山間から日が昇り、朝焼けのまばゆい光があたりを照らす。標高がそれなりにあるせいかいつもいる艦や移動都市に比べて空気は澄み、夜明けの空に浮かぶ白い二つの月の輪郭が美しい。
普段は見ることのない光景にドクターは目を細め、朝露のある小道にゆるりと足を進めた。キャンプ場から繋がる道は散策ができるように整備されてはいるものの、足の裏から伝わる感覚は確かに野外にいることを感じさせる。通常の靴よりも頑丈で歩きやすい物であるから苦には感じないが、普段から使用しているものであれば眉をしかめていたに違いない。
(ロドスの補給部は優秀だな)
場に合わせた装備は大事だと、ドクターからすれば大仰な程に野外活動用の服や靴を丁寧に見立ててくれたスタッフにあらためて感謝したところで、目的地が視界に入った。木々から差しこむ淡い光の中、立ち上る朝靄の中に水面が静かに揺らめいている。
念のため周囲に大型の野生動物がいないかを観察し、湖のほとりまで足を進めるとドクターは背中に背負っていた登山用のリュックから折り畳みの椅子を取り出して設置する。ついで取り出すのは釣竿ととくれば、やることなど一つしかないだろう。
さっそくと持ち運びしやすいようにできている伸縮式のロッドを手に取り、リールをはめ込んで固定する。リールから伸ばした糸をロッドの先端に通し、糸をエサやルアーをつける仕掛と呼ばれる金具に通して結ぶのだが、これがなかなか難しい。
「ううん……うまくいかないな……」
仕掛が簡単に糸から外れないように独特な結び方をする必要があるのだが、アウトドア経験はもとより釣り自体がはじめてであるため、どうにも勝手がわからない。
教わらずにやるには少しばかり無謀だったかと思いながらももう一度と手を動かそうとしたところで、背後から砂利を踏む音がするとともに声をかけられた。
「ーーー人の手が入った場所とはいえ、自然に近しい場所を一人で出歩くのは不用心だと思わないか、ドクター」
「ああ、やはり起きてしまったか。起こしてしまってすまない」
起こすつもりはなかったのだが気配に敏感な人だから、実際はドクターがベッドから出た頃には目が覚めていたのだろう。ドクターがコテージから出た後、頃合いを見てついてきてくれたと。
状況を遅まきながら理解しつつ、よく寝ていたようだから君の手を煩わせたくなかったんだ、という本心からの言葉は深々としたため息に迎えられた。まったくと言いたげなそれに苦笑を返せば、傍に来たウルピアヌスから釣竿を取り上げられてしまう。
「あ、待ってくれ」
「お前からこれを取り上げるつもりはない。結べないのだろう」
リールから伸びた糸をなれた様子で手に取り、あっという間に仕掛と結ぶ。ついでといった様子で近くに準備していたルアーと浮きに重りもつけてから渡されてしまうから、ドクターは目をまばたかせた。
「ありがとう。その、随分と手慣れているね?」
ウルピアヌスの種族であるエーギルは海で暮らす種族とはいえど、それ故に釣りとは縁遠いイメージがあったから意外な心地がする。以前訪れた海中の都市は随分と先進的で、アウトドアの雰囲気すらなかったから。
そんな疑問を感じたのか、ウルピアヌスは自身で持ってきた椅子をドクターの隣に置きながら口を開く。
「確かにエーギルの都では釣りはしないが、あの場所を出て野営を繰り返すうちにな。日々の糧を獲る方法は多い方がいい。それに獣を狩るより釣りの方が手間が少なくてすむ」
ミリアリウムでの生活を思えば野営を繰り返さざる負えない日々がどれほど過酷か知れないだろうに、当の本人はさらりと返してしまう。
それが彼の使命や義務だと理解しているから、たまにはロドスに補給に立ち寄ってねと言うにとどめた。今度の定期連絡に合わせて何を用意できるだろうか、と考えたところで隣に座った人から微かな笑声が聞こえる。
「それはありがたいが。今は目の前の糧を獲ることに集中することだな、ドクター。釣竿の用意すらままならないようだが、それで釣りができるのか?」
皮肉げながらも確かに笑われてしまうものだから、君がいるから大丈夫だとルアーを湖に沈めた。手を煩わせたくないと言っていたのは誰だったかという声は内容に反して優しい。
