細剣が重い。いつもならば、まるで手足の延長のように操れるはずの武器が、とてつもなく巨大な鉄の塊をつけているかのように重い。おまけに、全身は錘がついているかのように、一挙手一投足にすら倦怠感が混じる。
本来ならば、自身の不調を案じて、隙を見て逃げるべき場面だ。
だが、それができない理由がここにある。
「どうした。啖呵を切った割には、随分と足元がふらついているようだが」
「……言ってろ。そっちこそ、老人が若者の真似事なんざするもんじゃないぞ。腰をやっても知らねえからな!!」
己自身を鼓舞するように、声だけは張り上げて、振るった細剣でオーバンの一撃を払う。
オデットが礼拝堂の仕掛けを動かしてしまったのは、オーバンの目にも見えていたはずだ。
だからこそ、彼は余裕を保っている。
このままオデットが何かの手違いで魔法を発動するなら、オーバンとしては苦もなく成果を得られることになる。たとえ、魔法を発動せずとも、転送魔紋が発動したならば、魔法に続く扉は開いたも同然だ。
もし、転送魔紋が閉じたとしても、魔法の元に辿り着いてしまったオデットが皆の元に帰るためには、やはり再び転送魔紋を使うしかない。
つまるところ、オデットはもはや袋の鼠も同然というわけだ。
(だからこそ、こいつが来る前に全てを終わらせてしまいたかったんだが……!!)
十重二重と自分の策略を張り巡らせる老獪な貴族。それに太刀打ちできるほど、ルーシャンたちには手勢もなければ、経験もない。
しかし、悪態を吐いたところで、オーバンが引いてくれるわけでもない。その証拠に、彼は今も本気でルーシャンと相対している。
「――っ」
老齢であっても、オーバンの剣の鋭さは衰えていない。それどころか、年を考えればよくぞここまでと思うほど、鋭敏な立ち回りを見せる場面があるほどだ。
対するルーシャンは、サルヒの激闘の際に負った傷も残っている。
ただでさえ、オデットを連れた旅路で気を張り続けていたのだ。目的地に着いたら寝不足などとは笑えない、とオデットに叱られていたが、この分では本当に彼女の叱責を笑い飛ばせない。
顔面に迫るオーバンの剣を薙ぎ払うように弾き、一度距離をとる。ほんの僅かの一呼吸の間に、
「ノエ、オデットを追え! お前が、本気でオデットを守りたいと思っているなら、嬢ちゃんところに行け!!」
だが、どうにか口にできた呼びかけに、ノエが応じる気配はない。
それもそのはず、ノエは今、ルーシャンから離れた場所で何名もの騎兵を押し留めている。彼がそこから抜け出れば、今度は騎兵はルーシャンを追い詰めるだろう。その末に自由になったオーバンが、オデットの元へと辿り着いてしまう。
「無駄だ。あの若者がどれほどの剣の達人であろうと、十を超える相手を一度にしては、互角を維持するのが精一杯だろう。個人の感情ではなく、場の均衡を優先するとは、裏切り者相手に随分と泣かせてくれる」
悔しいが、オーバンの言う通りだ。そう思いかけた時だった。
「――……そいつはどうかな」
ルーシャンの背後にある礼拝堂の扉へと、駆け出した影。
それが何者かを目にして、オーバンの余裕が僅かに揺らぐ。
「あやつは……っ!!」
「おっと。爺さんの相手は、俺だろ。目移りなんて、それこそ泣かせるな!!」
骨に響く痛みを無視して、一歩前へと強く踏み出る。重たい腕を懸命に振るい、無数の槍衾の如く突きを繰り出す。
魔法を使う余裕はない。だが、剣技だけではあっても、手数の差で一時的にオーバンを圧倒できたようだ。礼拝堂の扉が閉まる音に、ルーシャンは自分の必死の牽制に意味があったと確信を抱く。
「……あの者を貴様は信用しているのか」
