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2025-09-01 10:11:04
2214文字
Public movie100
 

036:愉快なリズム

映画タイトル100題からおかりしました。
夏の盛り、セミすごいよね

 まだ虫が鳴いている。
 あと数時間で夜明けがくるというのに未練がましく鳴り響く夏の風物詩に耳を傾けながら、くわりと大欠伸をした。パンツ一枚のだらしない姿で畳に転がり、ぼりぼりと尻を掻く。
 オンボロアパートの四畳一間、やることといえば街に出て野球拳をするか、コインランドリーのラックからくすねてきた競馬新聞を読むか、タバコや酒を飲むことくらいだが、野球拳は先ほど退治人の若造達をそろってパンツまで剥ぎ取ってTシャツをくれてやったばかり。今回はまんまと逃げ仰せたが、大槌を持った鬼神がうろついている可能性がある。少し時間をおいたほうがよかろう。競馬新聞は隅から隅まで読み尽くした。タバコも酒も切らしているが先述の通り今外に出るのは得策ではない。弟達と食事の約束を翌夕に控えているし、捕まれば次兄のお小言は必須だ。
 こんな時、本の一つ二つあれば暇つぶしにもなるのだがそんな気の利いたものがあるはずもない。駅ビルの本屋はピカピカキラキラ、目にも耳にも喧しくて敬遠していたが、数冊調達しておいたほうが良いかもしれないと、意外にも字を好むケンは考える。
 いくら思考を巡らせたところで、今現在手持ち無沙汰なことに変わりはない。本日はクーラーの効いた部屋でゆっくりテレビでも見て過ごすが吉だ。傷んだ畳と一体化していた上体を起こしてテレビをつけ、チャンネルを適当に国営放送に合わせた。この先一週間、猛暑日と熱帯夜が続く見通しです。涼しい顔で告げる、小太りな男性アナウンサーに舌打ちする。どうせ嫌な話を聞くなら可愛い女からが良い。女子アナ映してくれ。
 立ち上がって数歩で辿り着く台所に入り、腰までしかない冷蔵庫から血液パックを取り出した。蓋を捻ったところで、コツンと何かを叩く音がした。気配を探る。部屋の中には己以外誰もいない。暫くじっと視線を巡らせた。空耳かと思ったところでまた、コツコツ。どうやら誰かがドアをノックしているようだ。
 弟妹が尋ねてきたのかもしれないが、何か引っ掛かる。夜明けが近いこの時間、わざわざ尋ねてくるだろうか。可能性は決してゼロではない。しかし。
 ジリジリと虫の声がする。虫の声に混ざってまたコツコツとノックが響いた。そういえば、こんな時間に蝉は鳴くものだっただろうかと思い至る。奴らは番を求めて鳴く虫だ。夏真っ盛りのこの時分、夜中よりも太陽の下の方が出会いはあるだろうに。
 コツコツ、ジリジリ、どこか浮世離れした音がゆっくりと部屋の中に侵食してくる。部屋は適温に保たれているはずなのに、背中に汗が伝った。誰かがケンを呼んでいる。
「誰だ」
 問いかけてから気がついた。弟二人は合鍵を持っている。本当に用があるなら入ってくるはずだ。二人を拒否する理由など無い。ケンの空間は即ち弟達の空間だ。故に、二人なら招かなくとも勝手に上がり込むことができる。ということは、今部屋の戸を叩いているのは弟ではない。
 ケンの問いに答えることなく、ノックは続く。コツコツ、数秒おいて、またコツコツと。
「誰だっつってんだよ」
 苛立ち混じりに再度問う。何故か無視するのは憚られた。棺桶に入り蓋を閉めて仕舞いにすれば良いのはケンも判っている。それでも、硬質な音を鳴らし続ける扉から目を離せない。
 コツコツコツ。急かすようにノックが増えた。
 足音を立てぬよう扉に向かう。行きがけ、台所に干してあった一升瓶が目に入ったので口の辺りを掴んだ。裸足のまま三和土に降りる。覗き穴から外を伺っても何も見えず、真っ暗な中で虫の声がより近くなるだけだった。
 コツリ。
 ケンの気配を感じているかのように、駄目押しのように一つ。それきり、しつこく続いていたノックが止んだ。薄っぺらな木の板一枚を挟み、外に有る何かを睨む。ガラスを握った手に力を込め、意を決して鍵を外した。ドアノブを回す。ぎぃ、と蝶番が軋んだ。だんだん広がる隙間からねばっこい外気が侵入してきて、冷えた空気と入れ替わるの感じる。たっぷりと時間をかけてドアを全開にすると予想通り、ドアから数歩離れた場所にそれは居た。
 狂ったように蒸し暑い気候に似合わない、頭のてっぺんから爪先まで真っ黒に染め上げた細い影は、まだ日も出ていないのに黒のフリルをたっぷりあしらった日傘をさしている。優雅な動きで傘を閉じたそれは、不機嫌そうに眉を顰めて首を緩く傾げた。ぽかんと口を開けたケンの頭を、どこからともなく取り出した黒い扇子でぴしゃりと叩く。
「ってぇ!」
「遅い」
 惚けた思考が痛みで現世に戻ってきた。いつの間にか、うるさく鳴いていた虫の声が止んでいる。
突如現れてケンの頭を引っ叩いた女は、ケンのつま先から顔までじろじろと観察してから呆れたように言った。
「なんて格好」
………………いや、俺が俺んちでどんなカッコしたって勝手だろ」
「はしたない。客人を迎える態度ではない。恥を知りなさい愚か者」
「だ、………そうじゃねえだろ……おま、いや、あんた」
 生きていたのか、とか。何でここを知ってる、とか。まさかミカエラ達に会ってねえよな、とか。あらゆる質問が頭の中で渦巻く中、ずい、と日傘を差し出された。一升瓶を離して受け取る。
「全く……何度経験しても慣れない。この国の夏は暑すぎる」
 一滴の汗も浮かばない涼しげな顔を扇子で仰ぎながら、百余年ぶりにあらわれた母は言った。