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和綺
2025-09-08 11:48:36
4587文字
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先払いのキス(五歌)
歌姫と初めてのキスをしたのは、五条が十六歳の頃だった。
名前を呼べば吠え、呪霊を吹っ飛ばせば吠え、建築物を破壊すれば吠えて胸倉を掴んで喚く「先輩」は五条の格好のおもちゃだ。術式は非戦闘、簡略化もできず、それでも前線に連れられては、なんとか任務をこなしているような、五条からすれば取るに足らない、それでも呪術師と呼ばれる同じ世界の人間である。
朝から四件の任務を終え、それでも昼までにはだいぶ余裕がある時間に、五条は高専へと戻ってきた。一緒に赴いた傑は、怪我をした補助監督を硝子のところへ連れていくと言って、先ほど別れたばかりだ。一緒に行こうとしたら、先に報告をしておいて、と肩を押し出されたのだ。
別に補助監督なんていらないのにな、と両のポケットに手を突っ込んだ五条は術式を使って、宙を跳ねるようにしながら、ぽんぽんと進んでいく。補助とは名ばかりのただの運転手の姿を思い浮かべて、五条は鼻を鳴らした。正直邪魔だし、鬱陶しいし、術式を展開するときにもいちいちその存在を確認しなければならないのが煩わしい。移動手段は傑の呪霊があるのだし、必須と言うわけではないだろう。弱い術師には情報や連絡手段という意味で必要なのかもしれないが、特級二人にはやはり価値がない。撒いてもいいが、それだと担任からの拳骨が下るので、最初から連れて行かないのが最適解だ。
今度口がうまい傑に交渉させようと思ったところで、五条は微弱な気配を感知した。気配と呪力、そのどちらもが五条が知っているもので、にんまりと口角が上がる。おもちゃだ。
術式の出力を調整して、速度を上げる。カモフラージュ用の仏閣と木々に紛れるように、白衣と緋色がひらひらと舞っている。一方通行な鬼ごっこもどきに、五条のギアが上がる。こちらの気配と呪力を消して、体捌きに力を加えれば、その姿が消えた寺の白壁にすぐにたどり着いた。
角を曲がった先に、小さな気配が留まっている。こんな人気のない場所で、ひとりで何をしているのか、という疑問はあったが、それよりもわくわくと高揚した気持ちが、五条の足を速めさせる。
「なにしてんの、歌姫」
壁から顔を出すと同時に声をかけると、その姿は想定のはるか下にあった。視線を下げた先で、びくりと、丸くなった塊が器用に飛び跳ねている。
「は、え
……
ご、ごじょう
……
?」
五条を見上げた顔は、ぐちゃぐちゃだった。呆然と見上げている瞳には涙があふれ、その周りも鼻も頬も真っ赤に染まっている。五条は首を傾げた。
「泣いてる」
「っ!」
質問ではないただの指摘に、はっとした顔をした歌姫は慌てて目を擦ると、泣いてない! と無駄なあがきをした。
「鼻水まで流して泣いてるじゃん」
しゃがみこんでいる歌姫の傍らに同じようにしゃがむと、五条は顔を覗き込むようにして、抱えた膝に頭を預けた。
「鼻水なんて出てない」
口元を覆った手が、ぐいと鼻を拭っている。
「そこかよ。めちゃめちゃ泣いてるのは認めんだ?」
笑いながら横になった視線で歌姫の顔全部を眺めていると、眉間がぐっと寄って、細くなった目が五条を睨んでいる。相変わらずなみなみと水分を湛えた瞳には、けれど強い光があった。
「あんたには関係ない」
「任務失敗した?」
「
……
してない」
「呪霊に負けた?」
「負けてない。祓った」
ふーん、と応じながら五条の目が、歌姫の頭から足先までを往復する。外傷はなし、呪力にも異変はない。五条はますます首を傾げた。
