匣舟
2025-09-07 10:38:16
9482文字
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世界の誰よりずるいひと

前世で両片想いで愛を伝えて学園を去った長と伝えられてからずっとその恋を引き摺っている乱が、転生をして果てしない遠回りをしながらも結ばれる話


 わたしがだいすきだったひとは、いつも見かけると本を片手に持っていることが多かった。寡黙に少し傷だらけの大きい手でパラパラとページを捲る音だけが聞こえる図書室に、その姿を自分の瞳にずっと焼き付けて居たくてあまり用がないのに親友が運良く図書委員だったこともあり、それを盾にして図書室に足繫く通っていた。
「また、来たのかよ。」
「なあに、その顔。邪魔はしてないんだからいいじゃん。」
「そうだけど。」
 私が来た途端に思い切りしかめっ面をする親友は、私が彼に抱いている恋心を知っている唯一の人物だった。叶わない恋をしている私に意味わかんねえ。なんて言いつつも、なんだかんだ言ってこうして私の盾になることを了承してくれて、付き合ってくれている優れた理解者である。
 図書室に足繫く通っているのは、彼の少し傷だらけの大きい手で一定にページを捲るその音が心地よいのもあったけれど、本を捲るたびに顔に傷があって上手く表情筋が働かず無表情でいる彼が頷いたり、少しわくわくしてそうな表情でページを捲ったりしていて、普段とは違う表情にギャップ萌えを感じて彼の虜になってしまったからだった。
 いつもちょこんと図書室の端の机に座って棚から持ってきた本を見つつ、だいすきな彼のことを陰ながら見る。
陰ながら彼を見ることが多かったけれど、たまに自分の中の恋心が暴れだしてきたこともあった。
 勢いだけでまだなにも考えもしない子どもだった私は、図書委員会委員長である彼にどうにか本だけではなく自分にも興味を持ってもらいたい一心で彼が読んでいた本を借りてみて読んでみたり、彼におすすめの本はないかと思い切って聞いたこともある。
「難しい本だがそれでもいいか?」
「はい!大丈夫です。」
 彼がいつも読んでいる本は、戦術の本であったり、はたまた料理本であったり。広い分野でたくさんの本を読むものだから私は追うのに必死だったけれど、それでも良かった。
 だって、自分には理解のできない本を読んだとき、彼と必然的に会話ができるから。例えば、これはどういう意味ですか?とか、この本良かったですよね。という会話ができる。いつも一口や二口しか話さない彼が本のことになると饒舌になるものだから、私はより一層彼と会話がしたくて、毎日一日一冊本を借りて読んでいた。
 こういうのを恋は盲目というのだろうが、私の場合悪い方向には働かず、そのおかげでいつも小テストの点数が視力検査並みで、あほのは組の落ちこぼれだった私が、小テストでは組の頭脳と呼ばれる庄左エ門と同等の点数を叩き出すようになり、いつも主に私の視力検査並みの点数のせいで胃を痛めていた教科担当の担任の先生が、ようやく改心したか。と私の目の前で泣いていたのも今となってはいい思い出である。
 でも、そんな楽しいひと時も長くは続かなかった。だって、私がだいすきだった彼は最高学年の六年生だったから、私が二年生に進級したと同時に卒業してしまったからだ。
 卒業前には、委員会がなければ図書室へと入り浸っていたからほぼ毎日いたと思う。基本的に六年生に対して、就職先を聞くことはタブーだとされているため、彼がこの学園を出てどういう仕事に就くのか気になるのは確かなのだが、そんなことよりもわたしは彼と卒業前に少しでも話す時間や、一緒にいる時間が欲しくて、そんなことなどいつの間にか頭から消えていた。
 そして、とうとう迎えてしまっただいすきな先輩方の卒業式。私は周りの友達が、いつもは威張って私をいじめる二年生の先輩も卒業していく先輩との別れを惜しんで泣いているのに、一向に涙が出なかった。なんでか泣こうとしたけれど泣けなかったのだ。
