廊下に足を踏み入れてから、十分はたった。が、一向に奥座敷にたどり着かない。式神を放っても、黒ずだ姿で戻ってくる。いちいち、戻ってくるのだ。あの妖魔がなにを思って戻すのかはわからない。なにも思っていないのかもしれない。そうであろうとなかろうと、斬るだけである。斬るだけのものに、思いをめぐらせることは無意味だ。
「降魔」
黒い毛並みの猫が袂から這い出て、床に音もなく着地した。黄金色の目が廊下の薄暗い空間に光る。
「らちがあきません。生気を多少消費しても彼女に案内させてみましょう」
赤い首輪についた、棒状の鈴がちりん、と鳴る。それはずっと続く廊下によく響いた。耳を澄ます。右側の部屋で音がかすかに凝った。
「!」
すぐ右の、締め切られていた襖が一斉に奥まで開く。
右手は自動的に太刀を抜いた。
開け放たれた襖の奥から、妖魔が流れ出てくる。低級のオチムシャ、クロイヌ、クイナゴ。多種の妖魔が我が物顔で屋敷内で暴れ回ろうとしていた。
「この式神が妖魔を?」
紫垂月頼宗は蠢く黒いかたまりたちを見つめている。彼の異能を使えば昏倒させることもできるが、生気はまだ残しておきたい。
「そうです。呼び寄せました」
「なぜ?」
「植柾國雪の皮を被った妖魔の力を、少しでも削ぐためです」
クロイヌの核を弾き飛ばしながら告げる。
「この妖魔たちには植柾國雪の力の残滓が見えます。おそらく、操る術でも持っているのでしょう」
まとめて倒しておいた方が結界の符の消費も少ない。
土天符を長く続く廊下の鴨居に貼り、一気に発動させる。竿縁から欄間、鴨居もろとも部屋の内部ごと落とし、下敷きにする。鈍く重たい音とともにもうもうと煙と埃が舞い、比較的小さな妖魔は身動きが取れず、足だけを蠢かせていた。
「豪快ねぇ」
後ろで身を潜めていた女が言った。おぶわれた夕乃は、完全に意識を手放しているようすではなく、たまに手のひらが丸まり、そしてまた力を緩めている。
「人がいなければ、いかようにもできましょう」
余った符を袂にしまい、足元に行儀よく座っている降魔を見下ろす。
にゃあ、といつものように愛想よく——青嵐がそうあるように作った——鳴いた。
下敷きになった妖魔は太刀でひと払いし、核もろとも破壊した。
降魔の鳴き声が妖魔をおびき寄せ、それらを着々と切り伏せていく。屋敷の中はそれにあわせて徐々に狭まっているような気配もした。
「今のところ順調ではありますが……。どう思われますか? 紫垂月殿」
彼はくちびるを閉じ、じっと天井を見上げている。視線をたどると、黒い染みが滲んでいた。
ぽたり、少々粘度のある液体が滲み出て、床に落ちる。
「……血?」
「人間はいないはずだけど」
「血ではないわね。血のにおいがしないから」
天井から落ちていく液体は、単なる液体ではなかった。滲み出たそれは粘度を増し、天井と床までをつなぐ黒い棒になる。そうしてそれはキリキリと音をたて、しなった。弓矢のように。いく筋も垂れたそれは硬度をかえ、まさに弓と矢へ瞬く間に変化し、放たれた。
手首をひねり、不気味な風を切る音を間近で聞きながら矢の向かう動線を無理やり変えた。動かしていなければ矢は青嵐の眉間にまっすぐ突き刺さっていたことだろう。
袂から雷電符を取り出し、息を継ぎながら放つ。
稲光が疾走し、硝子の割れるような音とともに液体は粉々に散った。
「まるで玩具箱の中のようですね」
妖魔の出現にしろ、この滲みにしろ。
これはおそらく妖魔の力の一部だろうと考えている。屋敷の奥座敷にいる植柾國雪に潜んでいる妖魔の。
「主、植柾國雪の中にいる妖魔は一体ではないかもしれない」
「……なるほど」
妖魔の多種多様な力の数を考えれば、そう考えることもできる。
独り言を言っていた、との情報もあるから、さらに気を引き締めねばならない。
「私の剣の腕で、間に合えばよいのですが」
自嘲する。他に人間がいないこの場所で妖魔を斬ることができるのは、この紫垂月頼宗だけだ。
「あなただけは生きてお返します」
彼に背を向け、つぶやく。刀神はもう生まれない。その貴重さを七ツ橋は青嵐に強く言って聞かせていた。
ただの人間である青嵐の命と、この世にもう生まれない神のひとはしらである紫垂月頼宗。どちらの命が貴重かなど、よく分かっている。
——もちろん、足掻く。まだ死ぬときではないと曲がりなりにも刀遣いであるから、その胆力はある。けれど、そのときが来たら。もうじゅうぶん生きたと、今こそ死んでもいいとそう思うときが来てしまったら、ためらうことなく、この生の終幕とするのかもしれない。
呪いを遺したくない。生きとし生けるものを祝いこそすれ、呪いたくはないのだ。
——ほんとうに?
