桐子
2025-09-07 15:13:06
3548文字
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まわる世界⑧


「必要以上に水木どのに手伝いをしてもらったり、連れまわしたりしてはいかん。彼は学生で勉強が本分なんじゃ」
そう屋敷の皆に言い渡したところ、自分の仕事を手伝ってもらって喜んでいた者たちは、申し訳なさそうに頷いた。
「若いうちは学ばなければならんこともあるからのう」
「そうじゃそうじゃ」
「勉強は大事なのら」
「ぼくもごほんはひとりでよみます」
鬼太郎までもがそう言ったので、ゲゲ郎は「ご本はわしと読もう」と頭を撫でた。
それでも、相変わらず水木はこまごまとした手伝いをしたがるので、そういう時は好きにしてもらうことにした。動き回っている時の彼は生き生きとして、元来、じっとしていられない質なのだろうと思ったからだ。

季節も変わり、本格的な夏がやってきた。朝ごはんを食べていると、めずらしく鬼太郎が外出をねだってきた。
「とうさん、こうえんへいきませんか。むしをとりにいきたんです」
「ううむ……
あれが欲しい、これが欲しいというわがままや自分の意思をほとんど見せない息子がねだるのは珍しい。最近、虫の図鑑をよく見ていたから本物を見たくなったのだろう。
いつもなら二つ返事で頷くところだが、即答できなかったのは、外が殺人的な暑さだからだ。今年の夏は十年に一度の暑さと言われており、連日熱中症アラートが出ている。しかし鬼太郎にはそんな事情など関係ないのだろう。今なら午前中で多少は涼しいし、少しの時間なら大丈夫かもしれない。
「俺が行きますよ」
ゲゲ郎の迷いを察してか、水木が声をかけてきた。
「大学も休みに入って暇ですし」
大学生なら、飲み歩いたり旅行へ行ったりするものだろう。毎日家にいて、家事や子どもの面倒をみるのでは、退屈ではないだろうか。ゲゲ郎は水木に尋ねた。
「水木どのはどこかへ遊びに行ったりしないのか?」
「特に行きたいところもないですから」
「しかし、学生なら友人と出かけたり……
「いいんです」
水木はきっぱりとゲゲ郎の言葉をさえぎり、鬼太郎に向かって優しく言った。
「さあ、早く食べちまおう。暑くなったら虫も引っ込んじまう」
「はい」
朝ごはんを食べ終えた二人は、帽子と虫取り網を携え、そろって出かけて行った。近所に、たくさん木が植えられている広い公園があるので、そこに行ったのだろう。
「二人とも元気じゃのう」
ゲゲ郎はお茶をすすりながらつぶやいた。砂かけ婆と一反もめんが同意するように頷いた。
「鬼太郎は水木さんが来て、少し明るくなったのう」
「奥方もあの世で喜んどるばい」
そうだといいな、とゲゲ郎も心から思った。岩子は最期まで、息子のことを気にかけていた。血の気のなくなった指でゲゲ郎の手を必死に握り、『頼みますね』と繰り返していた。息子を立派に育てると約束したのに、鬼太郎は子どもらしくない子どもで、それが気がかりだった。いつも周囲の手をわずらわせないよう、わがままも言わない。それが自分の育て方のせいだったらどうしようかと、ずっと不安に思っていた。
「わしは頼りない父じゃ」
年のわりにしっかりしていて、大人びた考え方をするのも自分が頼りないせいだろう。ふがいない父で申し訳ない。ゲゲ郎はいつもそう思うのだった。
「そんなことなかよ。親父しゃんはようやっとる」
「鬼太郎は優しい子にそだっておる。ワシらのことももっと頼れ」
一反もめんと砂かけ婆が口々に慰めてくれる。ゲゲ郎は「ありがとう」と言って笑った。
「さて、鬼太郎と水木どのを迎えに行くかのう。ついでに商店街で喫茶にでも行くか」
商店街にある喫茶は、妻ともよく行った思い出の場所だ。三人でクリームソーダを飲むのもいいだろう。そんなことを考えながら、ゲゲ郎は出かけた二人を迎えに玄関へと向かったのだった。


