初めての酒はこの人と飲むと、そんな決意をしたのはいつのことだったか。少なくとも去年の春、生駒の二十歳の誕生日にはそれは当たり前の予定として水上の中に組み込まれていた。つらつらと記憶を辿る。明確にいつから、というのはやはり思い出せない。ある日を境にといったものではなく少しずつ積み重なって根付いたのだろう。その願いが、ようやく叶う夜が来た。
「いろいろ探してみたんやけど水上はどれが好きやろか」
「イコさんのおすすめは?」
「あっさりしてて甘すぎないのがええかな~と思ってるんやけど。これとか、こっちあたり」
「イコさんが好きなのは?」
「んー……今日はこれッ!」
「ほなそれにします」
そうやって差し出された候補たちから初めての一杯を選ぶ。肴はもちろん恋人の手料理(うまい!)とくれば、この夜が特別なものになることは約束されたも同然だった。
今夜の酒で一番大切なのは『生駒が選んでくれた』という経過だ。だからリクエストもスタンダードなものでとお願いした。思い出になる酒はいつでも、何度でも飲めるようなものがいい。期間限定の楽しさはもっと慣れてから、生駒と一緒に味わうつもりだ。
満を持して乾杯。少量を口に含んでみる。
酒の味はわかるようなわからんような、でも飲みやすいしまずくはないな、といった感想だ。おいおい旨いと思えるようになるだろう。すぐ隣には自分以上に、一緒に酒を飲めることに感極まっている生駒がいて。キラキラと嬉しいを乱反射させてる姿がかわいかったので隙だらけの唇にそっとキスをした。ああ煮詰まっていた過去の自分に教えてやりたい。おまえは二十歳になったらアルコールの味がするキスをイコさんとするようになるんやで。我がことながら絶対に信じんやろなあ。と、浮かれた頭で考えていたら、なにやら生駒の様子がおかしい。心震わせながら水上の誕生日を寿いでいたと思ったら、あっという間に頬が薔薇色に染まっていく。
あらいいお色。ではなく。……思い返せばここからだった。
たっぷりと注がれたグラスの底から細かな泡が絶え間なく湧き上がっては消えていく。ほとんど減ってないそれをゆらゆらと揺らしながら普段は引き結ばれている口元がほどける様は、これだいぶ早くないかと水上に思わせるのには十分だった。
「イコさん、もしかして酔いました?」
「ん? 酔ってへんよ」
「でも、ほら。ここ赤なってます」
厳つい見た目に反してその肌が指で押せばふわりと沈み込む柔らかさなのを知っている。今ならそれにプラスして、いつもよりも熱を持ってるのかもしれない。しかし頬から首筋にかけてじんわりと広がっていく熱に触れようと手を伸ばす前に、生駒の両手がそれを隠してしまった。
「せやねん。すぐ赤なってまうねん」
「酔ってはないんすか」
「うん。平気」
これまでたくさん言われてきたのか、淡く色づいた頬を覆うと恥ずかしそうに身を縮めた。見下ろすようになって久しい体は、しっかりとした厚みがあるからか全然小ちゃくなってない。うわあ……、かわいらし。普段から茶目っ気たっぷりの生駒だが、そこに恥じらいが混じるだけでこんなにも愛おしさとは深まってしまうものなのか。
「イコさんて酒強いって聞いてたんすけど、実はそんなに?」
「どうやろ? 自分じゃよくわからんなぁ。あ、でも周りからは酔うのは早いって言われるわ。量はそこそこ飲めると思うで」
「潰れたことってあります?」
「ん~ないなぁ」
「もう飲めへんってなったことは?」
「それもないかなあ」
「記憶飛んだり、吐いたりとかは?」
「そんなになるまで飲むのはあかんよ。お酒は楽しく飲もな!」
どうやら顔に出やすいだけで、アルコール耐性は低くはないらしい。だったらまあ大丈夫か、と頬を触るのは一旦諦めた。
「いきなり赤くなるからびっくりしたんです。顔色変わっても酔ってないとかあるんすね」
「血の巡りがええんかもな。体もポカポカしてくる」
酒に関してはどうしたって生駒の方が先達だ。大きな失敗をしたという話は聞かないし、生駒と飲んだ相手からはよく飲みよく食べるといった情報ばかりが入ってきていた。涼しい顔でそれらを聞きながら心の中では今に見とれよと巻き返しを狙う日々、やっとその機会が巡ってきて少々どころか浮かれてしまった水上を誰が責められようか。ちなみに生駒はそんな水上以上に舞い上がっていたのだが、それは一先ず置いておく。
「水上はあんま変わらんな」
