望月 鏡翠
2025-09-06 00:04:59
946文字
Public 日課
 

#1833 「津波」「ネックレス」「運転手」

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 今は顔も声も匂いも忘れて、首にかけたネックレスの印象だけが残っている。当時からそればかりを見ていたわけではない。むしろ、印象が薄い方だった。ネックレスだけが今も手元に残っている。
 だからそれだけが何度も記憶に刻まれて、彼女の胸にはこれがあったはずだと上書きされて、焼きついてしまった。確か南国のアイテムを取り扱う雑貨屋で買ったものだったはずだ。
 安いものだから壊れてもいいと言ってよくつけていた。だからあの日もつけていた。
 私はバスに乗り遅れて、仕方がなくタクシーを捕まえた。住宅地に普段タクシーなどいないが、たまたま目の前で降りた人がいたのだ。その人がどうなったのかは、想像に難くない。
 車に乗り込み、目的地を告げ、発車した。
 その後、急停車した。車に揺られていた私は、気づくのが遅れた。だが、すぐに気がついた。電柱が揺れている。地面が波打っている。屋根の瓦が崩れ落ちて、庭先に広がった。
 タクシーの運転手は無言だった。無言のまま、車は再び発進した。割れた道路や崩れた地面を、無視して無理やり車を勧めた。タイヤがパンクした音がしたが、止まることはなかった。
 何が起こったのか、私にもわかった。
「戻ってくれ。私は戻らなくちゃならない」
 後ろから不吉な波が迫っている。キラキラとした波が、異様な高さにある。
「私を降ろしてくれるだけでもいい。頼む」
 運転手は聞かなかった。人間を轢くことも辞さなかった。ただ無言で車を進めた。そのおかげで私は助かった。運転手も。
 家にいたはずの彼女は見つからなかったし、家も見つからなかった。
 ただ、家があったはずの場所は津波に押し流されて何もなかった。そもそも街が残っていなかった。瓦礫の場所を探し回っていて、ネックレスだけを見つけたのだ。確信はなかったが、それが彼女のものだと思わなければ、他に手掛かりも形見も一つとして見つけられなかったのだ。
 運転手のあのとき助けてくれた運転手のことは、名前も知らない。命の恩人でもあり、私と彼女を引き離したものでもある。そこには複雑な感情があり、すぐに受け止めることはできなかった。そうやっている間に、別れてそれきりになった。
 数年経った今は、名前くらい聞いておけばよかったと思う。