かみや
2025-08-31 21:42:34
12106文字
Public えーすり
 

むかえにいくよ

夏の終わりにきさらぎ駅パロのようなホラー千至。
千至といいつつ要素が申し訳程度です…ホラー初心者の書いたものなので大目に見てください

やっとの思いで滑り込んだ電車のドアが背後で閉まる。人もまばらな車内は空席だらけで、これ幸いと至は入り口近くの座席に座った。
散々な一日だった。予期せぬトラブルの対処に奔走し、ようやく全てが落ち着いた頃には天鵞絨駅行きの最終電車が出る時間が迫っていた。駅まで走ってきて弾んだ息を整えていると、たちまち吹き出してきた汗が車内の冷房で冷えていく。ポケットから引っ張り出したハンカチで首元の汗を拭いながら背中を預けると、どっと疲れがのしかかってきた。今日は疲れた。本当に疲れた。もうあんなトラブルはごめんだ。あーと声が出そうになるのを堪えながら、至は目を閉じる。
(デイリー消化したかったけど無理かも。ちょっと寝ようかな……
残業の疲れに加え、終電ダッシュで残り少ない体力を使い果たしてしまった。瞼の裏に広がる闇が、とろとろと眠りの淵へ誘っている。ガタンゴトンと規則正しく体が揺れる感覚も心地よい。最悪寝過ごしたら同室の先輩にでも迎えを頼もうなどとちゃっかり考えながら、至は意識を手放した。

ふと目を開けると、電車はどこかに停車しているようだった。
(やばっ!マジで寝過ごした!?)
慌ててドア上にあるディスプレイの駅名を確認しようとすると、真っ暗になっていた。え、と戸惑いながら辺りを見渡すと、まばらながらいたはずの乗客は一人もいない。ぞわ、と言い知れない不安が背筋を撫でる。終点かもしれないしとにかく降りよう。鞄を胸に抱えるように持って立ち上がり、至は足早に電車から降りた。
この路線は会社の最寄り駅から天鵞絨駅までしか利用したことが無く、終点どころか次の駅にも来たことはなかった。けれど、降り立ったホームの様子に至は思わず立ち竦んだ。
ホームには誰もおらず、ぽつぽつと並ぶライトが心許なく足元を照らすだけで、辺りは墨で塗りつぶしたように真っ暗な闇に包まれていた。
都心からは離れているとはいえ、そこそこ賑わっているはずである。終点だとしてもそんなに離れた場所に来てしまったのだろうか。まるで山間部の田舎のような寂れたホームの様子に、再びぞわぞわと不安が這い上がってくる。とにかくここが何処なのか確認しようと辺りを見渡すが、ぽつぽつとライトの並ぶホームは広く見えるわりに案内板どころか駅名標すら見当たらない。奥の方は暗闇に吸い込まれるようにして果てすら見えず、その妙な広さと異様な暗さに胸がざわざわとして心臓が早鐘を打ち始めた。
いやいやいやなんだここは。
ドッドッと鼓動の音を感じながら恐る恐る振り向く。乗客のいない電車はドアを開けたまま停車したままだった。回送待ちなのか、もしかしたらここが終点では無いのかもしれない。けれど、この閑散とした場所の先に見慣れた街並みが現れるとは到底思えない。
どうする、と焦る心でぐるぐる思考を回していると、突然ぷしゅーっとドアが閉まり、誰もいない電車はゆっくりと発車してしまった。
「えっ、うそ、」
為す術なくホームに取り残された至は、電車が走り去ったあとのその暗さにゾワッと総毛立った。電車内の明かりがあっても暗かったというのに、ぽつぽつと並ぶライトはほとんど意味をなしていないのだと思い知らされる。
「うわ、どうすんだこれ……完全に詰んだ」
全身の血がサーッと音を立てて引いていくのが分かった。悪寒のような冷たい何かが背筋を這い上り、相反するように全身からじわじわと汗が吹き出してくる。ドッドッとまるで鼓膜の中で激しく脈打っているような心臓の音に次第に息が上がっていく。