耳朶に吹きかけるような声に、顔を上げる。
不安からくる幻聴かもしれない。が、自分自身が声に出していたのかもしれなかった。
目の前に、悪趣味な黄金色の襖があらわれた。
獅子に牡丹。ぎょろぎょろとした白い目玉と、猩々緋にも近い色の牡丹。
下品な黄金色だと思う。
「妖魔の気配がします。二体……四体、いや、もっとか」
門もそこにある。開きっぱなしの門が。
鈴の音。足元に行儀よく座る降魔がいる。黄金の目をしばたかせるようにして、目を細めた。
こうしてみれば本物の猫のようだ。
そうつくったのは、青嵐だ。作家の夢を引きずり、猫を侍らす。今思えば馬鹿げた行いであった。
「なんだかとても懐かしいにおい」
女がぽつりと呟いた。植柾國雪のにおいか、またはその中身のにおいか。
「斬るしか道はありません。よろしいですか」
彼女をちらと見る。夕乃のこともある。早々に仕留めねばならない。もっとも、斬るだけで済めばよいのだけれど。
女はくちびるを歪め、「けじめをつけなくっちゃあね」といった。
襖はあっけなく開いた。
暗闇が横たわっている。しんと静まり返り、ただ、妖魔の気配だけが充満していた。湿気にみちたにおいが鼻につく。
太刀を携え、部屋に踏み入った——直後、足の感覚が消え失せた。
がくんとからだが傾き、床に手をつく。膝に、じっとりと湿った感覚だけはあった。
「主、」
敷居をまたごうとする紫垂月頼宗を制する。
膝をついた格好で、後ろを振り返りもせずにそのまま続けた。
「この部屋すべてが植柾國雪です」
足首を掴んだ妖魔の感触。子ども心で大の大人を転ばせてやったような、無邪気な笑い声が聞こえる。
すくなくとも、青嵐の耳には。
上体を起こし、太刀の切先を床に突き立てた。
核をさぐろうにも、何畳あるのか——少なくとも二十畳以上——、だろう。
それでも見つけねばならない。上司の言うとおり、きっちり妖魔とも、そして女とも縁を切らなければ。
刀遣いと刀神には縁がある。刀遣いは妖魔への対抗手段として、刀神は生気を補給するため、それぞれ利害の一致という縁が。が、彼らの道理は人間にはわからない。そして彼らも人間の道理など知らないだろう。
太刀を突き立てた場所に畳であろう、い草がわずかに見えた。
棒状のちいさな虫がざわりと蠢く。おそらくこの虫が妖魔の正体。大量の虫がひとつの妖魔であることは、間違いない。
となると、ここにいる全ての虫を討伐しなければ核も破壊できないということだろう。
「骨が折れそうだ」
炎熱符をつかおうにも、この屋敷丸ごと焼いてしまう。
——いまさら、だろうけれど。部屋を計三室、だめにしてしまった。もっとも、ここが現実であることが大前提なのだが。
疑ってはいた。Y島人間すべてを消すほどの力がこの妖魔にあるのかと。そんな労力を働かせるなら、ここにくると分かっている存在のみを隠せばいい。
「……」
部屋を壊したときのこころの穏やかさ。普通ならばためらうだろう土天符の使い方、雷電符の使い方。あまりにも実感がない。いま感じえない、足の感覚とおなじに。
「ここは現実なのか、はたして」
幻覚かもしれない、いや、現実だろう。そのことばが虫の羽音のように、耳障りだった。
反対に、うしろにいるはずの紫垂月頼宗の気配が、声が、息づかいが、とおい。とても、とおい。
Y島にきてからというもの、心身の不調が激しい。
指先やからだの中は冷たく、冬に置き去りにされたようだった。
寒さが、冷たさが苦手なのだ。故郷が温暖な気候だからではない。人間の生命をたやすく奪える自然、気候が常に恐ろしく感じた。
寒すぎても、暑すぎても人間は死ぬ。
ごく当たり前のことが、これほどまでも憎らしい。
はじめて雪をみたのはいつだっただろう。
白くはかないそれは触れればあっという間にほどけるように消えていく。そんなものでも、多く積もれば生活すら困難だということは知識として、ある。
人間の生活というものは、可もなく不可もなく、普通に、そしてそこそこに過ごせればよい。そういうものだと幼い頃は思っていたけれど一度上京してみれば、まわりにはさまざまな色があった。極彩色のネオン、星空や月がかすむほどの灯り、はげしく点滅する信号機、暗い建物の中でするどく瞬く原色。真っ赤で真っ青で、真っ黄色な酒の色。