「じゃあ問題なくない? 弱くても呪霊祓ったんだったら、最低限任務はこなしてるってことじゃん」
「弱、く
……
」
いつもどおり弱くないと返ってくると思ったが、その言葉は尻すぼみになって、聞こえなくなった。何をいまさら、と五条はのんびりと口を開く。
「別に歌姫が弱いのは今に始まったことじゃないじゃん」
歌姫の眉間の皺が深くなる。ともすればはらはらとか弱く泣いてしまいそうな程、どこもかしこも箍が外れているような顔で、歌姫は五条を見返している。その唇が、ぐ、と噛みしめられて色を白く変えた。
しっとりと濡れて柔らかいのだ。それを知ったのは指先に湿った感触が触れたからだ。外させた小さな前歯がまた口内へと戻っていく。絶句したような、ぽかんと緩んだ唇に近づいて、自分の物を軽く触れさせると、ち、と小さく粘着質な音が鳴った。
ぱちぱちと上下するまつ毛が、五条のサングラスをなぞる。今度はもっと明確に、ちゅう、と触れた。
「な、に
……
」
色も艶も涙もなくした歌姫が呆然と呻いて、ふふん、と五条は満足気に笑う。
結局、このとき泣いていた理由は知りえなかった。
それからもたびたび、時々、ふと思い出したように、そういう機会はあった。
緋色の姿が見えれば五条がそばに寄るのは常で、吠えて、喚いて、缶を投げ、胸倉を掴もうとして弾かれ、追いまわしては撒かれて、背後を取られて絶叫していた。
ひとり静かに、木々の隙間や、高い丘の上や、石段の陰、壁の裏手にいるときを見つけると、そのすべてが鳴りを潜めるから、五条も口を噤んで、ただ静かに、ひたりと触れた。いつ触れても、そこは柔らかく、濡れて、しっとりとしていた。
歌姫の頭上の壁に肘をついて体に閉じ込めると、五条の影の中で、少し怯えたように、おずおずと見上げてくる潤んだ瞳が、非日常で高揚した。
その舌に初めて触れたのは、傑がいなくなったあの夏のあとだったと思う。
初めて、五条がひとりでいるところを補足されて、それでも壁に追い込んだのはやはり五条の方だった。囲う腕の中から見上げてきた瞳は、怯えても濡れてもいなくて、けれど、多分戸惑って、困っていた。なんだよ、と尋ねると、なんでもない、と返ってきて、その顰め面に、少し笑った。ああ、そうか、歌姫だって後輩を失ったのかと思った。
緩く開かれた、艶のある薄い唇がやたらとピンクできれいで、初めて熱が上がった。最初のときと同じような、ち、という小さな粘着質の音を奏でた内側での接触は、先っぽだけだったにも関わらず、舌全体を痺れさせた。
それからは、回数は減ったが深度が増した。
は、と漏れる息が熱くて、ぬるりと滑る舌がちゅくちゅくと音を立てる。それでも、五条の腕は変わらず壁にあったままだったし、歌姫の手は、ずっと硬く握られたままだった。
歌姫の舞いが必要なんだ、だからお願い、と五条がかわいくおねだりをすると、歌姫は、ぽかんと間の抜けた顔になった。それからすぐに表情が引き締まる。最後の祭りの花火はでかい方がいいでしょ、と言うと、最後
……
と呟いた。最後ってそういう意味じゃなかったんだけど、ま、それでもいいか、と細い指先がなぞるピンクの唇を眺めていた。
そういえば、いつから触れていないのだっけ、と考える。忙しくて、それどころじゃなくて、そばにいなくなって、考える余地もなかった。五条も歌姫もそれぞれの生活と人生と目的があって、その中で歌姫は時々誰かを見つけては、大事にしているようだった。
それでもきっと、あの白壁の陰で、ひとり泣いている日はあったのだろう。染みひとつない真っ白な壁に、べったりと沈みこむような緋色がある。木々の隙間から差し込む途切れ途切れの光を避けるように、その隣にある影に小さな握りこぶしが浮かんでいる。
わかった、と頷いた顔は凛々しく、五条の目をまっすぐと見ていたから、よろしくね、と頷いた。