どうする、どうする、どうする。
必死に思考を回している間にも辺りの闇の深さはどんどん増していくような気がして、ますます思考の回転を鈍らせる。なんとか深呼吸して息を落ち着かせると、至は竦む足を動かしてひとまず駅を出ることにした。
駅舎の中は真っ暗で駅員はおろか人の気配すらない。無人の改札を抜けて外に出ると、ぽつぽつと申し訳程度の街灯がロータリーを照らしていた。やはり辺りは暗く、タクシーもいない。よく目をこらすとロータリーの向こう側は木々に覆われ、山道が続いているように見えた。
見慣れない景色と闇の深さに呆然としていると、ふとあることを思い出した。
……これはもしかして、存在しない駅ってやつか……?」
何年か前、ネット掲示板で存在しない駅に着いてしまったという女性の書き込みが話題になり、言わば都市伝説のようなものとして様々な考察や映画化されるなど今も根強い人気を集めている。今直面している状況は、まさにその書き込みと酷似している気がした。大まかな概要は知っているが、詳細を調べれば何かヒントを得られるかもしれないとスマホを取り出した至は、「え」と力の抜けた呟きを震える唇から零した。
画面の右上に圏外の文字、ロック画面に大きく表示された日時は0月0日00:00。
「な、んだこれ……
焦り、恐怖、不安。色んな感情がごちゃ混ぜになって一気に沸き上がり、ドッドッと鼓動が激しく脈打ち始めた。のっぺりと覆い被さるような静寂が、ドッドッと激しい鼓動の音を鮮明に浮き上がらせる。
(……いや、ここでこんなことしててもしょうがないか……どうする)
白く濁る頭を何とか動かして、至はまばらな街頭の明かりを頼りにもう一度辺りを見回した。ロータリーにはバスの停留所もなく、せめてベンチでもあれば始発が動き出すまで過ごそうかとも思ったがそれも見当たらない。駅舎の方を振り返ってみたが、中は塗りつぶしたように暗く不気味で戻るのは気が引けた。
……
つい癖でスマホを見るが、相変わらず電波は圏外で画面はバグったままだった。当然、連絡は取れない。一瞬、同室の男の顔がよぎった。チート能力でなんとかしてくれよ先輩。届くはずのない呟きを口の中に溶かして、至は小さく息を吐いた。
存在しない駅についてしまった女性はその後どうしていたか。掲示板に逐一実況するような形で書き込みしていたという内容の大まかな流れを思い浮かべてみる。
……確か、線路に沿って歩いて行ったんだよな)
女性は掲示板内の他のユーザーの制止も聞かずに線路沿いを歩いて行く、という内容だった。至は口元に手を当てて未だ鈍い思考を必死で回した。ロータリーの向こう側は木々が生い茂った山道が続いている。その道は奇しくも背後にある線路に沿って続いているように見えた。
体を休めそうな場所がない以上この場で一夜を明かすことは無理だろう。だとすると、選択肢は一つしかない。
……行くか」
震える息を無理矢理吐き出して、至はあえてそう声を出した。そうして気合いを入れないと、その場からずっと動けないような気がした。
そうしてなんとか足を踏み出すと、至は山道の方へ向かってロータリーの中を歩き出した。

コツ、コツ、コツ、と革靴がコンクリートを踏む音と、ドッ、ドッ、ドッと自分の鼓動の音だけがいやにはっきりと聞こえている。
ある程度整備された山道には街灯がついているが、やはりポツポツと申し訳程度にしかなく、闇が色濃く広がっている。仕方なく至はスマホのライトをつけて足元を照らしながら歩いていた。