 保健委員会で集まった時も委員長である伊作先輩も珍しく泣いていて、一人一人に別れの言葉をかけていた。数馬先輩も、左近先輩も、伏木蔵だって、伊作先輩からかけられる最後の言葉に泣いていたけれど、私はやっぱり泣けなかった。
「乱太郎。」
「ご卒業おめでとうございます。伊作先輩。」
「きみなら立派な保健委員になれるよ、医務室を頼んだ。」
 泣き腫らした顔で微笑んでこちらに手を差し伸べてくる先輩の手を握ると、先輩は私を抱きしめる。それをきっかけに泣いていた数馬先輩と左近先輩と伏木蔵も合わさって、大きなお団子のように抱きしめあった。けど、どこか伊作先輩が卒業するのがどこか他人事に捉えていて、明日も医務室にいるんだろうな。なんて考えている私がいて。だから、みんなが泣いていても私は泣けなかった。
 保健委員会の最後の集まりが終わって一人でいた私は、ぼんやりと空を見つめていた。今日がだいすきな彼に会えるのが最後だとわかっていたけれど、なんだか会うのが憚られたからだ。きっと、会ってしまったら泣いてしまうかもしれないし、好きだと伝えてしまうかもしれない。
 今更、好きだと伝えても彼の新たな門出に邪魔になるからと、私は彼との思い出がたくさん詰まった図書室で日向ぼっこをしていた。すると私が座っているところがすっぽりと陰に包まれる。もしかして土井先生が私を探しに来たんだろうか。と後ろを振り返る。
探したぞ。」
 乱太郎。と私の名前を呼んだのは担任である土井先生ではなくて、私がだいすきで恋をしている六年ろ組の図書委員会委員長である中在家長次先輩だった。どうして先輩が私のことを探していたのか、考えても一向にわかる気がしなくて言葉にならない母音とともに、ご卒業おめでとうございます。という言葉が無意識に自分の口から吐き出された。
「ありがとう。」
 それだけで終わってしまった会話に、中在家先輩と最後に何か話そうか、でもどんな話をすればいいのかずっと考えながらなんで私に会いに来てくれたのだろうと混乱している私に、お前に、渡したいものがあって探していた。と私の目の前にいる彼は言葉を紡いだ。
「渡したいもの?」
「両手を合わせて、出しておいてくれ。」
 中在家先輩に言われた通りに両手を合わせて自分の胸辺りに固定していたら、彼の少し傷だらけの大きい手が私の小さな手にひとつの本を授けてくれた。
「これを。」
 彼の手から私の手に移ったタイトルも表紙も書かれていない本。彼に目線を合わせると、中を開けても、いい。というお許しをもらったので、中を見るためにパラパラと本を捲ると、色んな薬草が押し花のようにページに収まっていて、しかもその薬草の隣にはどんな場所に自生しているのか、どの用途で使うのが好ましいのかなど事細かに一つ一つのページに文字が埋め尽くされており、私は開いた口が塞がらなかった。だって、これ。
「こ、これ。」
「私の手作りだ。」
 そう、この本は中在家先輩の手作りだった。多分、いや絶対先輩に言われなくても私はわかっていただろう。だって、見間違えるはずがない。この筆跡は中在家先輩のものだから。どうして、私は、先輩にこんなことをしてもらう義理はないのに。どうして。と混乱をしている私を他所に中在家先輩は、そんな私を見てふわりと微笑んだ。
 いつも寡黙で無表情だった彼が最初で最後に見せてくれた笑顔に、私は目を奪われる。
「最後の餞別に。」
 最初で最後に見せてくれた中在家先輩の控えめな笑顔を前に、餞別ってなんですか。という言葉は発せられなかった。今までどこか先輩方が卒業してしまうと他人事のように捉えていた私は、餞別という言葉を中在家先輩から向けられた途端、現実がじわじわと波が自分に向けて押し寄せているのが分かった。
 今更、現実を目の当たりにした私は、泣いていた先輩たちのように自分の瞳に涙が溜まっていく。
(泣くな、泣くな!)
