この関係を変えたい。こはくは眉を顰める。相棒・斑からメッセージの返事がないまま一時間。画面を睨んでため息をひとつ。
この関係を変えたい。他でもない、斑との関係を。
こはくと斑の関係は、幾つも幾つも、幾重にも幾重にも重なった不思議な情で結ばれている。本人たちにしか見えない糸で結ばれている。それは運命の赤い糸なんて可愛いものではないだろう。どす黒く、それでも澄み切った、彼らだけの色だった。
しかし、こはくは、
「
――変えたい、なぁ
……」
そう、ひとり漏らした。
こはくと斑の関係性は、ふたりの足跡にこれでもかと散りばめられている。時にビジネスパートナー、あるいは傷を舐め合うような仲。初めこそお互いを牽制してさぐり合うような、ギリギリの線を踏み越えそうで越えない。そんな剣呑な態度をとってきたが、いつしか慎重に絆を深めた。路地裏で出逢い、季節外れの桜が舞い、凍てつく雪が舞い、春を待つだけの時間を共有してきた。短くも長い、そんな風に名状し難い関係。名前をつけたら壊れてしまいそうなこの距離。大切な家族であり、唯一無二の相棒である。
それを、こはくは、変えたいと願う。
「こん抜け作
……もうちょい踏み込んで来いや
……」
穏やかに罵倒が聞こえる喫茶店。落ち着いたBGMと空気が流れるテーブル席に、こはくはひとり腰掛けていた。眼前には三分の一近くが残った冷めかけのオムライス。深い赤のソースが卵を伝い、皿に溜まる。
この、ソースと卵とバターのように。溶け合えたらいいのに
――。そこまで考えて、こはくは顔を歪ませた。
嫌なようにも、嬉しいようにも、はにかんだようにも見えるその歪みを、斑が見たらなんと言うだろうか。揶揄うだろうか。軽妙にカメラを向けるだろうか。もしかすると、万が一億が一、心配するかもしれないし、兆が一同じ顔をするかもしれない。
こはくは重い病いに冒されている。
斑が笑うと嬉しい。話していてよく動く口を見つめるのが楽しい。隣に立って歩けば胸が高鳴り、触れそうで触れない手の甲が焦れったく、触れた一瞬、弾かれたように距離を取った斑がバツが悪そうに〝すまない〟と告げた。そんな斑が、特別、とびきり愛おしい。無言のまま背中に身体を預けてバイクで走る、その時間が終わらなければいいと。頬に当たる風が止まらなければいいと。しかし、やはり顔を見つめていたい。エンジンの重低音にかき消されそうな、灯火のような心音が重なる。たまらなく心地よくて胸が掻き立てられて、泣きたくなるぐらいのこの気持ちも、同時に湧く勇気のような感情。
斑が、好きだ。
こはくはこの全てを知っている。持って、抱えて、今にも溢れ出しそうな感情の渦をなんとか懐柔して、笑う。斑の隣へ立つために。そんな毎日だったのだ。
ドン!
――とびきり静かだった店内に、コツン、ドン! 靴音とドアの閉まる音が響いた。
「こはくさあん! 待たせたなあ!」
顔の横でひらりと手を振った渦中のその人が、こはくの向かいに無遠慮にどしりと陣取った。
「遅いでほんまに! 一時間待たせてなんやその態度は」
「おやあ? 君がまだ食べ終わっていないなら、俺が今から料理を注文して〝一緒に食事をしよう〟というミッションは完遂される。ならいいじゃないか」
至極愉快そうによく回る口。こはくはひとつため息を生んで、テーブルを挟んで六十センチの距離を計る。
愛おしい、憎たらしい、嫌い、愛おしい。
溢れる感情が赤いチェックのテーブルクロスを伝わって斑に届けばいいのに。そんな非現実的な夢想をするぐらい、こはくは重い病いに冒されている。
「こはくさん? ママの声は聴こえてますかああああ!?」
「どぅわ!!」
「その調子だと聴こえてないみたいだなあ!」
「なんやいきなり
……。まぁ、斑はんは大抵いつもいきなりやったわ」
「おお! 俺のことをよく知ってくれているんだなあ! 感謝感激雨あられ!」
こんなに近くにいて意味もなくふざけ合う距離が、大切だった。それでも、それでもこの一線を壊したら、踏み越えたら
――琴線に、触れるとき。
「俺のことをよく知っていくれとるっち言うんは、逆もそうなんか?」
思わず問いかけてしまった。斑の眉が潜められる。そして一瞬で高く弧を描く上機嫌な眉。
「ほっほう? 俺はこはくさん鑑定四段といったところの自負はあるぞお?」
「ほんなら言うてみ?」
一歩も引けない。こはくはそれに齧り付いた。
「うーん、そうだなあ? Crazy:Bの一員で、年下として愛されていて、甘いものが好きで、純粋ないい子で変な子だなあ。オフの度にツーリングに行きたがるのにバイクの免許は取れない年齢、靴のサイズか二十六・五センチだったかあ?」
齧り付いたこはくの眼を射りながら、斑は澱みなくユーモラスに語り続ける。出るわ出るわ、こはくの好きな物、外見の特徴、性格、アイドルとしての可能性、恥ずかしい話エトセトラ。語り尽くせば日が暮れるだろうほど、面白おかしく声を張り上げる。