「ミラベルのことについちゃ、正直、半々だ。俺はお前ほどあいつを知らないし、あいつ自身も俺のことはよく知らないだろう」
ノエへと呼びかけたルーシャンに応じたのは、ノエではない。
オデットのもう一人の兄――ミラベルだった。
ノエが抜けるか自分が抜けるかなら、戦闘の技量はノエより一段劣る自分が抜ける方が影響が薄いとミラベルは考えたのだろう。
「俺はミラベル個人を信用したわけじゃない。だが、オデットに関することならあいつは本気になれる。そういう信じ方をしているのさ」
「あやつはイシュガルドの人間だ。国のために、娘を捧げるかもしれぬぞ。もっとも、それは私にとっては願ったり叶ったりの話だがな」
「それができる奴なら、オデットに向けてあんな顔をしていないだろうさ!!」
そうは言ったものの、ルーシャンは、自分がどちらの味方をしているのかわからなくなっていると感じていた。
オデットを代償に魔法を発動させれば、それは当初の目的――後継者としての己自身の証明になるのか。
ミラベルがオデットを説得したならば、それはオーバンが魔法を横取りしたことと同じになるのか。
そもそも魔法を発動させたいのかどうか。それすらも、今となってははっきりとした答えが見えなくなっていた。
ルーシャンの葛藤が顔に出たのか、オーバンの顔に嘲弄が浮かぶ。
「どうした。私をセレスタンの魔法に触れさせたくなかったのではないのか!」
「……っ。ああ。それだけは確かだ。てめえみたいな、親父の遺産を掠めとったコソ泥なんかが、あの人の成果に触れていいわけがないだろ!!」
一瞬揺らぎかけた心を、これまで醸成してきた憎悪で塗りつぶす。そうして、再び奮起しようとした矢先。
オーバンの剣が、ルーシャンの剣を絡めとるように動く。させじと、すぐに身を引き、牽制がわりに魔力で生み出した剣を投擲する。
しかし、それはサルヒとの激闘の際に生み出した一撃には遠く及ばない。
臆することなく、難なくそれを払うオーバン。しかし、二人の間にはその攻防の末にいくらかの距離ができていた。
「親父の遺産を掠め取る、コソ泥か。随分なことを言ってくれる」
「事実だろ。……ああ、いや、お前は答えなかったな。俺が魔法を発動する名誉目当てで親父を殺したと非難した時。お前は――答えなかった」
戦端が切り開かれるその直前。ルーシャンが口にした問いに、オーバンは明確な答えを返さなかった。
「なぜ、私がセレスタンを――エヴラール家を滅ぼしたのか。貴様は、私にそう問うたな」
「……ああ」
戦いの始まりに投げかけた質問。返事がなかったはずのそれに、今更になってオーバンは答えようというのか。
時間の無駄と一蹴してもよかった。だが、今ここでオーバンに語らせることで、少なからずノエたちが騎兵を退け、オデットの元に向かう時間は稼げる。すでに体力も残り少ないルーシャンにとって、話を長引かせるのはむしろ有益だ。
(それに……俺はまだ、答えを知らない)
犯人を知れても、理由は知らない。理由などどうでもいいと既に言い捨てられなくなっているのは、戦いの始まりに口にした通りだ。
「まず言っておこう。私と、私の従者であったユーガンが、エヴラールの魔法を奪いたいがために一家全員を焼き滅ぼしたと思っているのなら、それは貴様の思い違いだ」
「何かの手違いとでも誤魔化すつもりか。あんたは自分の口で言ったんだぞ。自分たちの手でエヴラール家を滅ぼしたのだと。ユーガンもあんたも、今更、自分は無実だとでも言うつもりか」
流石に、その言い分は見過ごせない。ルーシャンの語気に怒りが混じったのも意に介さず、オーバンは続ける。
「それを言うなら、ルーシャンよ。ユーガンを殺したのは、貴様だろう」