 こんなところで泣いたって何になる、泣いたところで目の前の彼を止めることなんてできやしないし、困らせてしまうことは目に見えている。だから、絶対に泣くな!と暗示を掛けながら、私は拳に爪が食い込むくらいぎゅっと強く握りしめた。
「あ、ありがとうございます。」
 最後の会話になるだろうからと自分がいま出せる精一杯の笑顔でお礼を言った私。ちゃんと笑顔で言えただろうか、声は震えていなかっただろうか。と自問自答をしている私に、中在家先輩は私のだいすきな少し傷だらけの大きい手で頭を撫でてくれる。
「お前が一流の忍者になれることを、願っている。」
 なんで今、そんなことを言うの、最後だから?という私の心の中の声が叫んでいたけれど、私はその叫びを飲み込んで、笑顔を見せて取り繕った。
ありがとうございました。どうか、お元気で。」
 素っ気ない私の別れの言葉に中在家先輩はお馴染みのもそ。という言葉を放って、また私の頭を撫でて微笑んでから図書室を出て行った。
行っちゃった。」
 中在家先輩のうしろ姿をしっかりと目に焼き付けた後、私はさっき先輩から餞別として渡された本をパラパラと捲っていると、裏表紙の裏に中在家先輩の達筆な字で何かが書かれているのが目に映った。
「短歌、なのかな。」
 裏表紙の裏に書かれている短歌の意味がどうしても気になった私は、立ち上がって文学というジャンルの本がたくさん詰まっている棚から短歌が書かれている本を見つけて、書かれている短歌と同じ短歌を探すことにした。
 ペラペラとページを捲るたびに、昔の人はこうして想いを伝えあっていたんだな。と感心していると、背表紙の裏に書かれている短歌と同じものを見つける。
「これかな。えっと瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむと思ふ
 その短歌を声に出して読んだ私は、自分が持ってきた短歌の解説本を見ると、その短歌の意味を知った途端に我慢をしていた自分の瞳からとめどなく涙が溢れているのが分かった。
……う。」
 ずっと我慢していた嗚咽が漏れ始めて止まらなくなった私は、静かに床にしゃがみこんで先輩からもらった本を自分の涙で濡らさないようにと、胸に抱え込んで泣いた。
 叶わない恋をしていると思っていたのに、こんな形で成就していたことを知ってしまうなんて。諦めようと思っていたのに、中在家先輩は簡単に私の心の中から出て行ってくれないみたいだった。
 本当にずるいひとだ。私の心をこんなにも奪っておいて、その上、私の心の中に留まり続ける癖に、自分の想いだけ告げて去っていくのだから。
「私も、あなたのことを。」
 お慕いしておりました。私しかいない図書室で自分の口から紡がれた一世一代の告白は、誰にも聞かれることなく空気と一緒に溶けていった。

んぅ……?なつ、かしいゆ、め?」
 ピピピピ、と耳元でけたたましく鳴るスマートフォンのアラームを止め、シングルサイズのベッドで寝ていた彼はまだ半分も開いていない瞼を擦りながらむくりと体を起こした。
「ふわぁ~。ねむい。」
 夢を見ていたからだろうか、彼は大きな欠伸をひとつ、部屋の中に響かせる。夢の余韻なのか、起きたばかりの彼の瞳には薄っすらと水の膜が零れそうになっていた。先ほど大きな欠伸をしたのも関係しているだろうが、これは欠伸だけの涙ではないことを彼が一番知っていた。
「中在家、先輩。」
 光り輝く太陽を見つめながらそれに向かって放った人の名は猪名寺乱太郎という人間が、第二の生をこの世界に受けてもなお、ずっと乱太郎の心の中に留まり続けていた。まるで呪いのようだと、乱太郎は自嘲するように小さく笑い声を漏らす。
