基線◯号
2025-09-07 08:22:06
1628文字
Public エッセイ
 

古典を読む難しさ

どうして古典を読ませようとするんだろうね

 大学の学部生は必ずといっていいほど古典を読め、と言われる。ここでの古典というのは高校の古文、という意味ではなく、専門分野の思想史の中で重要とされる書物である。        
 仮に、直接言われたことがなかったとしても、ゼミの輪読書になっていたり、講義の参考文献として読まされたり、大学教授の書いたブックガイドに含まれていたり……という形で古典は読まされている、もしくは、読むように仕向けられているのである。一体、どうしてこんなにも古典を読ませようとしてくるのか。

 そもそも、古典を読むには技術がいる。基本的な読解力はもちろん、書物がどのような社会情勢の中で、また、どのような問題意識で書かれているのか、という所を予め頭に入れておかないと、正確なメッセージは受け取れない。この部分に古典を読む難しさというところがある。

 例として私の専門分野である経済学の古典の話をしてみることにする。積読の中の1冊に、ガルブレイスのゆたかな社会、という書物がある。この本自体はそんな難しいことは書かれていないのだが、初版は1958年であり、この時点で社会情勢を色々考えなくてはならない。
 著者は当時のアメリカの環境を観察してこの書物を書き上げている、ということは推定できる。すなわち、第二次世界大戦終結からおおよそ15年経過し、アメリカとソ連の超大国による冷戦構造があり、ヨーロッパは戦争の疲弊が未だ残り、日本は高度経済成長の初め頃の社会情勢、ということである。これくらいの下調べはしておかなければならない。丁寧な解説があれば、読み手が調べなくてもいいように書いてくれているが、全ての書物がそうであるわけではない。

 もう1例、アダム・スミスの国富論を挙げる。高校の経済分野では必ず出てくるこの書物は、高校の範囲では、市場放任による価格調整機能を神の見えざる手という惹句とともに説明している。
 しかしこの書物の初版は1776年である。市場放任による価格調整というのは現代の経済学者にとっても魅力的な主張かもしれないが、さすがに今の時代でアダム・スミスと同じ主張をしたとしてもちゃんと聞いてもらえるか、といえは、そうではないだろう。アダム・スミスの時代の社会情勢だからこそ価値ある主張なのである【1】

 さて、ここまで2例を示したが、それなりに時間がかかり、骨が折れる。場合によっては下調べだけで飽きてしまうような古典をなぜ読ませようとするのか、という話であるのだが、この手間をかけて読む、という行為を研究の一環として大学教授側は捉えているのではないだろうか。
 研究というのは基本的に時間と手間をかける。もちろんゼミで研究に向けた訓練はするのだが、その実践の場として古典を読む行為を勧めているのかもしれない。

 個人的には、古典であってもいつでも読んでもいいと思っているが、研究者にならない限り、勤め人となってからの読書冊数が極端に減る日本を見据えて、時間のある大学生の間に読んどけ、という人生の先輩からのメッセージの可能性もあるかもしれないとも思っている。

【1】
 少々専門的な話をすると、アダム・スミスが国富論で展開する主張は、セーの法則が暗黙として成立している、というところがある。セーの法則、というのは、供給があればすぐ需要となる、言い換えると、全体的にモノが不足している状況なので市場にモノを出せばすぐ売れる、ということである。それゆえ、国富論の最初の主張は、市場に出すモノをより多く作るために分業して生産性をあげよう、というものなのである。なんなら、神の見えざる手、という言葉は書物全体として中間あたりの1回しか出ておらず、言葉がひとり歩きしている状態であろう。
 セーの法則は大恐慌の時代にもはや成立しないと認識されたため、現代においてアダム・スミスの主張をそのまま適用しようとする経済学者の主張はあんまり影響力がないとされる。