はてさて、轟はその後も仕事を続けたが、紅茶と珈琲を間違えたり、濡らした雑巾を絞るのを忘れたりなど。普段しない失敗をことごとくやってしまい、メイド長にまで心配されて「休憩してきなさい」と言われてしまった。
急にやることがなくなった轟は、ふらふらと屋敷の中を歩き回る。裏庭まで来たとき、ふと人影が目に入った。主人の勝己だった。
「……」
真夏であるにも関わらず、彼は走り込みをしていた。ずっと机に張り付いていたら体が鈍る。ということで最近になってランニングを始めたのだとか。
勝己は轟に気が付いたのか、歩み寄ってくる。轟は、胸が高鳴るのを感じていた。
「轟、ンなとこで何しとンだ」
「ぁ、えと…散歩を…」
「ふーん…」
勝己は首にかけたタオルで汗を拭った。今日は気温が高い。飲み物はあるのだろうかと轟は辺りを見回す。すると屋敷の方から勝己を呼ぶ声が聞こえてきた。
「勝己様…!お水です」
近づいてきたのは、二年ほど前からこの屋敷で働いているメイドだ。ふわふわと巻かれた髪が風に揺れている。いかにもメイドが似合いそうな少女だ。
「ん…」
勝己は差し出された水を受け取るとゴクゴクと飲み干す。暫くその二人を見ていた轟だったが、ふと少女から向けられる視線に気がついた。
「轟さん、ちょっと手伝ってくれませんか?」
「はい、分かりました」
轟は勝己にペコリと頭を下げると、少女の後に付いていった。その後ろを、勝己がじっと見つめていたのには気づかなかった。
「…轟さん」
「はい…」
先ほどとは打って変わった少女の声色に、轟は小さく返事をした。
「仕事をサボって何してたの?勝己様の邪魔したら駄目じゃない」
「ぇ、いや、俺は別に…」
「勝己様の優しさに漬け込むのはやめなさいよ」
キッと睨んでくる少女に、轟は何も言えなくなる。その代わり、服の裾をぎゅっと握りしめた。
「アンタみたいな顔に傷がある奴、勝己様が相手にするわけないもの」
少女が発する言葉一つ一つが、轟の心を傷つけた。それはトゲトゲのナイフのようで、一度刺されると抜くのが辛い。
「ま、私は貴方と違うから、そんな事ないと思うけど」
「……」
少女は、何も言わない轟に踵を返すと屋敷に戻っていった。轟は、何も言えなかった自分の拳を固く握りしめていた。
〈翌日〉
勝己がふと目を開けると、シャッと部屋のカーテンが開けられた。眩しい太陽の光に一瞬目を細めるが、その先に居た轟が憂いを帯びた表情をしていて、微かに眉を寄せた。
「…おはようございます、勝己様」
「はよ、」
勝己はベッドから降りると轟から服を受け取る。いつもと違い大人しい轟に、勝己は違和感を覚えながらも、ネクタイを渡した。
「結べや」
「、…分かった」
轟は少し驚いた顔をしていたがそれはすぐに隠して、主人のネクタイを結ぶことに集中した。
「…なンかあったンか」
「え…?」
勝己のネクタイを結ぶ手が、ピタリと止まった。しかしすぐに手を動かし始める。少しの違和感。勝己がそれを見逃すはずがない。
「なンかあったんなら言え」
「や、で、でも…」
「ご主人サマの命令が聞けねェンか?」
その一言に轟はうっ…と何も言えなくなる。勝己のこういう時の顔には勝てない轟であった。
轟はふぅ、と息を吐くと昨日のことを掻い摘んで話した。勝己はそれを、じっと聴いていた。
「と、まぁそんな感じで言われたけど、俺は別に気にしてないし…」
名前までは出さなかったものの、やはり告げ口をしてしまったようで、轟は罪悪感からか俯いた。
「轟、」
「…?」
名前を呼ばれて顔を上げた轟は突如、勝己に抱き締められる。
「そんな奴らが言うことなンて気にしなくていい」
「け、けど…」
「俺はお前が好きだ。俺の言う事より、あいつの言ったことを信じるのか?」
「…それ、は…」
轟は勝己のこの顔に弱い。そろそろ鉄についてきた頃だろうか。勝己はずいっと顔を近づけると耳元で囁いた。
「なぁ…」
「っ…!」
轟はブワッと顔を赤くして、首を横に振った。轟が勝己の言ったことを信じないわけがない。しかし、轟だって不安なのだ。昨日突然告げられた想いと、あの女の人の言っていたこと。どちらも大きすぎて、抱えきれない。けれど、
「勝己様を…信じます…」
ずっと尽くしてきた勝己のことを信じないのは、裏切りのような行為になってしまう気がしたのだ。勝己はゆっくりと轟を離すと部屋を出るために扉へ向かう。