「まだ一杯目でしょ」
「俺は一口で赤くなるもん」
少し拗ねた甘えた声。それがまたかわいらしくて酒の力ってすごいと感心していたら、つん、と人指し指で水上の頬をつついてきた。
「熱くもなってへんな。顔色変わらんのかっこええよなあ」
堅い指先はなんの未練もないようにすっと離れていく。あまりに自然な所作に、これは普段からやってんなと危機感がむくりと膨らんだ。
「変わらんのも困りもんすよ? 酔ってるって思われへんから気付いたら潰されてたりしますし。わかりやすく赤くなる方が安全です」
「えっ……経験者の方?」
「兄貴の話っす」
「ああ、お兄さん」
生駒が自分の兄を「お兄さん」と呼んでいるのを聞くと、あんたの兄じゃないでしょという呆れと照れくささの入り混じった喜びが生まれる。恥ずかしさ八、嬉しさニくらいの割合で。思春期か、と我ながら呆れるがこれには細井と南沢の同意も得られるだろう。
「ん、ということは水上家は赤くならへんお家ってこと?」
「言われてみれば。すんっとした面でみんな飲んでましたわ」
「そうなんや」
「イコさんちはみんな赤くなります?」
「それがな、俺しか赤くならんねん。なんでやろな?」
終わらないなぜなに期を突き進む生駒に、答えを返すことに生きがいを感じるようになってもう何年も経つ。いかにわかりやすい説明で歓心を買うか、その楽しさにずぶずぶと嵌まり込んだ沼の底は未だ見えない。あまりの相性の良さにチープな言い方になるが、この人は自分の為に生まれて来てくれたんだと信じて、口説いて、手に入れて。そうして今、その人は隣で頬を染めている。最高の夜だった。
と、そんな風に心地よい空間に疑問を後回しにしたツケがきたのかもしれない。なんか自分ばっか喋ってるなあ、と気付いた時には手の施しようがなかった。生駒はただ水上の言葉に頷くだけのbotと化していた。「せやね」「えらいことやな」「ほんまに?」バリエーションは豊富だが、基本相づちしか返ってこない。
「イコさん。酔いました?」
「ん」
とうとう一文字になった。
肌の火照りと口数の少なさ以外は至って普段通りだが、そも二人でいる時に(しかもおめでたい席で!)片方しか話していないというのは自分たちにとってはそこそこの珍事だ。
「今度こそ酔いましたね。頭痛くなったりしてません? 気持ち悪くないですか? 吐き気はあります? 眠気は? 暑すぎへん? 汗拭きます?」
「全然平気」
「嘘やん。とりあえず水取って来るんで、待ってて下さい」
水上が腰を浮かせるのに合わせて生駒の視線が上向く。いつもと変わらぬ強い視線に心奪われた瞬間、じわりとした熱が手首を包んだ。
「まだ酔ってへんよ」
「酔っぱらいのそれって信じたらあかんやつやん」
「俺は飲んだらこうやねん」
くい、と弱い力で手を引かれてその場に座り直す。拙い仕草は大変に魅力的だが、手首を掴んだ掌からじくじくと伝わる熱は水上の心配を煽ってやまない。
「……ほんまに平気なんすか? 手ぇ、めっちゃ熱いすよ」
「酒飲んでるもん」
「こんなほかほかなることある??」
「慣れてな」
本人が「平気」と言うのなら、そうなのだろう。しかし生駒は稀にへまをする。周囲が青ざめる中、本人だけがケロリとしているというのが生駒隊では年に一度のペースで起きていた。そうした経験を経て培われた生駒の副官としての勘が囁く──これは見過ごすと後で俺がエライ目に合うやつ、と。
「水上は心配性やね」
「一口でそんな真っ赤なったら驚くでしょ」
「体質やもん」
「いつもより静かやし」
「せやろか?」
「さっきから俺ばっか話してるでしょ。イコさん聞いてばっか」
「うん」
「つまらんでしょ」
「楽しいよ。なんで?」
「……イコさんおしゃべり好きやんか」
日々の細やかな変化を、さも大事件のように話す生駒の声を聞くのが好きだ。生駒を通して語られる世界はどこもかしこもエフェクト盛り沢山でキラキラときらめいていて、たまにちょっとだけ眩し過ぎたりする。でも目を細めて慣れるのを待ってたら生駒はサッとやってきてソッとサングラスをかけてくれる。
「俺な、水上が話してるの聞くの好きやねん。ええこといっぱい教えてもらえるし。水上の話おもろいから、いっぱい話してや」
ほらまた、かけられた。
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