ねぶくろ
2025-09-06 20:01:16
5155文字
Public Skeb
 

FIKA

Skebにて納品した作品です



 面談までに記入しなさい、と担任から配布されたのは進路希望調査票だった。教室にはちょっとした混乱が生じ、多くの生徒が後ろを振り返ったり椅子を寄せたりして、隣近所と話し出す。「どこにする?」「そこは無理だろ」なとど囁き交わす声は次第に大きくなり、あっという間に騒々しくなった。
 まとまりを失った生徒たちを前に、担任は軽いため息を吐いて、「面談は来週から。それまでに記入すること」とだけ言うと、さっさと教室を出て行った。
 なし崩しに終わったホームルームに、手元に残った紙を眺めて、目を瞬く。ハンスが黙ってそうしていれば、クラスメイトのエリックが用紙を片手にハンスの席までやって来た。その場にしゃがみ込むと、机に両の腕をのせ、上目遣いでこちらを見上げて来る。
「お前、進路決まった?」
「いや、今配られたばっかだし、正直全然考えてなかった。そっちは?」
 やりたいこととか決まってる? と軽い気持ちで尋ね返せば、エリックはよくぞ聞いてくれたとばかりにニヤついて、既に欄の埋まった用紙を机上に滑らせた。見れば、志望進路として遠方の大学名が並んでいる。どこも、この街からは特急列車や飛行機の距離だ。目を瞬いて、彼を見る。
「なんか、遠いところばっかだな」
「それ第一で決めたからな! オレ、卒業したら家を出るんだ」
 どこか誇らしげに笑う彼に、「へぇ」と鈍い相槌を打つ。エリックは進路希望調査票を手に取り、ゆらゆらと揺らして言葉を重ねた。
「何よりもまず実家から出る! 自立して、彼女つくって、社会に出たら早いうちに結婚して、仕事もバリバリしながら子供を愛する! これが俺のライフプランだ!」
「彼女ってそんな、大学入ったとたんにポンと出来るものじゃないだろ……
 エリックには悪いが、彼は別にモテる性質ではない。頭の出来も普通だし、運動もそこまで得意ではないし、いつも笑みを浮かべて大きな声で話すので、クラスの女子からは完全にお笑い枠だと思われている。
 ハンスの心を読んだのか、彼はこちらを睨んで、「失礼なこと考えてる顔だな……。実家を出て自立した男になったらオレにもチャンスはあるだろ!」と顔をしかめた。軽く小突かれて、「友達を小突く男は選ばれないだろ」と言い返す。エリックも負けじと、「何も決まってない男よりは可能性がある!」と言葉を返した。
 その言葉に、ハンスは白紙のままの調査票に視線を戻して、苦笑と共に頷いた。
「確かにそうかもな。まぁ、来週まで時間はあるし。ゆっくり考えるわ」
 ハンスの言葉に、エリックはこだわりなく頷いて、「決まったらお前のも教えろよ」と肩を叩くと、他の友人にも同じ話をするために、別の席へ向かっていった。その背中を見送って、用紙を手に取る。第三希望までを記入できる調査票の最上部には、『私は、次の進路を希望します』という文言と共に、『進学・就職』と丸を付ける欄がある。それを見て、ハンスはほとんど無意識に『進学』に丸を付けた。
 母は、それを望むだろう。──兄さんだったら、どの大学を選んだだろうか。それを軸にして決めれば、きっと間違えない。そんなことを考えて、席を立つ。ハンスは教室を出た。

