望月 鏡翠
2025-08-31 23:43:12
913文字
Public 日課
 

#1826 「嘴」「全快」「ライヘンバッハ」

#毎日最低800文字のSSを書く

 霧に満ちた薄暗い街を、歩くものがある。靴音が徐々に近づいてくる。
 止まるなと私は祈りを捧げる。この建物の前で止まらずに通り過ぎてくれ。あの人物は変な時間に散歩に出ただけの人だ。あるいは早朝から何か予定がある。この家に訪ねてくる以外の用事だ。
 焼きたてのパンを一番最初に買いたくなったでもいいし、今日の朝刊を誰よりも早く読みたくなったでもいい。道に迷っただっていい。それだけの要件なら、この家を訪ねることだって許す。
 足音は、家の前で消え、そして去っていかなかった。
 ああ、まただ。
 ドアベルが鳴る。
 一旦は無視した。しかし何度か連続して鳴り、ドアが叩かれ、そして改めてドアベルが鳴らされた。こうなったら我慢くらべだ。こちらが耐えきれなくなるか、向こうが諦めるか。しかし過去に一度でもドアを開いてしまった経験があれば、来訪者は決して諦めない。粘ればドアが開くということを聞いて確実に家にいそうな早朝を狙ってきているのだから、諦めるわけがない。
 人の噂は新聞よりも早く街を駆け抜けたのだ。お陰でしばらくは静かな生活を送ることができると思っていたのに、ひっきりなしに依頼人を出迎える生活に逆戻りだ。
 ライヘンバッハの悲劇よろしく、探偵は一度その華々しい活動に幕を閉じた。そして死んだように見せかけただけで、実は死んではいなかった。しかし世間で死んだと思われたのであれば、しばらくはそのままにして休もうと思っていたのだ。
 依頼人は山のようにいるが、探偵は一人だ。その助手も一人。ひっきりなしにやってくる依頼から少し距離を置いて、休まないと体を壊す。
 死にかけたのだから、少しは療養するべきだ。
 それなのに全快して街に出た瞬間に、通りに転がっていた些細な事件に嘴を突っ込んで、あっというまに探偵本人であることがバレてしまった。
 折角、変装までしたのに推理のキレも癖のある喋り方も隠せない。
 そこからは、ご想像の通りだ。依頼人がドアを叩く。探偵は起きてこないから、私が応対に出る。もちろん、依頼を受けるためではなく断るために。
 そうしていると、探偵が起きてきて断ろうとした依頼を勝手に受けてしまうのだ。