復讐のために殺した執事の名を出され、ルーシャンは言葉に詰まる。事実、ルーシャンは彼を殺したのだ。復讐のためとはいえ、オーバンが従者を殺されたことを恨んでも仕方ない。
憎悪の応酬が続くのかと思いきや、オーバンはゆるく息を吐き出した。
「あれを殺されたことについては、私的な感情の面で言うならば、私にも思うところはある。だが、あれのとった選択を思えば、貴様の憎悪を否定する道理を私は持ち合わせていない」
一瞬、この話をこのまま聞き続けてよいのか、とルーシャンは迷う。
ここでオーバンの話を無駄と切り捨てれば、あの日、どんな理由で父が、家族と呼んでいた人が死んだのか、その原因が分からなくなってしまう。
ルーシャンも、引っかかるものは覚えていた。オーバン・ド・ニヴェールは本当に私利私欲のためだけにエヴラール卿一家を殺したのかと。
犯人は目の前にいる。動機もいくつか推察している。
しかし、それはあくまで推察だ。あの日の全てを、ルーシャンは知っているわけではない。
そして全て知った時、自分はこれまでの自分のままでいられるのか。
躊躇している間にも、時は進んでいく。
「ユーガンが殺されるのは当然だったと、主人であるお前がそう言うのか。そいつは、俺が言うのもなんだがユーガンも気の毒なことだ」
「主人として、できるならばあれの死をそのように語りたくはない。しかし、セレスタンを殺した私に、後腐れなくエヴラール家から全てを奪うのなら、一家全員を始末するのが最も手っ取り早いと進言したのはユーガンだ」
オーバンとユーガンが、最初から結託してエヴラール家を滅ぼしたのかと思いきや、オーバンの口ぶりではそうではないらしい。
どちらが次の一手に踏み出すかを迷っている間に、ルーシャンは素早く過去の経緯を組み上げ直す。
「ユーガンが進言したことだから、自分は無関係だとでも言うつもりか。だが、お前は今、親父を殺したと自分で言ったんだぞ!」
「言ったとも。もっとも、はなから奴を殺すつもりで、あの日やつの邸に向かったわけではない。セレスタン・ド・エヴラールは、私の友人だった。たとえ、私の娘を――私がやつの息子の嫁にと送り出したジャンヌを死なせたのだとしても、あれに非がないと私も思おうとしていた」
「……だったらなぜ、お前は親父を殺した。最初からそのつもりじゃなかったなら、なぜ!」
そんなつもりはなかった、と言われたことが、逆にルーシャンの感情に火を点けてしまう。話を聞くべきだと促す自分よりも、感情が彼を先走らせてしまった。
隙を読みあう場面だったというのに、気持ちに任せて一歩前へと出る。
大きく振られた細剣の回避は容易だっただろう。オーバンは、まるで子供の癇癪をあやすように、見せつけるようにルーシャンの攻撃を難なく剣でいなす。
しかし、そこで終わらない。ぶつかりあった細剣を押しやるように、今度はオーバンの一手がルーシャンへと迫る。
「――!」
それもまた、感情に任せた攻撃。その意味を悟り、ルーシャンも回避をしつつ、思わず仇敵の様子を観察してしまう。
「……なぜ、私がセレスタンを殺したかだと?」
今まで、老獪な権力者としての振る舞いを崩さなかった男。ルーシャンにとって憎くてたまらない相手。その男が初めて――剥き出しの感情を見せる。
「奴が認めたからだ! 私の娘の死は無意味なものだったと!! 奴のくだらない躊躇のせいで、ジャンヌは――私の娘は命を散らしたのだ!!」
「義姉上が亡くなったのは、病気が原因だろ。たしかに、夫であった兄貴に責任があると言えばそうかもしれないが……!」
「いいや、違う。ジャンヌは、病で死んだのではない。あれは――超えてはならない一線を超えてしまったのだ」
「……いったい、何の話だ」
