はぴしゃりと言い放つ。
「幸い、わたしの部屋にはもう充分快適なベッドがあるわ。この、棺桶みたいに密閉されたスーツケースの中にね」
「ふーむ。やはり、ヴァンパイアとダンピールでは性質に違いがあるのだろうか……ますます興味深い……」
酔狂なホラーマニアは忙しく歩き回りながら、少しもめげずにぶつぶつと独りごちる。
でしたら! と次に立ち上がったのは、熱心に傾聴していた幼い淑女だ。
「センメルワイス様、ケーキはいかがでして? しかも、普通のケーキじゃありませんのよ。わたくしが調合した『三日間眠らなくても働けるポーション』をクリームの中に混ぜ込んだ特製のケーキでしてよ!」
そいつはいいな! と同調するのは、隣で退屈そうに聴いていたロックな船長だ。
「しけた棺桶より、やっぱりパーティだろ! こう、盛大にロックとか流して、ケーキ食って、ドクターコショウを一気飲みしてさ」
「楽しそうですわね!」
リビングはいつも賑やかだ。密閉空間であることと引き換えに自由を手に入れた神秘学家たちは才能を持て余し、いつでも退屈しのぎに余念がない。財団が職員の基本的なプロファイルを公開している以上別段隠そうとしてなかったが、いつの間にか個人情報が出回っていて現在に至る。財団の調査員だった頃は誰にも連絡を渡していなかったから回避できたものの、限られたコミュニティの中では人の口に戸は立てられない。格好の遊び道具にされる前に、センメルワイスは先手を打つべく鉄壁の微笑を浮かべてみせた。
「申し訳ないけれど、ケーキもパーティも必要ないわ。そういうのは苦手なの」
「まぁ、そうでしたの……」
「気持ちはありがたく受け取っておくわ。ありがとう、ミス」
悄然としてしまった少女にフォローを添えつつ、吸血鬼は足早にその場を去った。
//
後日。短い任務を終えてスーツケースへ帰ってくると、居間には緑色の大きな帽子が宙に浮かんでいた。センメルワイスの姿を見つけるなり、帽子がひょこっと小動物のように動く。
「センメルワイス様! お待ちしておりましたわ!」
「わたしを?」
センメルワイスはわずかに瞠目した。
この貴族のお嬢様とは先日少し言葉を交わした程度で、ほとんど面識がない。自分を待つ理由に皆目見当がつかないでいると、小さな体をうずうずとさせながら少女は続けた。
「テーブルの上をご覧くださいまし!」
甲高い声に促されるまま視線を移すと、センターテーブルには大小さまざまな包みがいくつも並べられていた。
「パーティが苦手でも、プレゼントならいいんじゃないかってサザビーが言って聞かなくてさ~」
隣にいたロックな少女はずり落ちた帽子を被り直しながら、眠たそうにあくびを噛み殺している。
「みなさん協力してくださいましたの!」
緑のドレスが楽しげに揺れるたび、見慣れた景色が華やぎを帯びる。まるで彼女自身が賑やかなパーティ会場みたいだとセンメルワイスは思った。
他人の厚意を無下にするほど彼女は冷酷ではない。ふっと気を解いて、ひとつひとつ中身と差出人を確認していく。
ミス・カカニア。万年筆。彼女の趣味とは違って、黒のシックなデザインで使いやすそう。
ミス・マーカス。栞。薄く削られた木片に伝統的な文様があしらわれている。どこかのお土産かしら。きっと時間をかけて選んでくれたのね。
それから、何も書かれていない手紙が同封された七本の薔薇……これは捨てていいわ。
ミス・ヴェルティ。実用書。『効率の上がる部下の育て方』。実に有用ね。
ミス・ソネット。詩集。エンボスの装丁は手触りがいい。一人の詩人ではなく、著名な詩を集めたものみたい。教養を深めるのに役立つかしら。
数々の実用的な贈り物と。
「そして、わたくしとレグルス様でチョコレートをご用意しましたの! センメルワイス様がいつも好んで召し上がってると伺いましたわ。わたくし、お菓子選びには自信がありましてよ!」
そう言って、両手からはみ出るほど大きくてファンシーな袋を手渡してきた。
「……わたしのために選んでくれたのね。感謝するわ」
センメルワイスは目の高さを合わせるように屈む。張り切っていた少女はぱぁと花が綻ぶように満面の笑みを振りまいた。その裏のない純真さにあてられてか、彼女自身も気づかないうちに自然と口角が柔らかく持ち上がっていた。
用意された紙袋に贈り物をぱんぱんに詰め込み、センメルワイスは自室へと向かう。腕にずっしりと伝わる確かな重みに、お返しをするのが大変ね、と心の中で苦笑する。
誕生日はただの記号でしかなかった。そもそも捨てられた子の出自なんて曖昧で、個人を特定するための日付に特別な感情など抱いたことはない。センメルワイスは今でもそう思っている。だからパーティも固辞した。貸し借りは作りたくないし。自己本位な自分は、他人から祝福されるに値する存在ではない。
それでも、だ。
何者にもなれなかった自分が、生死の淵を彷徨い、ようやく何者かになれた。
自分の力で手に入れたその祝福を、今日くらいは素直に受け入れてもいいのかもしれない。
やがてセンメルワイスは部屋の前で歩みを止めた。小さくノックをすると、軽やかな足音がすぐに近づいてくるのがドア越しに聞こえる。まもなく、扉が開かれるだろう。今日は吸血鬼らしく、招きを待つのもいい。
人生で手に入れた戦利品。
それは激動の時代に流されることなく、確かに存在する止まり木。
センメルワイスは扉の向こうを静かに想像する。
――悪くはないわね。
end.
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.