 乱太郎がこれは、二回目の人生である。と錯覚したと同時に前世の記憶がとめどなく流れてきたのは、まだ自分が幼いころだった。確か、三歳ぐらいの誕生日のとき。
 そのときの乱太郎は直近まですこぶる元気だったのに、いきなり高熱を出したかと思えば、何度か生死の境を彷徨ったらしく、誕生日を迎えるたびにその時は本当に心配した。という両親のボヤキをいつも聞く羽目になっているのだが如何せんまだ幼く、三歳のころの記憶など朧気であったため、乱太郎はそのボヤキをどこか他人事のようにいつも聞き流している。
 前世の記憶ははっきりと、あれから彼にもらった手作りの薬草図鑑を肩身離さずに大切にしていたことや、土井先生と山田先生双方に号泣されながら忍術学園を卒業した時のこととか、結局、先輩のことを忘れられずに生涯を終えてしまったこととか、すべてが昨日の出来事であるかのように憶えている。
 しかし、前世の記憶があるからといって特に二度目の人生に生かせることがあるかと言われれば、無に等しいだろう。しいて言うならば、保健委員会で培った応急処置の早さや戦術や兵法それに医学に関する豊富な知識ぐらいだろうか。
まあ、それが学生生活に役に立ったかといえば怪しいが。まあ、でもこの自分が持っているこの知識を使うことが、役に立つことがなくて本当に良かったと思う。それは、自分の手を汚して生きてきた、戦乱の世を生き抜いた乱太郎だからこそ言える言葉である。
「大学に行く準備しないと。」
 そろそろ遅刻しちゃうかも。とぼそりと呟いた乱太郎は、ベッドから降りていそいそと大学へ行く支度をしてアパートを出た。念入りに鍵を閉めたかの確認を二、三回ドアノブに手をかけ、ガチャガチャと回して閉まっていることを確認した乱太郎は、この作業だけで汗ばんだ額にハンカチを押し当てながら地上へと続く階段を下りる。
 右手には日傘、首にはハンディーファンを掛けてこれから借りているアパートから最寄り駅までの数十分の道のりを迎え撃つ準備は満タンだ。家から出る前にじりじりと照り付ける太陽に負けないように。と日焼け止めを塗った頬に手を当て、乱太郎は最寄り駅へと歩きだした。
 最寄り駅に行く途中、水分が欲しくなって、コンビニにお茶を買いに行ったりしながらも最寄り駅まで少し汗をかくぐらいの最小の被害でたどり着いた乱太郎は、鞄にぶら下げている定期券をゲートにタッチし、改札の向こう側へと行った。大学方面のホームへ行くと、ちょうど大学行き方面の電車から乗客が下りていたのでそれに乗った。
 久しぶりに一限目の講義を取った乱太郎は、平日の朝なので満員電車に乗ることになるんじゃないか。と思っていたのだが、意外にも人はおらず座るスペースもちらほらとあったので座席の角の席に乱太郎は座った。
 大学の最寄りの駅に着くまでの数十分、いつもならスマートフォンを片手に講義の内容を確認したり、バイトのシフトを眺めたりしているのに今日はずっとあの夢のことで頭がいっぱいだった。
 記憶が戻ってすぐの乱太郎は、幼かったといえどいつも長次がどこかにいないか探していたし、会い焦がれ過ぎて頻繁にあの夢を見ては長次の声や姿、そしてあの時の表情を忘れないように必死だったんだろうと思う。
 今思えば、長次が乱太郎に自分のことを忘れないようにと呪いをかけたのではなくて、長次を忘れないようにと乱太郎が自分に忘れるな!と呪いをかけたのではないかと思う。
 もう何年も見ていなかったのに、あの夢を見ただけで忘れていた長次に対しての感情があふれ出してくる。結局、長次に縋って生きている自分に自嘲するしかない。
 だって、今世に長次が生まれているかも、もし仮に生まれていたとしても、乱太郎のように前世の記憶を持っているかなどわからないのに。それなのに未だに長次に囚われている自分がなんだか情けなくて、惨めに思えた。