         *           *           *

 牛乳と卵、レタスにトマトと、在庫のなくなったパスタの麺。明日の朝食にするためにシリアルも籠に放り込んで、帰路につく。重たいエコバッグを肩にかけ、ハンスはぼんやりと進路について考えていた。
 努力して進学校に入学したは良いものの、ハンスは勉強が好きなわけではない。何か学びたいことがあるわけでもなく、進学先を考えても思いつくものは一つもなかった。
 来週までには何かしらの方針を見つけなければ、と思いつくままに学科の名前を頭に浮かべる。理工学部、薬学部、医学部、文学部、教育学部に、社会学部。──名前だけは知っていても、何をしているのかはピンとこないものばかりだ。
 考えている内に家の前にたどり着き、鍵を取り出して「ただいま」と玄関先から声をかける。母は在宅しているはずだが、返答がない。落ち込みの周期に入っているのだろう。ハンスの母は精神的に安定しているとは言い難い。心身の調子には波があり、落ち込んでいる時期は食欲が落ちたり、頭痛に悩まされたりと、大変なようだ。
 気持ち静かに、足音を立てないようにキッチンへ向かう。買い込んだ食材をそれぞれ所定の位置に仕舞い、ハンスは手を洗うより先に居間を覗き込んだ。
 明かりをつけていない部屋の真ん中、ソファに横たわる母の姿を確認して、小さく「ただいま」と声をかける。彼女はかすかに頭を揺らすと、「……おかえりなさい」と苦しげに応じた。
「夕飯、俺が作るけど、何食べたい?」
 そもそも食欲があるのか、と疑念がよぎるが、表情には出さずに明るい声音で尋ねる。彼女はソファに横たわったままの姿勢で、「気にしないで」と呟いた。
「食欲がないの。……外で食べてきてもいいわよ」
 ぐったりと、どこか投げやりに放り出される言葉にも、表情を変えないまま明るいトーンで言葉を返す。
「いろいろ買って来たし、作るよ。多めに作るから、お腹すいたら母さんも食べて」
 反応は返ってこない。ハンスは洗面所で手を洗い、キッチンにとんぼ返りした。
 鍋に水を入れて火にかけ、沸騰を待つ間に買って来たトマトを水で洗う。お湯が沸いたところで鍋にパスタの麺を二人前放り込み、様子を見ながら合間にソースを作る。母が食べるときのために、少し多めに。出来上がったら、一人前だけタッパーに取り分ける。
 忙しなく立ち働いている間に茹で上がった麺を、使う分のソースが入ったフライパンにあげる。味が均等に行き渡るように両者をよく絡めれば、簡単な夕飯の完成だ。具材はシンプルで手の込んだ料理でもないが、男子高校生の腹を効率よく満たせるという点において、ハンスはパスタを好んでいる。
 何より、あまり料理が得意でないハンスでもそれなりのクオリティで完成させられることがありがたい。今どきの麺は多少茹で時間をオーバーしても美味しく出来上がる。皿に盛り付けた大盛りのパスタを食卓に運び、ハンスは一人で「いただきます」と両手を合わせた。フォークで麺を巻き取り、大きな口をあけて咀嚼する。
 教室で漏れ聞こえた話によれば、しっかり者のアンナは看護師を目指して専門学校へ進学するつもりらしい。クラスで一番背の高いカールは、バスケットボルのプロを目指していて、スポーツ推薦を受ける準備をしている。いつも快活なエマは、旅行会社の企業パンフレットをいくつも取り寄せていると言っていた。
 何も考えていないのは、自分だけだ。みんな、どこかへ飛び立つ準備をしている。自分で目標を考え、進むべき道を見つけ出して、そこへ目掛けて努力をしているのに、自分だけが何も見つけられていない。
 ひどく出遅れているような、自分だけが置いて行かれるような、そんな焦燥が喉に引っかかる。
 ハンスはパスタと共にため息を飲み込み、空っぽになった皿を前に、両の手を合わせた。「ごちそうさま」と呟いて、シンクに皿を下げる。居間で寝ている母には声を掛けずに、ハンスは自室へ引っ込んだ。

 一人になって、息を吐く。気が緩むと同時に強い眠気に襲われて、欠伸が零れた。空腹を満たしたからだろうか。まだいつもより早い時間のはずなのに、と時計を確認するために、カバンからスマートフォンを取り出す。
 ロック画面には、新着通知が一件表示されていた。時刻よりもそちらに気を取られて、ロックを解除する。見れば、今朝がた送ったメッセージに対して、ネオから返信が来ていた。 