「轟、行くぞ」
「、はい」
いつものように勝己の後ろを歩く轟は、目を伏せている。その姿は誰が見ても美しいが、勝己のことを好きな人物にとって彼は邪魔な存在でしか無かった。
「…俺、仕事頼まれてたの忘れてました。ここで失礼いたします」
轟は逃げるようにその場から立ち去った。それを、勝己は真剣な瞳で見つめていた。
太陽が西へ傾き始めた頃、轟は洗濯物を取り込んでいた。真夏の夕陽は熱く、肌をジリジリと焼いていく。轟が流れてきた汗を拭った時、庭を通りかかったメイド達の声が彼の耳に届く。
「身分も考えないで…バカよねー」
「それもあるけどさ、勝己様には許嫁が居るのよ。付き合えるわけないわ」
誰かを冷やかすような言葉。ただの噂話だと流すことが出来たら良かった。けれどそれは、純粋すぎる轟には出来なかった。
好きだと言ってくれた本人に許嫁が居るなんて、誰が想像するだろう。稀にはあるだろうが、まさか彼が…という心境になるのは仕方のないことだ。
「…勝己様…」
俯いて名前を呼ぶ。けれどそれは誰の耳にも届かない。続きの仕事をする気にもなれず、轟は裏庭へと足を向けた。この屋敷の裏庭には、隅に大きな噴水がある。その噴水は、轟にとって大切な場所だった。
「もう…ここに居ても…」
轟がこの屋敷に仕えているのは、勝己の傍に居る事が出来るからだった。彼に助けてもらった恩を返したかった。
「勝己様…ごめんなさい…」
轟は今、自分の中にあった感情に気づいてしまった。気づかないようにと無意識に蓋をしていた感情。これがあの感情だなんて信じない。信じたくない。轟の頭の中は否定の言葉で溢れていた。
(舞い上がってたことくらい…自分が一番分かってるのに…)
轟は気づかない内にしゃがみ込み、顔を覆った手は涙で濡れている。
「こんなにも…好きだったなんて…」
許されない恋だと、轟は思った。例えそれが彼から向けられたものであっても、轟が受け取ってはならないものだった。あの口付けは嬉しかったし、轟も意識を始めた。けれどやはり、だめなのだと。
「轟、」
傍に居ては駄目なのだと。
「おい!」
泣いてしまうほど好きだとしても、してはいけない恋だった。気づいてはいけなかった。
「おい、轟!」
肩を捕まれ、轟は誰かの腕の中に収まった。顔を見なくても分かってしまった。轟は溢れるそれを必死に拭う。見られないように、誤魔化すように。けれどそれは、主人によって止められてしまった。
「どうした、どっか痛ンか?」
轟は彼の腕の中で首を振る。勝己はどうして彼が泣いているのか、全く分からなかった。見当たらないので探していたら、蹲って泣いていたのだから。
「轟、泣くなや…」
好きな人に泣かれると辛い。それはきっと世界共通なのではないだろうか。どうしてか泣き止んでくれない轟に、勝己は心を決めた。今こそ、男を見せるときである。
「轟、」
「…?」
「好きだ」
そう言った直後、勝己は轟にキスをした。あまりにも突然で、とても幸せなキスだった。
「え…?あ…」
何が起こったのか、轟の脳は処理できなかった。ただ、多くの情報の中から、キスをしたという事実だけを理解した。動揺している轟を、勝己はぎゅっと抱きしめる。この燃えるような熱い想いを、彼に分かってもらえたなら。そんな、淡い希望を抱いて。ただ、ひたむきに愛している。それが伝わればいい。
「俺はお前が好きなんだ…だから泣くな」
ずっと想っていた。何をしていても、どこに居ても彼のことを考えている。
「でも…許嫁が…いるって…」
「あれは…嘘だ。適当な理由付けとけば、告白されなくなると思って」
苦味を噛み潰したような顔をしながら言う勝己に、轟は顔を上げる。
「つーか、好きだって何度も言ってるだろ?」
「うん…」
「傍にいてくれ。これからもずっと」
「勝己様の…ご要望のままに」
それから、何度目か忘れたキスを交わした。許されない恋なんか存在しなかった。それを実感した轟は、最愛の人に身を任せてその恋に溺れた。
その数日後、正式な婚約指輪を持った勝己が轟にプロポーズするのだが、それはまた別のお話である。
fin.
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