 はぁ。とため息を零したことで、乱太郎は一度考えることを放棄して現実逃避に窓の外を眺めた。それからずっと窓の外を眺めていると、大学の最寄り駅に到着したらしくアナウンスが流れ始めた。
 それを聞いた乱太郎は立ち上がって、他の乗客と一緒に夏特有のうだるような暑さを肌で感じながら、ホームへと降り立ったのだった。
 それから長次のことを少し考えては、講義に集中して教授の声に耳を傾けることを繰り返していたらいつの間にか今日、自分が受けなければならない講義を終えていた。
 机の上にある自分のノートを見てみると、考え事をしていた時の部分の板書は誰が見ても別のことを考えているな。とすぐわかるほど、乱雑に書かれていて汚かった。これはあとで一緒の講義を受けていた友達に板書したものを送ってもらおうと決意した乱太郎は、荷物をまとめて自分が借りているアパートに帰るために教室を出た。
 今日はバイトもないため大学を出て大学の最寄りの駅に行き、アパートに帰ると思いきやアパートとは反対方向の電車に乗った乱太郎。乱太郎の目的地はここから二駅先にある、大きなショッピングモールの中にある書店だ。
 いつもなら大学の目と鼻の先にある個人経営の書店に足を運んでいるのだが、今回は買いたかった新刊がこの書店になく途方に暮れていたときに、店員さんからあの大きいショッピングモールにならあると思うよ。という助言を受けたので、こうしてはるばる足を運んだというわけだ。乱太郎は欲しい新刊の本と、どんな本が置いてあるのだろうとわくわくしながら書店へと足を踏み入れる。
「うわぁ、すごい量だな。」
 書店に入って最初に乱太郎の目に飛び込んできたのは、入り口から一番手前にある新刊コーナーだった。新刊コーナーにある本の種類や豊富さに驚きながら、乱太郎は自分が今日買いに来た本を探す。やはりいつも乱太郎の行きつけである自分の欲しいものがすぐ見つかる個人経営の書店とは違い、今日が初めてなうえにまだどういった種類ごとでおかれているかわからないこの大きな書店で自分が欲しい新刊の小説を探すのは一苦労だった。
 ぐるぐると新刊コーナーを行ったり来たりを繰り返していると、なんだか自分が欲しい本と同じような表紙のデザインが乱太郎の視界に入った。
(あ、あれかも。)
 確認しようとその本に手を伸ばした瞬間、乱太郎より大きな手が一緒の本を掴んでいた。乱太郎は慌てて本を掴んでいた手を引っ込め、すみません!と謝罪を口にして顔を上げると、乱太郎は自分の瞳に映った人物に、思わず息の仕方を忘れてしまう。
 乱太郎の視界に入った人物は、彼が前世でもそして今世でもずっと忘れることなどできなくて、ずっと乱太郎が会い焦がれ、恋焦がれてきた中在家長次と瓜二つの顔をした人物がそこにいた。
 さっき触れたときに感じた彼の手のぬくもりから夢ではないことはわかっているのだが、都合の良い夢だと錯覚している自分がいた。
「あ、あっ、あの、それお譲りします!す、すみませんでしたっ!」
 頭の整理はつかないままだったが、ここにいては目の前の長次に瓜二つの人物にいろんなことを口走ってしまいそうで怖くなった乱太郎は、自分が欲しかった新刊を目の前の彼に譲るために立ち去ろうとした。しかし、それは叶わなかった。なぜなら、目の前の彼が乱太郎の腕を掴んだからだった。
っ!」
ま、待ってくれ。」
 目の前にいるの彼の予想だにしていない行動に乱太郎は驚く。自分の腕を何故か離してくれない彼に困惑しながらも、離してください。と言おうと乱太郎が口を開く前に、乱太郎の腕を掴んで離さない彼が口を開いた。
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむと思ふ。」