オーバンの激発が、かえってルーシャンの感情を宥める。
これまで、ルーシャンは己の憎悪の断片を少なからず他者に漏らしていた。従者であるサルヒは、それを静かに受け入れてくれた。だからこそ、ルーシャンは今まで憎悪を忘れずにいたと同時に、その煮えたぎる憎悪を程よい形で宥められていた。
だが、オーバンは違ったのだろう。今この瞬間まで、先ほど口にしかけた内容を誰にも分かち合えず、語らずにいたのだ――そう、ルーシャンは直感で悟った。
「私の娘は――ジャンヌは、魔道の魅力に取り憑かれていた。だからこそ、エヴラール家の見合いの話を、両手をあげて歓迎した。セレスタンも、ジャンヌの魔道に対する好奇心を知っていたからこそ、彼女を家に迎え入れようとしたのだろう」
魔道の研究を旗印とするエヴラール家。その方針とは裏腹に、セレスタンの息子はどちらも魔道に対しての関心も薄く、その才能も平凡なものだった。
だからこそ、盟友であったニヴェール家に魔道への興味を抱く娘がいると聞いて、彼は身内に引き込もうと考えたのだろう。
「だが、ジャンヌはセレスタンのような魔道狂いではない。あれは、貴族として生まれた己の立場と、その責務を承知していた。そして、貴族として、庶民の出である貴様のような者に、家が代々継承してきた重要な魔法の管理を任せるわけにはいかないと、そのように何度も義父であるエヴラール家当主に進言していたそうだ」
「…………」
その話には、ルーシャンにも聞き覚えがあった。
だが、結局ルーシャンの傑出した魔道の才能と、セレスタンとルーシャンの間にある友好的な関係が重要視されたのか、後継者の座が兄夫妻に譲られるということはなかった。
もともと、養子であったルーシャンは、義兄夫妻とはそこまで親密な間柄でもなかった。
彼らは、オーバンと同様、貴族としての地位と権力に自覚的な人間であった。
晩年になってから、父親がどこぞの孤児院から見出した年の離れた義弟に対しても、いい感情は持っていなかったようだ。
殊更にいじめられたわけではない。ただ、なるべく関わりたくないものとして扱われているのだとは察していた。ルーシャンも己の立場を弁えて、彼らとは適度な距離を置くようにしていた。
兄が、魔法の後継者として選ばれたルーシャンに屈折した感情を抱いていることは、うっすら察していた。
だが、どこかで自分は思っていたのだ。
――だって、魔力のない義兄上に任せられないって、親父が決めたんだから。
それが生まれつき持った魔道の才という、最も残酷な格差に無自覚だった自分が、無意識に振り翳した傲慢だと気がついたのはもっと先の話だ。
「ジャンヌは、己と夫が魔法の後継者に選ばれないならばと、エヴラール卿が次の後継者として認めるだけの、魔道の才をもつ子供を求めた。そうすれば、貴族として正当な血筋を持つ己と夫の元に、エヴラール家が積み重ねた研究の成果が戻ってくる。そうして、あれは己の肉体すらも研究の材料として――その無茶が祟り、死んだのだ」
「――――!」
瞬時、息を呑んだ。ある日突然訪れた義姉の訃報にそんな理由が隠されていたなど、ルーシャンは全く知らなかった。
彼女の死因をオーバンがここまで断定的に語るということは、エヴラール家当主自らが友人であり嫁の父親であるオーバンへと語ったのだろう。
オーバンにとって、娘は次期当主すら任せようとしていた優秀な子供だったと聞いている。しかし、彼女自身は魔道に惹かれていた。だからこそ、エヴラール家の持ち掛けた婚姻受け入れ、実家の後を継ぐという道から外れた。
オーバンにとっては、自らの後継を奪われるのは不満もあっただろうが、それでも娘がやりたいことができるのなら、と見送ったのかもしれない。