アスファルトの上に陽炎が立っている。まだ十時にもならないというのに、茹だるような暑さだった。ゲゲ郎は帽子をかぶりなおし、鬼太郎たちの姿を探した。
息子の姿はすぐに見つかった。木の陰に座り込み、地面を熱心にのぞき込んでいる。水木は少し離れたところに座り、滝のように流れる汗をぬぐいながら、その姿を見守っていた。ゲゲ郎は二人に声をかけようとした。
「おお、鬼太……
「ばけもの!」
甲高い子どもの声に、ゲゲ郎は思わず足を止めた。鬼太郎の声ではない。
「ばけもの! あっちいけ!」
見ると、小学校中学年くらいの少年が、鬼太郎を指さしてにやにや笑っている。地面を見ていた鬼太郎は、顔を上げて首を傾げた。
「ばけもの?」
「お前、自分のお母さんのおなかを食い破って生まれてきたんだろ? だから、ばけものみたいな顔してるんだ」
思わず息をのんだ。悪意に満ちた物言いに、かっと頭に血がのぼった。親たちが話していることを断片的に聞いて、そう考えたのだろう。子どもは短絡的な生き物だ。だが、さすがに捨て置けない。大人げないとは思うが、人を傷つける言葉を使ってはいけないと教えるのも大人の役目だ。何より命より息子への暴言は許せない。
「ちがうよ」
鬼太郎は、静かな声でそう言い返した。
「おかあさんはちがたりなくてしんじゃったんだ。おなかをくいやぶってはいないよ」
「じゃあなんで片目しかないんだよ。お母さん殺した罰があたったんだろ」
少し考えてから、鬼太郎はぽつりと言った。
……ああ、そうか。おかあさんをしなせたばちがあたったのか」
その言葉に、ゲゲ郎はハッとした。鬼太郎は、母親が死んだのは自分のせいだと思っている。
「ばけもののくせに、おれに口ごたえするなよ!」
少年の手が振り上げられた。止めに入ろうとしたゲゲ郎より早く動いたのは水木だった。
「おい、いい加減にしろ」
水木は少年の肩をぐっとつかんだ。少し離れたところにいたから、まさか鬼太郎の保護者だと思わなかったのだろう。水木の傷のある面相に、少年は「ヒッ」と小さく悲鳴を上げて後ずさった。
「な、なんだよ! お前!不審者だな」
「もうやめろ。これ以上自分より小さい子をいじめたら、俺が許さない」
静かな口調だが有無を言わせぬ迫力があった。
「俺の目と耳の傷は、車の事故でできた。俺のお父さんとお母さんは、俺を助けようとして車のガラスを割ってくれたんだ。その割れたガラスで怪我をしたが、俺は助かった。でも、お父さんとお母さんは死んだよ。自分の命より、子どもの命の方が大事だったからだ。それはこの子のお母さんも、坊主、お前のお母さんも同じだ。お前のお母さんも、お前が死にそうになっていたら、自分の命よりお前の命を助けることを選ぶ。どうしてかわかるか?」
水木に問い詰められ、気圧されながらも、少年は首を横に振った。
「そんなの知らないよ」
……お前のことを愛してるからだ」
水木はそう言い切った。少年の目が大きく見開かれる。
「この子もお前も、親に愛されているんだ。だから、二度とそういう人を傷つけることを言うな。お前のお母さんも悲しむぞ」
少年の手から力が抜ける。鬼太郎の赤い目が、じっと少年の目を見ていた。ややあって、少年は小さな声でつぶやいた。
……ごめんなさい」
「謝る相手は俺じゃないだろう」
水木はポンと少年の背を軽く叩き、鬼太郎の方に押しやった。少年は、小さな声で言った。
「ごめんなさい」
「ううん、いいよ」
鬼太郎は静かに言った。
「坊主、これからはうちの子と仲良くしてくれよ」
……うん」
少年は素直にうなずいた。そして、水木に向かってぺこりと頭を下げると駆けて行った。ゲゲ郎はその様子を見て、ほっと胸をなでおろした。
「鬼太郎、水木どの」
声をかけると、水木は少年を見送っていた視線をゲゲ郎に向けた。
「とうさん」
鬼太郎は虫かごを持って、ゲゲ郎のもとへと駆けてきた。
「虫、いっぱいとれました」
「おお、それはすごい。さすがはわしの息子じゃ」
帽子をかぶった小さな頭をぐりぐりと撫でる。鬼太郎はくすぐったそうに目を細めた。一方、水木はどこか気まずそうな表情をしていた。さっきのやりとりを、ゲゲ郎に知られて気まずいと思っているのだろう。
「水木どの、息子が世話になった」
そう声をかけると、水木は「いえ」と首を横に振った。
「この子はわしの命より大事な子なんじゃ。あんな風に言ってくれて、わしは嬉しかったよ。――――ありがとう」
ゲゲ郎は心から礼を言い、水木に頭を下げた。
「いや……俺はそんなたいそうなことは……
口ごもりつつ、水木は頬をかいた。照れているらしい。
「さ、暑いところで立ち話もなんじゃ。喫茶へ行って冷たい物でも飲みにいこう」
「わあ、ぼく、クリームソーダをのみたいな」
鬼太郎の顔がぱっと輝いた。