涙を湛えた歌姫の瞳と、熱を溜め込んだ五条の舌は、いつでも、ずっと距離がある。
こんこんと、静かなノック音に、五条は首を巡らせた。誰何するまでもなく、それが誰かわかっていて、だからこそ首を捻る。
「なに~、夜這い~?」
五条に宛がわれた一室の扉を開けながら揶揄すると、思った通りの人物が思った通りの顔でそこにいた。すなわち、庵歌姫が、険しい顔つきで、だ。
「そんなわけあるか」
「なんだ、残念」
「最後に、一度全部確認しておきたくて」
「ふは、真面目」
思わず笑うと、睨み上げられて、ごめんて、とその肩に手を回す。そのままくるりと背に回って室内へ誘導すると、自分で歩ける! と怒っているから、五条はまた笑う。握りしめたら折れそうなほど細い肩の感触が手のひらに熱い。よく生きたな、とそんなことを思う。
古ぼけたソファーに並んで座り、初動からの動きやシミュレーション、不測の事態と可能性、時々生徒たちの成長に脱線して、思い出話に逸れたりした。
ずっと元気な五条の先輩は、その薄くてきれいなピンクの唇を絶えず動かして、五条の話を聞き、頷いて、隣の距離から、五条の目を見上げている。
「そういえば、歌姫は明日、茈のあとは別行動だから、僕の勇姿が見れないんだね」
す、と歌姫から表情が消えた。感情を読み取らせない淡々とした顔を五条は覗き込む。
「現代最強と伝説の呪霊の戦い、見れないなんて残念だね」
ぶわりと、歌姫の目に涙が湧いた。えぇ
……
と五条の目が瞬く。まだ声に出していないはずだ。もしかしたらこれが最後の会話になるかもね、とはまだ言っていない。
ぱちり、といつか、今はもう使っていないかつての五条のサングラスを撫でたまつ毛が上下して、涙が一筋落ちていく。そのあとは、もうそんな熱など最初からなかったような顔つきで、手にしていた資料をめくっている。
勝利の確信だけがある。条件はひとつだけで、そこに至るまでにどんな犠牲があったとしても、それを成しえれば勝ちだ。
それでもきっと、このひとは泣くのだろう。今、五条がたくさんの物を背負わせたせいで、昔よりはるかに増えた孤独のなかで、はらはらとか弱く泣くだろう。
「歌姫」
五条の喉がその名を呼ぶために震えた。腕を置く壁がなくて、仕方がないから、その細くて熱い肩を握る。顔を近づけると、ぱちりと瞬いた歌姫が当たり前のように顔を傾けた。慣れた仕草に、五条の目の奥に熱が生まれた。喉の奥、肺の近く、その辺りにある物が、ふるふると震えて、笑いの衝動が気管を上がってくる。
唇を合わせると、歌姫が少し体をずらして、五条へ向き直った。すりすりと粘膜が触れて、ぴりぴりと痺れが走る。ちゅ、と鳴らして離れて、またちゅ、と触れる。昔より断然うまくなった接触は、あの頃と同じ感触を五条に与えた。涙もないのにしっとりと濡れて柔らかい。
ああ、そうか、と思って、肩に置いていた手を首に移動して、頭を捧げ持つようにすると、んぅ、と苦しそうな声が上がった。こんなふうに唇にじゅうっと吸い付いたのは初めてかもしれない。は、と五条が口を開くと、同じタイミングで歌姫の口も開いた。舌先同士が触れる。最初の頃の、硬く丸まっていたものとは比べ物にならないくらいに滑った舌が、軟体動物のように五条の舌に絡んでくる。ぬるぬるとした舌同士の睦み合いは、性交と違って終わりが見つけられない。
「
……
キスは、ずっとこのやり方?」
唇を離して、額を合わせて作った狭い空間で五条は囁いた。
「
……
この方法しか知らないのよ」
「歴代彼氏がかわいそ」
嘯いて笑うと、気持ちよければいいでしょ、と返ってくる。どん、と握りこぶしが胸に当たる。縋ることを知らないのか、と五条はその小さな手を胸に抱いて、いつかの涙の為のキスを再開した。
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