そして、行き着いた結末がこれでは――確かに、あまりにやるせない。
「……たしかに、そいつは気の毒な話だ。だが、それがどうして親父の責任になる」
気の毒だという感傷に一時的に引きずられかけたが、呼吸を整え、ルーシャンはオーバンを見据える。
「義姉上が、後継者に相応しい子供を求めて、自分の肉体に干渉をしたのが事実だとしても、それは義姉上と兄貴が勝手に進めたことで、親父がそうしろって言ったわけではないだろう」
「ああ、そうだ。だが、それもこれも、エヴラールの魔法を継ぐ者が必要であるという前提があってのことだ!」
「……っ、そうか。魔法は――!」
思わず、礼拝堂へと視線をやる。これまで自分が散々オデットに語って聞かせた話を振り返る。
「貴様も知っているだろう。既に魔法は完成していたのだ! その使い手となる魔道士も、セレスタンのすぐそばにいた! だというのに、そのことを誰にも言わずに、奴は無意味な躊躇いを何年も続けてきた!! これに非がないと、どうして言えようか!!」
息子の嫁が、次代に繋ぐ後継者を私が生み出してみせますと息巻いた時。
もし、エヴラール家の当主が一言言っていれば。
もう後継者は必要ないのだと、それさえ言ってくれれば。
「すでに魔法の完成は成ったと、お前は後継者を求める必要はないのだと、ただ一言言っていれば! あの子は、無茶な研究に身を捧げて死ぬこともなかったのだ! 貴様のような思い上がった平民風情が、セレスタンを惑わさなければ――奴が貴様などを惜しまなければ、あの子は――!!」
それは、獣の咆哮だった。
娘を、よりにもよって、もっとも無意味な形で奪われた父親。
何十年と積み重ねてきた怒りが剣となり、ルーシャンへと襲いかかる。
あまりに真っ直ぐすぎる一撃。本来ならば、容易に受け流し、カウンターで叩きのめせる刺突。
だが、その剣先は、真っ直ぐに――ルーシャンの腹を貫いていた。
「……っ、親父が、そう……言ったのか」
負傷していたといえ、ルーシャンが不覚をとった理由。それは。
「親父が、俺を惜しむと……そんなことを言ったのか」
自分が後継者に選ばれなかった理由。鍵の守り手から外されていた、という失望。
その原因を求め、ルーシャンは父への失望を選んだ。オデットの語るような、優しい理由を探せなかった。
これまで積み重ねた五年間の失望が、今、父への後悔とも贖罪とも言えぬ形で湧き上がる。
「――ああ、そうだ。あの日、奴は私を呼び出して、尋ねたのだ。今ここで魔法を使えば、邪竜を滅ぼせる。だが、そうすれば領民の平穏を奪い、自分の愛弟子であり息子も同然に可愛がっている青年を失うことになる。私はどうすればいいのか、友人として相談に乗ってほしいと――」
剣を握る腕に力が籠ったのか。腹の奥に、深く刃が差し込まれ、ルーシャンの口から血が流れ落ちる。
けれども、その痛みなどよりも、こちらを睨み続ける老爺の一言一句を聞き漏らすまいと、ルーシャンは全ての神経を耳に集めていた。
「そのような馬鹿げたことを、と私は一蹴した。平民あがりの養子が魔法を発動する礎になるのなら、それこそ最高の名誉だと言ってやった」
オーバンならそう言うだろう。オーバンでなかったとしても、貴族として、イシュガルドに生きる者の大半ならば、ルーシャンを切り捨てろと言うだろう。
「だが、それでも奴は嫌だと首を横に振り続けた」
それは、彼が――セレスタンが、ルーシャンをただの後継者として見られなくなってしまっていたから。
一人の息子として――愛してしまったから。
「そうして酒を飲んで宥めている間に奴が漏らしたのが――私の娘のことだったのだ」
