ゆい
2025-09-04 20:00:13
3521文字
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【宗みか】春はまた灰になって

フォロワーさんとお話している時にふと浮かんだ話です。
何かに殉じたり命を懸ける生き方が好きです。


「君も僕の理想を青臭いと笑うか」

 開演まで残り十分を切った舞台袖でお師さんがおれにしか聞こえない声で呟く。いつも通り凛と硬い響きではあるけれど、いつもより少しだけ平坦で早口なそれをおれは瞬き一つで受け止める。着替えも化粧も既に完璧に済ませて、後は膝に載せたワインレッドの帽子をお師さんが被ればValkyrieは完成する。おれはその傍らに忙しなく重心を揺らしながら突っ立って、白く整った横顔を見下ろしていた。周囲には音響の最終チェックや照明準備の声が絶え間無く響き、走り回る誰もがお師さんの問いに気付かない。折り畳み式のパイプ椅子に背凭れも使わずに浅く座ったお師さんは、まだ開かない袖幕に寄った沢山の皺を見つめている。この重苦しい緋色の境界の向こうでは、きっと無数の期待と興奮がよく着飾りながら咲き狂っていることだろう。お師さんは自分の作り上げた世界への賛辞に、必要最低限の拍手と歓声しか求めない。指先や照明一つに至るまでありとあらゆる準備を万端に済ませて胸を張れば、人々は与えられた芸術に自ずと相応しい反応を見せる。曇り無き眼で淡々と吐き捨てられたいつかの台詞を思い出す度、今でもおれは潔く胸が空く心地になる。お師さんの用意した舞台を一度でも見たことがあれば、その言葉に嘘偽りは一つも無いと悟るだろう。それくらいお師さんのライブにかけるこだわりは執拗だった。今日だって、スタッフ達の怒号や悲鳴にも似た掛け声が客席の花束みたいな揺らめきを掻き消すように舞台裏を埋め尽くしている。それは、元々用意していた舞台案に何度も細かい修正を加えたせいで、演出や場面転換の準備がスケジュールよりも大幅に遅れてしまったのが原因だった。期日を守らないことやスタッフさんを困らせてしまっていることは、勿論良くないことだとおれだって分かっている。だから、慌ただしく行き交う視線や言葉尻に意味ありげな湿度や鋭さが宿っていても、こうして甘んじて息を詰めている。おれ達だけで理想の舞台を一から十まで完成させることはまだ出来ない。チームワークや妥協が必要な場面は、これからも沢山訪れることだろう。でも、最良を目指して掴んだ閃きをどうにか形にしたいと足掻くことは、それ程までに悪なのだろうか。融通とか遠慮とか空気とか体裁とか全部滅茶苦茶にしながら、泥臭くともただ自分を貫くしかない孤独を、人はきっと才能と呼ぶ。誰に何を言われても生み出すことを止められず、いつだって芸術にとびきり真摯なこのひとが、世界から誤解と偏見の目でもって評価されてしまうことがおれは嫌だ。命を削って素晴らしいものと向き合うお師さんを偏屈や強情の一言で片付けないで。自らが蒔いた批判に言い訳一つせず晒されるままの耳や手首や頬骨を、これ以上美しく張り詰めさせないで。
 またおれ達のすぐ横を足早に駆けていった影から偶然と呼ぶにはタイミングが良すぎる溜め息が突風のように吹く。おれに聞こえたということはおれよりも近くに座ったお師さんに届かない筈が無かった。だけど、その眼差しは月のように研ぎ澄まされ、ざわめき程度に乱されてやる覚悟は瞳のどこにも映らない。お師さんの理想に振り回してもらえるなんて世界一光栄なことなのに、何でその有り難さが分からんのやろ。世の中には残念な人もおるもんやと悲しみながら、お師さんの視線の高さより下になるように衣装の裾を気にしながらゆっくりとしゃがむ。膝をついては汚れてしまうから、足首に力を込めて両腕で膝頭を抱くように。上下移動に伴って堅固だった紫の瞳が滑るようにおれを追う。首を亀みたいに伸ばして、まだ乾ききっていない薄いルージュを少しだけ舐める。お師さんとお揃いの赤を乱して出来るだけ嘘らしく笑う、昔よくやった人形みたいに。

――そうやね、って言ったら。お師さんはライブやめる?」

 質問に質問で返した無作法にお師さんが一瞬だけ呼吸を止める。本当は違うと知っていながらしつこく鈍いフリを続けて、僅か大きくなった瞳を覗いた。やっぱり見下ろすより見上げる方がおれの性に合ってるし、お師さんの何もかもがよく見える。薄暗い舞台裏にすら尊く浮かぶ菫色こそ、おれの選んだ一等星。伸ばし疲れた筋を休ませる仕草を装いながら、こてんと小首を傾げてその輝きにもう一度笑う。今度は演技じゃなくて内から自在に湧き出るまま。だって、本当に嬉しいんだもん。