それらを見て、青嵐はめまいを覚えると同時に、可もなく不可もない生活から遠のいていった。
七ツ橋は、青嵐の茫漠とした日々を聴いては「美しい場所だったんだな」というようなことを呟いていた。
その純粋な美しさは血に塗れた歴史でもある。彼もそれを承知していたのか「だった」といった。
音が、声がとおく、その中でふつふつと湧き上がるのはかすかな痛み。
心身の不調はY島をおとなう前、新幹線に乗ったあと。
もっといえば、女がそこにいたとき。——すでに患っていたのかもしれない。現実と幻覚があいまぜになった空間での生活に。
柑橘や潮のにおいも、橋のもとにいた警官たちも、タクシーの運転手も、来島も、植柾影子も、はたして実在していたのか。
一度疑い、勘繰ってしまったら出口は見えない。冷えで動くことをやめた指先。いつから、こうしていただろうか。
この目は人間でないものの姿を見、そして耳は人間でないものの声を聞く。それが、当たり前だった。生まれたときからこうだったのだから。
だからといって、真実——現実を見ないというわけにもいかない。欺き、嘘を見抜く目も必要なのだ。目は、見るものだけではないのだ。耳もまた、同じ。
沈んでいくような気がした。呼吸が薄いと自覚がある程度の意識はある。
「私が私である根拠など、どこにもありはしない」
もうひとりの男が沈む男を見上げ、呟いた。
「そして、ほとんどのものも、自分が何者であるかなど、気にも留めない」
「そうして過ぎ去っていった何人かの私が行く先は、はたしてどこなのだろう」
「どこにいけばよかったのか」
「何が正解なのか」
「私は一生、この疑問を抱えて生きていかなければならない。あのひとは」
ことばが途切れる。そして無機質だった声が、やわらかな声色に変化する。
「……あのひとの言葉は心地が良いですね」
上をぼんやり見上げると、月のような銀色の明かりがぼやけ、揺らいでいた。
「しっかり目を開き、見て、また耳を澄まして聞かなければなりません」
「考えることは理性をもち、生きること」
「単に心地よく、都合の良いものだけを見るだけでは、生きているとはいえない」
何人めかの男がいう。
どれが自分なのかわからなくなるほどに、大勢の男の声が反響する。
「海の中はすばらしいけれど、その波にふたたび手足をとられ、遠くへと運ばれないように」
「そこにニライカナイは、もうないのだから」
脳を直接針で刺すような、痛みと冷たさでもって目を開く。
前後左右が不覚な中で、目が覚めた。
何度目の目覚めなのか理解するまでもない。
今、自分のからだが本当に沈んでいたからだ。塩辛くはない。これは、池。中庭の、池だ。
頭を無理やり叩き起こし、いやに深い池の中から空を見上げる。
月が水面を介してぼやけ、鈍く輝いている。
腕を伸ばし、池の水を掻こうとしたそのとき、手首を掴んだ感覚があった。
これは現実であると理解したのは、夢、まぼろしの中で自分を助ける手がなかったから。
青嵐を引き上げた彼の顔は、月明かりに翳り、よく見えない。
「……あなたは」
水を飲んだためかはげしく咳き込んだのち、問う。
「故郷で私を助け上げたのは、あなただったのですか」
薄ぼやけた月はあの時とは違うが、たしかに彼は手に届く場所にいる。
「さあね」
月は朧、そしてゆっくりと雲が風にのって流れてゆく。
「僕は拾い物をしただけだよ」
彼らしいほほ笑みと物言いに、思わずふと吐息で笑ってしまう。
あの香りは、やはり彼だったのだろう。わずかにしか見られたなかったあの美しいひとは今、またこうして青嵐を水から引き上げた。たしかに、腕を伸ばしてくれた。
「……ありがとうございます。紫垂月殿」
ありがとうと、言いたかったのだ。
ようやっといえたと思ったけれど、出たのは感慨深い言葉ではなく、何の飾り気もないものだった。
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