そういえばワインがなかったな、と気づいて帰りにワインを買った。昨夜は夕飯を食べ終わって晩酌でもしようとした時にワインが切れているのに気づいて暗澹とした気持ちになったままベッドに入ったものだから、今朝の目覚めは最悪だったのだ。それもこれも全部あのふざけた決まりのせいだろう。ついでにパン屋で塩パンを買って帰宅すると、ドアの鍵が空いていた。かけ忘れていたのだろうか。自分に嫌気がさして舌打ちをしてランプに火を入れた時、「やあ、」と背後から誰かが声をかけた。
「誰だ!」
「ヤダなあ、そんなに警戒しないでくれよ。僕だよ、僕」
声のほうにランプを向けると、夕暮れの薄暗い家の中でぼうっと知った顔が見える。紺色のシャツにズボン姿の優男は、ようく見覚えがあった。まったく会いたくはなかったけれど。
「俺に何の用だ、チェコ」
「大した用じゃないさ。君は元気にしてるかなと思ってね」
「大きなお世話だ」
俺が睨むのをまったく気にもせずに、チェコは呑気にさっき俺が置いたばかりのテーブルの上の紙袋に手を伸ばした。
「おや、Pogácsaか。良いね。お腹が空いてきたよ。それにワイン。君んとこワインの出来が良いよねえ。ま、うちもスロバキアが作ってるけどね」
「そりゃあ、お前、あいつはーー」
「おっと、その先は言わない方がいいんじゃない。まあ、別に良いけどね。ほら、だってもう条約で決まったし」
「お前、俺のことおちょくりに来たってのか」
「そうかもね。ま、僕は君のことなんてどうでもいいんだけどさ。スロバキアがちょっと気にしてるんだ。ハンガリーってば1人でちゃんとやってるだろうか、彼ってば1人じゃ家の鍵だってかけ忘れるんだよ、ってね。来てみたら本当にその通りで笑ってしまったよ」
「…………」
「でもさ、やっぱりスロバキアをここに寄越すわけにはいかないからさ、だから僕が代わりに君の様子を見に来てあげたってわけ。親切な隣人だろ」
「自分のこと親切だと思ってんなら今すぐ振り返ってドアから出てけよ」
「まあまあ、そう苛々しないでくれよ。ほら、ちゃんと自分の分のビールだって持参したよ。君んちビールあるかわかんなかったから」
「お前ってほんと変だな、昔からだけど」
「君に言われたおしまいさ」
チェコは手に持っていた小さなビール瓶の蓋を開けて一口飲んだ。しょうがなく俺は椅子を引いて、座れと指差した。戸棚からワイングラスを取り出して、自分もチェコの横に座って買ってきたワインを開けて注ぐ。良い匂いのしている紙袋からたくさん入っている小ぶりなパンをひとつ取って、それから紙袋をチェコのほうに置いた。まったく遠慮のない奴は、軽く礼を言うだけ言って紙袋から同じようにパンをひとつ取って食べた。
「まあ、ちゃんと生活してるようで良かったよ」
「そりゃ、誰かさんみたいに森に篭ったりしてるわけにはいかねーからな」
皮肉を皮肉で返しながら、そういえば、ワインはよくスロバキアが買ってくれていたなと思い出して泣きたくなった。ハンガリーさん、今年は良い出来だよ。そうやって声をかけてくれる何気ない一言が、俺の生活の一部だったのだ。スロバキアだけじゃない、相棒もエルデーイもヴォイヴォディナも、みんなずっと一緒だったのに、俺の。
「チェコスロバキアにスロバキアを、ユーゴスラヴィアにクロアチア・スラヴォニアとヴォイヴォディナを、それからルーマニアにトランシルヴァニアを、ああ、あと、オーストリアにも少しだけ渡したって?」
チェコが横から何でもないことのように明るく言う。俺は反射的に睨むのを止められなかった。チェコは意に介さず、またビール瓶を煽って飲んだ。
「トリアノンのことは認めてない」
「認めてなくてもそれが事実さ。時代は変わったんだハンガリー。しかし、君って大したもんさ。国土の実に三分のニを失ったはずなのに、まだこうしてワインを飲んでいられるんだ」
「お前喧嘩売りにきたってのか」
「違うよ、本当に感心してるのさ。スロバキアにクロアチアにトランシルヴァニア……君が自分とはまったく違う国々を手元に置いておけたこと、それなのに君が君であり続けたこと。君は、僕がとうの昔に無くしてしまった王冠領の仕組みをうまく使っていたよねえ」
「……」
「まあ、僕が王冠領を使えなくなったのは、ドイツたちのせいだけどね」
「そりゃお前、異端やったりしてたから自業自得だろ」
「さあ、どうかな」
チェコが空になったビール瓶をテーブルの上に置いて、ふと立ち上がった。
「そうそう、お知らせがあるんだ。同盟を組むことにしたんだ、ユーゴスラヴィアとルーマニアとね。小協商っていうんだけど。ま、そういうこと。君が認めなかったとしても、世界は変わったのさ。だから良い加減ウジウジしてないでシャンとしなよ、らしくない」
「……お前、やっぱり喧嘩売りにきたんだろ」
「そうかもね」
「否定しろよ」
チェコが余裕げに笑う。チッと舌打ちをすると、ひらひらと手を振ってドアの方へと向かった。どうやら帰るつもりらしい。
「ああ、それから伝言だよ。「あんまりお酒ばかり飲んでないでちゃんと食べないとダメだよ」ってさ。一応伝えたからね、じゃ」
ドアを引いて出ていく間際、チェコは少しだけ俺を振り返ってそんなこと言った。誰が、なんて言われなくてもわかっている。スロバキアだろう。俺は溜息を吐いてワインを煽った。
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