鬱蒼と木が生い茂る山道だというのに虫の声すら聞こえなかった。ただ、湿ったコンクリートのような、草木のような、青臭い匂いが鼻についた。都会では嗅ぐことがない自然の匂い。慣れない匂いは、落ち着かない。他人の家で慣れない匂いの中にいる自分の方が異質であるような、よそよそしさに似ている。
ここはおそらく異世界なのだろう。
現状がすんなりと腑に落ちてきた。日頃からゲームやネットで異世界転生や不可思議な現象についての耐性があって良かった。gj俺。
のっぺりとした闇と静寂が広がる中を、ひたすら歩く。自分の足音と激しい鼓動の音が闇と静寂の帳を切り裂いていくようでやけに耳についた。歩いても歩いても変わらない景色に募る不安で、ますます鼓動は速くなる。息が上がる。コツ、コツ、コツ。ドッ、ドッ、ドッ。はあ、はあ、はあ。聞こえる全ての音が自分から発せられる音しかないという事実が、背筋をゾワゾワと撫で上げていく。もう暑いのか寒いのかよく分からなかったが、首から下はぐっしょりと汗をかいていた。
(そりゃさ、異世界転生みたいな非日常ファンタジーいいなとは思うけど、こんなホラゲみたいなシチュエーションは流石に嫌すぎる……
徐々に削られていく精神と体力に、至は心の中でげんなりと溢した。もうどれくらい歩いたか分からない。足は痛み、ただでさえない体力が限界だった。どこかで休みたいが、当然ベンチなどもなければ休憩できそうなスペースもない。どうしようかと考えていると、突然ブーンとスマホが震えた。ドクン!と鼓動が跳ね上がり思わずヒュッと喉が痙攣する。
立ち止まって恐る恐る画面を見ると、着信は千景からだった。
飛びつくようにして至は通話ボタンをタップする。
「っ、もしもし!」
「もしもし。お前今どこにいるんだ」
ようやく繋がった電波の状況は悪く、ガサガサとノイズが混じっていたが、聞きなれた声にふっと肩の力が抜けるのが分かった。思わず目頭と鼻が熱くなる。
「は〜よかったぁ先輩……いや……もうなんていうか、色々ありすぎて……
震える声で至はここまでの出来事を伝えた。話を聞き終えた彼は「分かった」と返すと、
「迎えに行くからそこで待ってて」
といつもの様子で言った。
「えっ?先輩、俺がどこにいるか分かるんですか?」
「迎えに行くからそこで待ってて」
「いやでも、」
至が何か言う前に通話は切れてしまった。慌てて画面を見ると圏外になっていて表示もバグったままだった。
「いやいやいや。いくらチート先輩とはいえそんな簡単に分かるものか?いやでもチート先輩だしワンチャン……いやないだろ流石に」
微妙に噛み合わない会話に、今まで感じていた恐怖とは別の恐怖がうっすらと背筋を撫で上げて、ぞわりと肌が粟立つ。
このままここで待つべきか。スマホの画面を見つめたままぐるぐる逡巡していると、不意に背後が明るくなって車のエンジン音が聞こえてきた。
「えっ……うそ、先輩もう来た?」
なんのはずみか一瞬だけ繋がった電波で、およそ数十秒の通話の間にGPSで特定したというのか。それにしても来るのが早すぎる。まるで、近くで待ち構えていたかのような。
ゆっくりと後ろを振り返る。ドッドッと再び鼓動が早くなって、汗でベタベタする首筋を新たな汗が一筋伝っていった。やがてエンジン音と二つの丸いヘッドライトが近づいてきて、その眩しさに至は目を細めながら道の右側へ避けると、車は少し通り過ぎたところにある街灯の下に停車した。目を凝らして車体をよく見ると、バンタイプの軽自動車だった。いつも千景と二人で使用している車ではない。ブレーキランプの赤色がじわりと暗闇に滲むように不気味で、スマホを握りしめる手がじっとりと湿っていく。千景とのやりとり、停車した見知らぬ車。不安と恐怖と期待がないまぜになって早くなる鼓動に息が上がっていく。動けずに立ち尽くしていると、ウィーンと窓が開く音がして「大丈夫ですか?」と運転席から誰かが顔を出した。