 彼が口に出した短歌を聞いた瞬間、乱太郎は目を見開いた。だってそれは、その短歌は。彼が私のために送ってくれた、私しか知らない、彼からの最初で最後のラブレターだったから。
 彼が口にした短歌を聞いてからずっと固まっていた乱太郎の瞳から、一粒の涙が伝って落ちていく。それに気づいた彼は、乱太郎の腕を掴んでいた手を放して乱太郎の瞳から零れ落ちる涙を拭った。
「泣かないでくれ。」
 泣くなと言われても、自分の意思では止まらないのだからどうしようもない。ずっと泣いたままでいる乱太郎を見ていた長次は、買おうと手に持っていた新刊の本を元の定位置に戻して、乱太郎の手を引いて書店を後にした。
 長次に手を引かれるまま、着いた先はショッピングモールを出てすぐ近くにあるこぢんまりとした公園だった。公園にあるベンチに乱太郎を座らせた長次は、自分もその横に座ると、持参していた自分のハンカチで乱太郎の頬を傷つけないようにやさしく拭った。
「先輩、本は?」
気にするな。今じゃなくても後で買える。」
そう会話を交わしてまた黙り込んでしまったふたりの間に沈黙が流れる。どこから、何から話せばいいのか分からず俯いてしまった乱太郎に、隣に座りなおした長次が声を掛ける。
お前は、今でも私のことを想ってくれているのか。」
っ。」
 まさかこんな早いタイミングで長次がそう尋ねてくるとは思わなくて、驚いた乱太郎は俯いていた顔を勢いよく上げる。勢いよく顔を上げた乱太郎はじわじわと溜まっていく涙に気づかないふりをして、長次の瞳を見つめながら、口を開いた。
「そ、そんなの当たり前じゃないですか。」
 忘れられるわけがない。あんな熱烈なラブレターを残していって、私の心の中に留まり続けたのに。私の心を奪ったまま、いなくなったくせに。乱太郎の瞳に浮かんでいる涙が、堰を切ったようにとめどなく零れ落ちる。乱太郎の瞳から溢れ出して止まらない涙を大きい手の長い指で優しく拭ってくれる長次に、乱太郎は少しずつ、胸の内を曝け出した。
「せんぱいはっ、ずるい。」
「ずるい?」
「わたしに、告白もさせてくれなかったくせに、そのくせ最後にわたしへのラブレターをのこしていって、わたしのこころにずっといたくせにっ。」
 わたしのこころを奪ったまま、いなくなったくせに。泣きじゃくりながら長次への想いを伝える乱太郎に、長次は眉根を寄せて、ぽつりとすまない。と謝罪をした。
ずっと私のことを想っていてくれていたんだな。」
  乱太郎の瞳から溢れ落ちる涙を長い指で拭いながら幸せそうにそう言葉を漏らした長次に、乱太郎は自分の両手をぎゅっと握りしめて唇を嚙んだ。
 何十年いや、何百年ずっと伝えたくて仕方がなかった言葉が喉につっかえて出てこない。乱太郎は焦る気持ちを抑えようと大きく深呼吸してから、あの日、言うことのできなかった言葉を紡ぐ。
「ずっと、あなたを、お慕いしておりました。」
 最後にあなたと会話をした図書室で、前世の私があなたに一生伝えることのできなかった告白を長次に伝えると、彼はあの日と同じ柔らかい笑みを浮かべて乱太郎の頬に触れながら呟いた。
好きだ。今世は、私と添い遂げてくれないだろうか。」
 長次にそう告げられた瞬間、乱太郎は自分の瞳から溢れ出す涙を抑えることができなかった。それは、ずっと自分の待ち望んでいた言葉だったから。ぼろぼろと零れ落ちる涙に構うことなく、乱太郎は精一杯の笑顔を長次に向けて、言葉を吐き出した。
不束者ですが、よろしくお願いしますっ。」
 返事をしたと同時に長次の目の前で涙をぼろぼろと零し続けている乱太郎の頬を優しく撫でた長次は、乱太郎の体を引き寄せて抱き締める。乱太郎はそれに応えるように長次に回していた腕をぎゅっと引き寄せた。ふたりの距離が縮まって目線が絡み合った長次と乱太郎は幸せそうに微笑みながら、自然と唇を重ねたのだった。