「おいしい魚が釣れるといいね、ウルピアヌス」
インドア派なドクターにしても、日々時間に追われているウルピアヌスからしても柄ではないキャンプ場にいるのはケルシーからのはからいだった。毎日毎日まだ休む時間じゃないですよと日夜問わず仕事をし続けるドクターとアーミヤに対して、見かねたケルシーからドクターストップがかかったのだ。
単純な休暇だと中々休みづらい二人の性格を知ってか、わざわざ施設の保全、管理状況の視察という名目をつけて半ば艦から追い出されるように予約を入れられたのがこのキャンプ場というわけで。
外勤任務を主とするオペレーターのためにロドスはいくつかのセーフハウスや拠点を外部に持っているのだが、もとよりこのキャンプ場もその一環らしい。一帯をロドスの保養所としての名目で買い上げているが、実際は外勤オペレーターが一時の宿としてテントやコテージを利用しているのだと。時折野外任務を想定した訓練でも使用されているとは聞いていたが、ドクター自身は訪れるの初めての経験だ。
「それにしても君が一緒に来てくれるとは思わなかったな」
何の反応もない釣竿を握りながらドクターは隣に座るウルピアヌスに声をかける。普段着ているアビサルハンターの隊服とは違い、ロングジャケットとテンガロンハットの装いはアウトドアにふさわしい装いだ。わざわざこの休暇のために着てくれたのだと思うとどこか面映ゆい。
元々急遽決まった休暇だったため、護衛として同行する男性のエリートオペレーターが中々決まらず。アーミヤ側に同行する女性のエリートオペレーターが存外すんなり決まったこともあり、焦っている中で声をかけたのがウルピアヌスだったから。
「なんだ、俺が同行者では不満か」
「まさか。不満どころか、私にとっては望外の喜びだよ。誘った手前言うことではないが、断られると思っていたから」
いつもの情報共有の時間。去り際の背中にかけた声は半ば返事を期待していないものだった。
名目上視察ではあるものの休暇であることは明白であったし、シーボーン関連でも先史文明に関わる事でもなかったため、そのまま立ち去られるか他をあたれと言われるとばかり。振り返り、詳しい日程はいつだと言われた時にはとっさに反応できなかったのをはっきりと覚えている。
「私のために時間をくれてありがとう、ウルピアヌス。私と一緒で申し訳ないけれど、君も少しでも休めていたら嬉しいな」
日頃から時間と責務に追われている人がつかの間でも穏やかでいてくれるなら。見つめた先で赤い瞳が凪いでいるのが嬉しいのに、深く一つまばたきをされてしまう。ーーーまるで仕方のない人というように。
「時間に追われているからこそ、休めるときには休まなくてはな。それにお前は申し訳ないというが。つかの間の休暇だからこそ、共に過ごしたいと思う相手でなければ応じていないとは思わないのか」
「ええと……」
「好意がなければそもそもここにいないという話だ。何の遠慮があるのかは知らないが、お前の好意も善意も理解した上でここにいる。そして相手に休んで欲しいと思うことはお前だけではない」
理解したのなら妙な卑下はやめることだ。伸ばされた手にさらりと頬を撫でられてしまうから、思わず釣竿を取り落としそうになるのを耐えた。じわじわと上がる熱を自覚しながらドクターは思う。
(ーーーまったく、この人は本当に)
自他共に厳しく一見近寄りがたい雰囲気をかもし出す人が、本当は不器用ながらも優しく情深い人であることを知っている。普段は抱えるものの重さや鋭い言葉のやりとりに隠れてしまっているものの、今日に限って素直にその内心を聞かせてくれるのは休暇だからなのだろう。
その心が嬉しいと思う反面、常にはない反応や言葉が返ってくると胸のうちがあたたかくてくすぐったい。
「ドクター?」
我ながらわかりやすい反応をしているだろうに、不思議そうに声をかける人がおかしくてなんでもないとドクターは笑う。短くても楽しい休暇が過ごせたらいいな、と。
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