「あ……
何か言わなくてはと口を開くが、口内は乾いて粘つき舌がもつれて上手く言葉が出ない。代わりに汗がこめかみを伝っていった。
窓から顔を出しているのは若い男だった。心配そうに眉を下げた優しそうな顔立ちは整っていて、頭上の街灯を透かすような緑がかったブロンドも相まって日本人離れしているように見えた。
「どうぞ乗ってください。次の駅まで送ります」
男の言葉に思わず「え」と至は粘つく口内から零した。ありがたい提案に助っ人ktkrと歓喜する一方で、女性の書き込みの内容を思い出していた。
線路に沿って歩いていくとトンネルがあり、そのトンネルも存在しない名前のトンネルだった。意を決して中を進んでいくと男が立っており、最寄り駅まで送っていくと言ってくれる。
……その後車に乗って、確か、)
「あの、大丈夫ですか?どこか具合でも?」
反応がないのを心配する男の声に至はハッとすると「いえ」となんとか絞り出した。
「その……人が、迎えに来るかもしれなくて、」
力なく掠れた声でそう答える至に、男は訝しげに眉を寄せた。けれどすぐに安心させるような優しげな笑みを浮かべて「そうでしたか」と言った。
「でも、こんなところで待つのは危ないですよ。次の駅まで送るのでそこから連絡してはどうですか?電波も入りますし、栄えているところなので迎えが来るまで時間も潰せると思いますよ」
ね、と小さい子を諭すような男の優しい声音と笑顔に、至はずっと不安と恐怖で張り詰めていたものがぷつんと切れるのを感じた。ここがどこで何が起きているか分からない恐怖、どこに繋がっているかも分からない暗い道を歩き続ける不安に身も心も疲弊しきっていた。
……じゃあ、すみませんが、お言葉に甘えて」
至は小さく頭を下げた。もしかしたら女性もこんな心境だったのかもと、至はぼんやり考えながら男の車に乗り込んだ。

車のヘッドライトが照らす暗い山道は延々と続いている。
至から事情を聞いた男は「それは大変でしたね」と労うように優しく声をかけた。
言葉少ない車内に、軽自動車の大きなエンジン音と、時折道が劣化してできた凹凸にガタンと車体が揺れる音だけが響いている。
至は運転する男の横顔を盗み見た。暗い車内でもわかる鼻筋の通った横顔、街灯の下では緑がかって見えたブロンドの髪は緩くウェーブがかかっている。そして至の目をひいたのは、ハンドルを握る右手の親指に嵌められた銀のリングだった。同室の彼がつけているリングによく似たそれは、まばらな街灯の灯りを受けて時折ちらちらと光っていた。
(先輩、マジで迎えにきてくれてるのかな)
スマホを見ても画面は変わらないままだった。圏外である以上こちらからは連絡が取れない。
チート先輩、なんてふざけて呼んだりするが、実際のところ緊急事態に対しての千景は頼もしい。謎の情報網や異常なまでの運動神経は本当に「普通の商社マン」かどうか怪しいところではあるが、その能力で劇団の危機を何度も救ってきた。それがこの状況にも適用されるのか分からないが、でも千景ならなんとかしてくれるんじゃないかと漠然と思考を巡らせる。さっき一瞬だけ電波が繋がったのもやっぱり先輩のチート能力だったのかも、とまで考えて至は小さく嘲笑するように息を吐いた。
(千景さん)
心の中で呟くと心細さと寂しさが一気に湧き上がってきて、堪えるように至はぎゅっと目を閉じた。
「お疲れですよね。狭い車内ですけど、くつろいでもらって構いませんから」
男の優しい声に至は目を開けると「ありがとうございます」と微笑み返した。
「そういえば、次の駅ってどこなんですか?」