死んだ息子の嫁のためにも、魔法を使うべきなのだろうか。
最初そう聞いた時は、話の繋がりがオーバンには分からなかった。
病で死んだ娘が、どうしてエヴラール家の魔法と関わりがあるのかと疑念を抱いた。
だが、酔いで滑りやすくなった口が語った内容に、オーバンは目の前が真っ暗になった。
よりにもよって父親である男を前にして、娘の死因は無意味も同然だったとセレスタンは語ったのだ。その無神経さに怒りを抱くと同時に、目の前の古馴染みであったはずの男が、理解できない生き物になったかのようにオーバンには思えた。
思えば、物心ついたときから、セレスタン・ド・エヴラールの目には魔法と己の愛するごく個人的な小さな世界のことしか映っていなかった。
彼にとって重要なのは魔道士としての才能の有無と、自身に宿る好悪の感情が全てだったのではないか。
使用人の女性に懸想し、彼女の娘を自分の用意した籠の中に閉じ込めたように。
平民の子供を養子にし、実の息子よりも深く愛したように。
家や血筋というものはセレスタン・ド・エヴラールという人間にとっては仮初の舞台に過ぎず、ただ自分の好むものだけを寄せ集めた空間だけが、セレスタンという人間の全てだったのではないか――少なくとも、あの日のオーバンの目にはそう映った。
「……奴は、ジャンヌの死は無駄だったと言った。可哀想なことをしたと。だが、話してしまえば、即座に魔法を発動するべきだと迫られる。これ以上の重圧を負いたくなかったなどと抜かした。ジャンヌの決死の嘆願は、奴にとってその程度のものだったのだ」
「……だから、殺した、のか」
「そうだ。あの瞬間――両家の友好も、貴族としての私の立場も、全てがどうでもよくなった」
衝動的な行動だった。
携えていた剣でセレスタンの心臓を貫き、返り血を浴びたオーバンは、そこで漸く我に帰った。同席していたセレスタンの従者を同様に仕留めていたのは、オーバンよりいくらか冷静だったユーガンだった。
彼は、素知らぬ顔で言った。
『お館様。最も腹を探られない方法がございます。今夜、この屋敷にいるものを皆殺しにするのです。そして、エヴラール家の遺産を全て我が物としましょう。それが、お嬢様への弔いともなりましょう』と。
ユーガンは、もともとは家令であると同時に、優秀な護衛でもあった。
深夜の突然の襲撃を切り抜けられる家人は、屋敷にはいなかった。当時、あまり経済的に豊かではなかったエヴラール家は、護衛の兵を最低限にしていたのも結果的に仇となったようだ。
そうして、主だった人間を殺害したあと、屋敷に火は放たれた。
出火の発端自体は、目を覚ました家人が燭台を倒したことによる偶発的なものだったが、ユーガンはこれを好機として利用することにした。
「セレスタンは、話の場で私に鍵を見せていた。最初、それが何かもわからずに持ち出していたが、魔法の研究成果が地下の書庫から見つかり、私は決めたのだ。ジャンヌの死を無駄にしないためにも、奴が作ったという魔法を必ず発動させてみせると」
「――……はっ。それも、詭弁だろ。結局、お前は……娘の死の原因を親父に押し付けて、意趣返しがしたいだけだ……っ」
さらに深く刃がねじこまれ、ルーシャンは思わず瞳を歪める。サルヒが泣いていないといいが、と掠れていく視界の中で、場違いなことを思う。
「ああ、貴様の言う通りだろうな。私は、奴が大事にしたものを悉く踏み躙り、奴のなし得なかったことを成し遂げたいだけなのだろう。だが、そうすることで、漸く……この老骨にこびりついた最期の因縁から解放されるのだ」
言葉と同時に、ルーシャンの腹からずるりと剣が抜ける。刀身が押さえていた傷口から血が溢れ、ぼたぼたと赤黒い血溜まりが地面に落ちた。