「ほんなら」
再び口火を切ったのはこはくだった。発言の途中に声を挟まれて心底迷惑そうに眉を寄せて肩をすぼめた斑。
「お気に召さないようだなあ」
それを前に、こはくは一度だけ唾を飲んだ。
「ほんなら質問変えるわ。わしが、斑はんのこと。どう思っとるかわかるか?」
瞬間、斑の頬が硬くなる。こはくにしかわからない、特別な変化だった。にわかに緊張が走って、斑の視線が一度ちらりと横にそれた。言葉はない。
「わかっとるんやろ?」
「なにがだあ?」
「斑はんがよう舌回して喧しくしゃべくるときはなにかを隠したいとき。だんまり決め込むときは、なにかしら図星でぐうの音も出ないときや」
「
……」
「どれだけ相棒やってると思っとんねん」
斑は、押し黙る。すぐに口を開けそうな逃げ道を探しながら、本当にはそこから逃れることをしない。できない。こはくのアメジストの瞳が斑のアメジストの瞳を捉える。
「わしは、斑はんが好きや。そういう意味で、ひとりの、半人前のでっかい子で、最近はよう穏やかに笑うようになった寂しがり屋でどド阿呆の皮肉屋が、好きや」
「っ
――!」
声はない。ついに蛇に睨まれた蛙が捕まった。タイミング悪く運ばれてきたナポリタンの銀色のフォークに映る斑の顔は、とても嫌そうに、迷惑そうに、辛そうに、嬉しそうに、優しく歪に歪んでいた。
「わしの気持ちはこうじゃ。けど一日で伝えきれるような生半可なもんでもない。斑はんは? 今、」
「生憎俺は未成年に恋心を抱くような下衆でもないしなあ? こはくさんは吊り橋効果を知ってるかあ? スリルある場所で過ごした相手を好きだと錯覚してしまうものだ! 心臓の高鳴りが恋のそれと似て」
「なぁ」
こはくが、迫る。一度だけ口をぱくつかせた斑の声は、ない。
「それ、自分がどないな顔で言うとるかわかっとるんか? あ?」
声は、ない。
「例えぬしはんの気持ちがわしに向いてなくても、わしの気持ちは誰にも否定できん。それなら、斑はんの気持ちも、誰にも否定できんはずや」
「いやあ、そんなことは」
「なあ、それなのになんで自分で自分の気持ち否定しとんねん」
声は、ない。
水に氷が溶けきったこはくのグラス。まだ些か氷の粒が残る斑のグラス。輪切りのレモンが少しだけ不格好にふたつ並んで、固唾を飲んでふたりを見ている。
「わしのこと、ほんまはどう思っとる?」
「相棒だよなあ。うん」
「即答か」
「そうだぞお? 確かに君は特別だ。なんと言っても脚色なんか抜きにして生死と隣り合わせの世界を走ってきた。俺たちはそこに生きていて、今は、俺もなかなかそんな君が
――」
声は、ない。こはくの眉が柔らかく下がり、大きくつった目が細められる。
「続き。言えへんのは、なんで?」
打って変わって優しく降り注ぐこはくの声に、斑はとうとう天を仰いだ。ナポリタンは食べられることもなく、そこに伸びて横たわる。崩れ去ったオムライス。
「
……君なぁ
……」
天を仰いだまま絞り出された斑の声。
「
……まだ、」
「うん」
「わからない。
……わからないんだ、なにも
……」
彼らしからぬ弱々しくも甘い声、子供のような振る舞いが、こはくの胸を甘く蝕む。
「
……ほっか」
こはくにはもうわかっているその問の答えは、恐らく斑も心の底ではわかっているはずだ。それでも、わからない。きっと応用が効かない、解けないままの証明問題のように、はまりかけのパズルのピースのように。斑は、長い息を吐く。
「
……まぁ、及第点やな。ああ! ほな、これ」
嬉しさが溢れる。くすぐったい。恥ずかしい。好き。溢れる甘ったるい気持ちを少しだけ胸にしまって、こはくは薄いカバンを漁った。
「これ!」
そして、その斑に中身を突きつける。
「次までの宿題にしたる。自分の気持ち、書いてきぃや」
「
……ボツになった企画書の裏に、かあ? 随分と悪趣味だなあ君」
「斑はんに言われたないわ! 今更似たようなもんやけどな」
その言葉に斑はふと笑みを漏らして、
「きちんと採点してくれるつもりなんだろうなあ、こはく先生は」
そう、困り果てた笑顔で。企画書を指で摘んだ。
「花丸つけたるから、待っとるで」
「イメクラにでも目覚めないかママは心配です! こはくさんには早いぞお!?」
「二度とその軽口叩かれへんようにしたろか?」
「おっと! 怖い怖い! 一時休戦としよう!」
いつの間にか無邪気に無意識にふざけ合うテーブルの六十センチ。
冷めきった料理に詫びながらスプーンとフォークが踊る。口に広がるその味は、世界で一番宇宙で一番、とびきり甘い味がした。
fin.
こは斑ワンドロワンライ
【宿題】
60min+20min
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