至の問いにああ、と男が口を開きかけた瞬間、突然ブーンとスマホのバイブ音が鳴り響いた。
鼓動が一つ跳ね上がり思わず「ぅおっ」と素の声が出て、慌ててスマホを見ると着信画面には千景の名前が表示されていた。
「ああ、よかった。迎えにきてくれるって言ってくれた人からです」
男に説明して至が通話ボタンをタップするのと、「出るな!」と男が今までの優しい様子から一変して鋭い声を上げるのは同時だった。
「えっ?いや、でも、」
突然の男の剣幕に困惑する至に、
「ここ、電波は通じないんです。基地局がありませんから」
「え……っ!?」
と、男は早口で告げた。その言葉に至はさーっと全身の血の気が引いていくのを感じた。じゃあ、今、電話が繋がっているのは、かけてきているのは。
「もしもし。お前今どこにいるんだ」
「!」
不意にスマホから千景の声が聞こえてびくりと肩が揺れる。画面を見ると、いつの間にか通話がスピーカーに切り替わっていた。流石に驚いたのか、隣からぞっとしたような視線を感じた。
やっと落ち着いた心臓が再びドッドッと激しく脈打ち始める。「あ、の、」と必死に言葉を探していると、
「答えないで」
と潜めた声で男が強く言った。はっと口を継ぐむと電話口の千景の声は「もしもし。お前今どこにいるんだ」ともう一度聞く。
男の言葉通り周囲に基地局がないとするならば、たまたま電波が繋がったなんてことはありえない。じゃあ、あの時の電話も?ドッドッと自分の鼓動の音が耳に付く。気付けば至はスマホを持つ手と逆の手で口元を押さえていた。何か一言、呼吸の一つすらも聞こえてはいけないような気がしてたまらなかった。
「もしもし。お前今どこにいるんだ」
ザザザとノイズ混じりの千景の声が、全く同じ文言で問いかける。フーフーと口元を手で押さえ肩で息をしながら、至は目線だけを男に向けた。男はちらりとこちらを見て小さく首を振りながら「切って」と口だけを動かした。お前今どこにいるんだ。お前今どこにいるんだ。お前今どこにいるんだ。お前今どこにいるんだ。同じ文言を喋り続けるノイズ混じりの千景の声にゾワゾワと総毛立っていく。震える指先でなんとか終了ボタンを押すと、通話は切れて車内は再び沈黙に包まれた。
至は口元を覆っていた手を離すと、はぁーと長く息を吐いて助手席のシートにぐったりともたれかかった。首から下はびっしょりと汗をかいていて、口元を覆っていた手やスマホを持つ手もじっとりと湿っていた。
「な、なん、なん、ですか……これ……
至の力ない掠れた呟きに、男は何も言わなかった。ただ先ほどまでの優しそうな表情は消え、険しい顔で前方を睨んでいる。その様子に女性の書き込みが頭を過ぎった。
女性が最寄駅を訪ねると、男が告げた駅名は女性が乗った駅から百キロ以上も離れた駅だった。訳がわからないまま、とにかくそこへ行けばビジネスホテルなどもあるというので男の車に乗り送ってもらうことにする。その道中、だんだん男は無口になり様子がおかしくなっていくのだ。
黙り込んでしまった男の様子に、至は不安と恐怖で胃の辺りが気持ち悪くなるのを感じた。思わずワイシャツの上から鳩尾のあたりをギュッと押さえる。
すると再びブーンとスマホが震え、「ヒッ」と至の喉から引き攣った声が漏れ出た。恐る恐る画面を見ると、着信者は、千景。
「絶対に出ないで」
ようやく口を開いた男は鋭い声で告げた。至はこくこくと頷くと、自分から遠ざけるようにしてスマホの画面を見つめる。暫く鳴り続けていたバイブはやがて静かになった。ほぅ、と小さく震える息をつくと、再びバイブ音が鳴り響き、着信画面には千景の名前が表示される。
「ま、また……!?」