喉の奥を血が逆流し、口から血が吐き出る。その衝撃で、内臓が引き裂かれんばかりに痛んだ。
もはや、勝敗は歴然だ。
一瞬乱れた呼吸を整え、オーバンは踵を返し、礼拝堂に向かって歩き出しかけ、
「――待てよ」
その体を、血濡れた二本の腕が捕まえる。
「俺に恨み節だけぶつけて逃げようったって、そうは行くか……!」
鬱陶しいと払い除けようとしたが、存外に半死人のごとき男の力は強い。死にかけの人間が何をしようとしているのかと、眉を寄せ――気づく。
この男は――ルーシャンは、生粋の剣士ではない。
彼は、セレスタン・ド・エヴラールが認めた、魔道の天才だと。
「離せ、貴様……!」
「てめえも、少しは持っていけ……!! 親父と、兄貴どもの分もな!!」
*
――氷の華。
すっかり夜の闇に包まれた礼拝堂の一角で、一瞬咲いた、泡沫の華。
残された魔力はほとんどなく、それが花開いたのはほんの一瞬。
氷に半身を閉ざされた老爺も、最初こそたじろいだものの、慎重に氷を砕いて、すぐに即席の氷獄から脱出した。
魔法の発動者であるルーシャンごと閉じ込めた氷塊は、あっという間に砕かれ、オーバンだけが悠々と礼拝堂への歩みを再開している。
(……俺は、なに、してるんだか)
渾身の力を振り絞った、最後の一撃。もし、あれで、火属性の魔法を選んでいたのなら、間違いなくオーバンにもっと痛手を負わせられただろう。ルーシャン自信も焼け死んでいたかもしれないが、少なくとも仇敵に一矢報えたはずだ。
暗くなっていく視界は、夜のせいだけではない。振り解かれた手はとうの昔に地面に落ち、溶けた氷塊に支えられていた体は地面に倒れ伏している。冷え切ったクルザスの大地が、今は心地よい。
(……悪い。親父。俺は――きっと、あいつの怒りに、納得しちまったんだ)
娘の死を無意味だと切り捨てられた刹那、オーバンの胸に渦巻いた父親としての激しい怒り。
魔法の生贄に、お前の養子を差し出せばいいだけではないかという、貴族としての大局を見据えた発言。
それでも、養子である青年を愛したがゆえに、守りたいからこそ魔法を発動させられないと首を横に振り続けたセレスタン。
かつての己なら、どうしただろうか。
オーバンが自分の全てを奪ったという憎悪を忘れられず、それでも彼を焼いただろうか。
(……感化、されちまったのかね。あの馬鹿正直で生真面目な、若人に)
どんな人間であろうと、真っ向からぶつかろうとする青年の姿が、一瞬瞼の裏に翻る。
その隣には、薄紅の髪を波打たせた少女がいた。
彼女にも、ずいぶん迷惑をかけた。本来なら、巻き込まなくていい運命に絡め取ってしまった。振り返る彼女の顔が、一瞬少女と似ている、しかし少し違う面差しのあの娘へと代わり――
「旦那様!! しっかりしてください、旦那様!!」
泣かせたくないと思っていた女性の声に、閉じかけていた意識が薄く浮上する。
「いかないで、ルーシャン! お願い!!」
そんな風に感情的になるなんて珍しい。一体どうしたんだ、と笑い飛ばしてやりたいのに、今はもう、口元すらろくに動いてくれない。
「いかないで! 私は、あなたがいない世界なんて、耐えられない……!!」
それは、いつぞやも聞いた言葉だった。あれは、オデットが言ったのだったか。
横から聞いていたときは、なんという大袈裟な言葉だろうと笑っていたものだが。
「……そう、か。それなら……もう少し、だけ……」
何もかもが無くなった者にとって、これはきっと、楔となってくれる言葉でもあるのだ。
瞳を閉ざす直前、男はそう思った。
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