「ホットコーヒーを一つ」
 トレーにてんこ盛りにされたドーナツを一瞥し、ネオが低い声で店員に注文を伝える。財布を取り出す彼に促され、ハンスは込み合った店内で二人が座れる席を探した。コーヒーの完成を待つ間に、トレーを手にして店内を歩き回る。午後の時間だからか、店には老若男女を問わず、多くの客がいた。賑やかな会話をBGMに、なんとか窓際の席を確保する。ハンスがネオを探して振り返れば、彼は遅れて出てきたコーヒーを片手にこちらへやって来た。席について。両手を合わせる。
「いただきます!」
……いただきます」
 クリームのたっぷり入った揚げパンのようなドーナツに、チョコレートでコーティングされたスタンダードな円形のドーナツ。輪をつくるに際してくりぬいた真ん中の生地に、粉砂糖をまぶした丸いドーナツ。ハンスがパクパクと大きな口をあけて色とりどりのドーナツを平らげていけば、向かいの席でネオがわずかに目を細めた。口元が強張っているのは、見ているだけで胸やけしたのかもしれない。もぐもぐと口の中の甘味を飲み下して、唇を舐める。ハンスは、「奢ってくれてありがとうございます。美味しいです」と笑みを浮かべた。
「あぁ。……そんなに食べて胃もたれとか、しないのか?」
「ネオさん、俺のこといくつだと思ってるんですか? こんなの、全っ然ヨユーですよ」
 そうか、とどこか遠い目をした彼に笑みを返して、口元を拭く。ハンスは気持ち姿勢を正して、「あの、メッセージでも軽く触れたんですけど、ちょっと相談したいことがあって……」と彼を窺った。カップを傾けた彼が、その縁から視線だけで先を促す。ハンスは迷うように視線をトレーの上に落として、指先でお手拭きを弄んだ。しばらくの間を置いてから、「進路を決めないと行けないんです」と口火を切る。
「今週末に面談があるんですけど、……俺、まだ何も決められてなくて」
 相談に乗ってほしいです、と目線を持ち上げれば、ネオは予想外に優しい顔で「そうか、もうそんな時期なんだな」と頷いた。
「俺に適切なアドバイスができるかはわからないが、そういうことなら話くらいは聞こう」
「ありがとうございます! って言っても、ほんっとうに何も決まってないんですけど……
 肩を縮めたハンスの言葉に、ネオはふむ、と何かを考えるようにこちらの顔をじっと見つめた。たじろぎつつ、視線を返す。彼は数秒の間を置いてから、「進路は、大きく分けると、進学か就職か。ふたつに分けることが出来るだろ?」と口を開いた。
「あくまでも個人的な考えだが、やりたいことや将来の目標が何も決まっていないのなら、進学する方がいい」
……なんでですか?」
 尋ねたハンスに、ネオはコーヒーのカップを手に取りながら、「選択肢が広がるからだ」とこともなげに言い切った。要領を得ずに目を瞬けば、補足するように彼が「例えば」と言葉を重ねる。
「ある日突然、お前が医者になりたいと思ったとして、就職していたら、まずは資格を得るために大学に入らないといけなくなる。当然、仕事はやめることになるし、それは大きな選択だ。それに対して、お前が進学していれば、転入試験を受けたり、同じ学校で次のシーズンから資格を取得するための授業を選択したりすれば、それで済む可能性が高い」
 学生の方が、やりたいと思ったことに挑戦しやすい。そう言い切った彼の言葉に、「なるほど……」と神妙に頷く。ハンスはトレーの縁に視線を落として、小さく息を吐いた。元々、あまり就職をする気はなかったが、こうして話を聞くとますます進学の方がいいように思える。ほんの少しだけ方針が固まってきた事実に、わけもなく焦っていた気持ちが落ち着くのを感じた。顔を上げて、「じゃあ、近くの大学を調べてみます」とネオに向けて笑いかける。
 ハンスの言葉に、彼の表情が、何か言いたげに強張った。目を瞬いて、首を傾げる。
 ネオはカップを手に取り、不自然に生じた無言を埋めるようにコーヒーを口にした。がやがやと賑やかなドーナツショップの中で、二人の間にだけ沈黙が落ちている。ネオは音もたてずにカップを置くと、ハンスから微妙に目を逸らして、「……もしも、の話だが」と口を開いた。
「お前の目指したい場所が遠方にあっても、一度、俺に相談しろ」
……。はい」
 頷いて、──それから、首を横に振る。ハンスはネオを真っ直ぐに見つめて、言葉を返した。
「ネオさんが俺のことを心配してくれるのは、嬉しいです。けど、俺は多分、進学するとしても近くの大学を選びます。……それだけは、決めてるんです」
「そうか」
 彼は短く頷いて、カップを空にした。それ以上は何も言わずに、ただ、「行くか」と声を掛けられる。ハンスは空になったトレーを手に立ち上がり、さっさと歩きだしたネオを追いかけた。