慌てて終了ボタンを押すが、間髪入れずにまた千景から着信が入る。こちらが出るまで掛け続けるつもりなのは明らかだった。
「とにかく出たらダメです。電源を切ってください」
男の言葉に必死で電源を切ると、ようやくスマホは静かになった。肩で息をしながらスマホから視線を引き剥がすように恐る恐る男を見ると、ぎゅっとハンドルを握りしめて焦りの表情を浮かべている。車のスピードはどんどん上がっているようだった。
「あの……これ何なんですか……?この電話……先輩じゃなくて誰が掛けてきてるんです?」
ここまでに感じていた疑問をぶつけると、迎えの相手を先輩と零したことに対して男は前を見据えたまま「着信相手はあなたの先輩なんですね」と返してきた。
「え……あ、はい、会社の先輩で」
男は暫し沈黙し、「そうだったんですか」とほのかに笑みを滲ませた。誰かを懐かしむような声だった。
「大丈夫。僕が必ずあなたを送り届けますから」
力強い声でそう言うと、男はこちらを見てにこりと笑った。その安心させるような笑顔に、至は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。「ありがとうございます」と小さく頭を下げる。
しばらくすると、前方にトンネルが見えてきた。
ハイビームで照らし出されたそれは随分と古びていて、蔦にびっしりと覆われていた。トンネル名を見ようと至は目を凝らしたが、劣化や暗さのせいかよく見えなかった。
「このトンネルを抜けたらすぐですよ」
男がそう教えてくれて至は安堵の息をついた。ようやく希望が見えてきたような気がした。
シートにゆったりと身を沈めると、少しずつ冷静になっていく頭が余裕を取り戻してきた。女性の書き込みはその後どうなったんだったか。
車は街ではなくどんどん山の方へと向かっていき、運転する男は無口になったかと思うと今度はぶつぶつと何か呟きはじめた。いよいよ身の危険を感じた女性は、携帯電話のバッテリーが少ない旨と隙を見て逃げようと思うという書き込みを最後に、以降掲示板に現れることは無かった。
……
いやいやいや、待てよ。頭の中が急激に冴えていくのを感じる。
そもそも何故この男はこんなところを走っているのか。このよく分からない場所のどこから来て、どこへ行こうとしているのか。
男は一体、何者なのか。
至はゆっくりと視線だけを男に向ける。必ず送り届けると言ってくれた言葉を疑いたくはなかった。けれど、女性の書き込みに酷似した状況、千景からの不可解な電話。何もかもが異様なこの場所でこの男を本当に信じても良いのか。
そう思うとサーッと血の気が引くように男の得体が知れなくなってきて、至はうっすら粟立った二の腕をさり気なく押さえた。
(さすがに様子はおかしくなさそうだけど……ワンチャンこれ逃げた方がいいのでは?)
車はトンネルの中を進んでいる。出口はまだ見えない。男から視線を外し、古びたコンクリートの壁が高速で流れていくのを窓から眺めながら、至は思考を巡らせた。車はかなりのスピードで走行していて、このままドアを開けて飛び出すのはどう考えても無理だ。それに運良く降りられたところでどこに逃げれば良いのか。
(うーん、逃げる方が無理ゲーと来たか)
あれこれと考えながら何気なく男の方を見ると、男はしきりにバックミラーを気にしていた。さっきも思ったが車はかなりのスピードで走行していて、メーターを見ると速度は百キロ近く出ていた。まるで何かから逃げるような様子にざわざわと不安を募らせていると、
ドン!
突然大きな音がして車体が揺れた。「うわっ!」と至は体をびくつかせながら辺りを見回したが、どこで何が起きているのか分からない。
ドン!