「それって愚問やない?」
……まさか、君に諭される日が来るとはね」

 僅か湿り気と震えを含んだ声が澄ました耳朶を柔らかく叩く。さっきまでと何も変わらない低さと静けさの口ぶりなのに、纏う気高さがまるで違った。飲まれて固まった唇が解けるのでは無く意思を持って結び直されていく。あんなに冷たかった口角や目尻には雪解けのような皺が寄り、頑なだった唇が微笑みを孕み始める様を、おれはうっとりと見上げている。ほら、もう瞳の端からじわじわと新しい日が昇り始めているわ。この御来迎に立ち会えないおれ以外が本当に可哀想で笑っちゃう。
 そんなおれのいかれた信仰を見透かしたようにお師さんは軽く右の眉を上げ、膝にきちんと重ねていた手を音も無くこちらへ伸ばす。爪先まで綺麗に整えられた五本の指はおれの左頬をすっぽりと包み、輪郭に代わっておれを縁取ってくれる。熱くも冷たくも無い掌にこちらも好き好んで肌を寄せる、やっぱりおれはこのひとにしか殉じたくない。

「不敬やって怒る?」
「何を今更。君に不用意で無用心なのは今に始まったことじゃないか」
「褒められてないことだけは確かやね」
「まず褒められるつもりが無いだろう」

 暗がりにあっさりと思惑はバレて、呆れの滲んだ声と表情に思わず吹き出してしまう。場違いに震える空気にお師さんは見るも耐えないと眉根を顰めるけれど、頬の左手はまだ離れていかない。内と外のざわめきは先程よりも高まりを増し、主役の登場を今か今かと待ち侘びている。青二才も青展示も舞台の上では何の言い訳にもならない。何色の悪足掻きだって最後に美しく昇華出来れば、いくつ後ろ指を指されたって最後は絶対おれ達が勝つ。
 遠くでおれ達を呼ぶ声が鳴り始めている。そろそろ本当に土壇場らしい。名残惜しいけれどお師さんを世界に見せびらかす準備をしなくては。添えるだけでも充分満たされた温もりからやっと離れる覚悟を決め始めれば、不意に呼ばれ慣れた名前を賜る。影片。はぁい。真剣な瞳をしたお師さんもやっぱり世界一格好えぇな。こんな時でもおれは一目惚れをやめられないまま、それでもなるべく行儀良く返事をする。

「君だけは笑うな。僕が目指す理想を、過程も挫折も果てしない苦悩すら全て等しく見届けた上で、それでも決して笑わないでくれ」
「笑ったりなんてせぇへんよ。お師さんを笑う奴がいたらおれが全員殴ってやるから」
「物騒は慎みたまえ。僕達は暴力ではなく己の美意識で世界を平伏させるのだよ」

 お前も道連れだと言わんばかりに頬へ触れた指に一瞬だけ力が篭もる。咄嗟に返す言葉を忘れるおれにお師さんは軽く目を細めて、最後に一つ輪郭を真似てから滑るように距離を取った。そのまま伸びた背筋で帽子を被って立ち上がる百合の背を、おれは犬のように背中を丸めてぽかんと見上げる。墨を溶かしたような闇に血より赤い紅がじわりと咲く。このひとの為にあるような色をおれも許されて纏っているだなんて、まだ贅沢な夢のようだ。翻る長い裾やフリルにうっかり見惚れかけるけれど、何とか我に返って足が痺れない内に前のめりで立つ。そろそろお時間です、測ったようなタイミングで世界が真っ直ぐにおれ達を望む。緊張はあまり無い、お師さんの隣で歌い踊ることが好きだから。ときめきは沢山ある、お師さんの努力が認められる瞬間を一番近くで盗み見られるから。今更ながら呼吸を浅く整えて、分厚い幕から覗く水面のような煌めきを二人並んで睨んでみる。

「さぁ、本物の芸術を知らしめに行こう」

 もうこちらを顧みることもなく打ち立てられた宣誓へ頷きも仰ぎもせずにぴったりと傍らを付いていく。横顔は見なくとも良い、輝くばかりに満ち直した自信が光る頬は目蓋を閉じずとも容易く描くことが出来るもの。その正しさを映すようにおれも今求められる美しさを思い浮かべて、横並びに相応しい姿形になっていく。幕が上がればおれ達だけが世界、青でも赤でも黒でも黄色でも貴方が間違い無くこの世の春だ。
 足音まで自然に揃えて短い暗闇を二人きりで歩く。もう何一つ夢見ずとも、すぐ隣でおれの唯一の魂が青白く燃え上がるのが確かに分かった。