再び大きな音と共に車体が揺れる。
ドン!ドン!ドン!
何度も鳴る大きな音と衝撃に、至は全身の血液が逆流するような恐怖で凍りついた。音は車内ではなく外側で鳴っている。まるで、出てこいと言わんばかりに何かが力いっぱい車体を叩いているのだ。
「まずいな……もう追いつかれた」
男はバックミラーをちらりと見て呟くと、さらにアクセルを踏んだ。焼き切れそうなエンジン音が一層甲高くなり、車はトンネル内を爆走する。
「お、追いつかれたってなんですか!?何が起きてるんですか!?」
思わず大声で男に尋ねると、再びドン!と車体が揺れた。
……もしかして、先輩の振りをして俺に電話してきた奴ですか?」
ドン!ドン!と至る所を叩かれて車体が揺れる。男は衝撃でハンドルが取られないようにしっかりと握り締めて前を見据えている。
ドン!!
一層強い音がした。男の顔を覗き込むように身を乗り出した至が座っている、助手席側の窓から。背中に冷水を浴びたようにゾッと寒気が走る。
「見ないで!」
前を見たまま男は鋭く叫んだ。
「見たら戻れなくなる」
……っ、」
凍りついたまま息を飲む至へ男は視線を寄越すと「いいですか」と声のトーンを落とした。
「もうすぐ出口につきます。このトンネルを抜ければあなたは元の世界に帰れます。でも、僕はこのトンネルより先には出られないんです。だから出口の手前ギリギリに車を停めるので、僕が合図したらドアを開けてすぐにトンネルから出てください」
男が早口で告げる間も、ドン!ドン!という音と衝撃は止まない。至はすぐ隣の窓から聞こえてくるそれに男の声が紛れないよう耳をそばだてながら必死に頷いた。
その時、ブーンとスマホが震えた。ドクンと心臓が大きく脈打ち、ヒッと喉が引き攣る。
「なんで……電源、切ったのに……
ドッドッと速くなる鼓動に肩で息をしながら震える手でスマホの画面を見ると、着信者は、千景。
「っ!!」
至は思わず目を見開いた。声にならない悲鳴が喉元で滞留し、はくはくと酸素を求めて大きく喘ぐ。 鳴り続けるスマホ、止まない外側からの大きな音と衝撃。男はクソッと小さく呟いてハンドルを握りしめる。
突然ふっと前方が明るくなったかと思うと、白い半円形の光が見えてきた。
「よし出口だ!僕が合図したら、ドアを開けて飛び出してくださいね!」
興奮した声で男が捲し立てる。至は「分かりました!」と引き攣る喉から裏返った声を絞り出した。
半円形の光がどんどん近付くにつれて、ドンドン叩く音は更に激しくなり、スマホも鳴り止む気配がない。
なるべく窓を見ないようにしながらシートベルトを外して、ドアのハンドルに手をかける。いよいよ出口が近付いてきて、闇に慣れた目が眩しさに眩んで顔を顰めたその時だった。
車は右へと急ハンドルを切り、キキキキーッとつんざくようなブレーキ音を響かせながら半回転して止まる直前、
「今だ!!」
男が声を張り上げた。同時に至はドアを開けて無我夢中で外の光へ飛び出した。
やや残念な運動神経の至に受け身が取れるはずもなく、左肩から腕にかけてを強く地面に打ち付ける。ゴロゴロと転がりながらスローモーションのように反転していく視界の中で、軽自動車に覆い被さるように無数の黒い手がまとわりついているのが見えた。開け放ったドアの向こう側でハンドルを握っている右親指の指輪がきらりと光り、
「千景によろしくね」
と、寂しげに笑っているような気がした。
転がっていた体が再び強く地面に打ち付けられて、そこで至の意識はぶつりと途切れた。



次は天鵞絨。次は天鵞絨です。
車内アナウンスの声ではっと目を覚ますと、至は電車内の座席に座っていた。
まばらに乗っている中の何人かが降りるために出口付近に寄ってくる。ドア上のディスプレイにも『次は天鵞絨』と表示されていた。
(え……なんだ……?夢オチ……?)
寝起きのぼーっとした頭で考えながら、至は小さくため息をついた。夢にしてはあまりにもリアルで、体はぐったりと異常に疲れていた。今日の残業がここまで響いているとは。やはり労働は悪。弊社爆発しろ。心の中で中指を立てながら重い体を引きずって立ち上がると、至は丁度開いたドアの方へと歩き出した。

改札口を出ると、まばらに人々が過ぎて行く中で見知った人物が視界に飛び込んできた。
「茅ヶ崎」
ひらりと片手を上げた彼は、丸いレンズの向こう側のブルーグレーをゆるりと解いてみせた。途端に先ほどまでの出来事が頭を過ぎり、様々な感情がごちゃ混ぜになって表情筋がおかしなことになっていくのが分かった。
……なんて顔してるんだお前。どういう感情だそれ」
「え……千景さん?」
「うん」
「千景さん、ですよね……?」
「は?なんだ急に。お前は俺が違う奴にでも見えるの?」
「いえ、あの、」
よろよろと千景に近付き、そっと両腕を掴んでまじまじと顔を見る。鶯色の髪、ブルーグレーの瞳、指紋ひとつない丸メガネ、訝しげに寄った形のよい眉に整った顔。
「あ……千景さんだ顔が良い……
「何言ってるんだお前」
嫌そうに顔を顰める千景に疲労で強ばった体から力が抜けていく。至は千景の肩口にことりと額を預けて長く息を吐いた。「おいなんだよ。大丈夫か?」と呆れた声で言いつつ、千景はぽんぽんと優しい手つきで至の頭を撫でてやる。その心地良さが、むずむずと嬉しい。
「いや……なんか……今日残業ですごい疲れてて」
「ああ、随分大変だったらしいな。だから迎えに来たんだよ」
「え、」
顔を上げると、吐息で笑ったブルーグレーがやわらかく緩んだ。
「お前のことだから、どうせ残業プラス終電ダッシュギリ成功で体力使い果たして死んでるだろうなと思って」
「ぐぅ……何一つ間違ってなくてワロえない」
はは、と楽しそうに笑う千景を至はじとりと睨みあげた。
……でも、ありがとうございます」
「うん」
もごもごと礼を言う至の律儀さを楽しそうに見下ろしながら、「お疲れ様」と千景はまたぽんぽんと頭を撫でた。
「さ、帰ろうか」
「はい」
体を離して淡く微笑むと、するりと千景の大きな手が至の手を取った。まばらにいた人々はいつの間にか誰もいなくなっていた。
駅舎の外へ向かって歩きながら、いつものようにポケットからスマホを出して、至は思わず動きを止めた。電源が切れていた。電車に乗る時に充電は十分にあったから切れるはずがない。切ったのだとしたら、あのトンネルの中でしかなかった。
(夢……じゃ……なかった……?)
ドクン、ドクンと心臓が脈打つ。ざわざわと広がっていく不安に動けずにいると、「茅ヶ崎?」と千景がこちらを見る。
……や、なんでもないです」
そう答えて笑みを貼り付けると再び歩き出す。千景に見えないようこっそり電源を入れると、至はヒッと引き攣った声を上げて足を止めた。
起動したスマホの画面には夥しい数の千景からの着信。そしてライムのメッセージが一通。
「茅ヶ崎、どうかした?」
再び千景が尋ねた。
全身の血が引いていくのを感じながら、恐る恐る至は顔を上げて千景の方を見る。
ブルーグレーがゆっくりと弧を描き、冷たくなっていく至の指先を握る手にきゅう、と力がこもる。
スマホに表示されたメッセージには、


「むかえにきたよ」