夏の終わり

夏の終わりに雷雨っていうのは、全国共通でしょうか 傘の下の二人
⚠︎🌋に彼女がいたことがある設定

 雨の日、傘の下で話す、こもった声と空気が特別だった。それが少し変わってしまったのは、大学のときだ。
 雨が降っていたから、当時付き合っていた彼女を、傘を持って迎えに行った。湿気に濡れた当時の彼女の髪を撫でると、彼女は水泡が弾けるような溌剌はつらつさで笑った。でも僕が振る話題があまり気に入らないときは、つまらなさそうな顔で終わりを求めてきた。「ごめんね」と言うと、今度は彼女の話に移る。あの傘の下は、一喜一憂させられ息の詰まる世界だった。湿度の濃い中で呼吸をするのが苦しいときと似ている。
 誰かを迎えに行く、相合傘をする。二人、三人と付き合ううち、僕は純然なそれらの行為を過剰なプライドで覆った。同じことをする友人がいたら、
「迎えに行くなんて健気だね」
「相合傘って、どうせ両方濡れちゃうじゃん」
 と卑屈ばかりをぼやいた。
 雨の日は、一人が気楽でいい。一人だと恐れることなく、傘の中心を握りしめられる。特別を失って、寂しさで体を濡らしてしまわないよう、我が身かわいさで歩いてきた。

 ◇

 雨が降る、雷が鳴る。
 今朝の天気予報は外れた。予測不能だったにわか雨は、「にわか」と言うには少々長く、分厚い雲からあふれる雨が、道路のアスファルトを一気にどす黒く湿らせる。
 雷が鳴っている以上、室内で電化製品を使うのには抵抗があった。こんな夕方になってようやく僕の食欲が湧き出たのに、電子レンジの使用を止めざるを得ない。温める予定だったタッパーを冷蔵庫へしまい、顔を上げてベランダを覗く。窓の下には、水たまりを跳ね上げて走る車が見える。道を歩く人々も急ぎ足になっている。ベランダに備わっている、マンションの排水溝へ吹き込んだ雨は、勢いよく管を通って下へ落ち、落ち葉やほこりを流していった。
 暗雲の中、マンションの一室という箱に閉じ込められているみたいだ。ガラスで覆われた部屋の一角と鉄筋コンクリートの壁が、雷の音で迷子のように震えていた。
(そうだ、傘)
 僕は薄暗い廊下に行き、電気をつける。スリッパの音を鳴らして玄関を見た。松田さんの靴、僕の靴、シューズボックスと視界に収めていき、最後に傘立てへと目をやった。案の定、大きめのビニール傘が一つと、折り畳み傘が壁の杭に引っ掛けてある。
(やっぱり忘れてる)
 ──今朝、天気予報を聞いて出た人間は、大半が忘れているはずだ。もちろん松田さんも例外ではなかった。「今日は過ごしやすい一日となるでしょう」と朗らかに伝えたあの予報士は今、唇を噛んでいるだろう。
 僕は松田さんの、紺色の折り畳み傘を手に持って考える。
 傘は二つある。迎えに行けばいい。この雨で傘がないのは非常に困るだろうし、コンビニで買うにしても、皆が殺到して傘を欲しがったりしたら、品切れするかもしれない。
(でももし、すぐに止んだら?)
 想像する。この豪雨は長く続かず、傘を二本持って立ちすくむ自分の姿。松田さんは駅で驚いた顔をしていて、「なにしとんねん」と呆れている。
 首を横に振り、傘を手に取る。
(もし、傘をさしても無駄なくらいの大雨だったら?)
 窓から見た雨の様子をかんがみるに、スニーカーではすぐ濡れる。短い丈のラバーブーツの上から丁寧に防水スプレーをかける。ふぅと息を吐き、心を落ち着かせた。
 傘を持っていくことを期待されていないかもしれない。雨は止んでしまうかもしれない。傘が意味をなさないかもしれない。それでも。
(あの人は、迎えに来たんか。って言う)
 僕はそれをちゃんとわかっている。心なしが、つま先が軽くなった。
 外に出て、松田さんの折り畳み傘を広げてみる。太った積乱雲の中に、紺色の布地が花開くようだった。ビニール傘は帰りに自分が使うとして、今はこの松田さんの傘の下が、どんな空間なのかを確かめたかった。
 この下で囁かれた人はいるのだろうか。この下で特別を感じた人はいただろうか。
 ……無駄なことを考えてしまい、せっかくはしゃいだつま先はすぐに速度を落とした。僕は浮かれる気持ちにブレーキをかけるのが癖で、それはやはり、学生時代以降から培われたものだった。

 駅まで歩く道中でも、コンビニやドラッグストアに何人も駆け込むし、その人たちがすぐに出てきて、買ったばかりの傘を広げて歩き出すのも見えた。慌ただしい人々の合間、小さい子どもが母親と手をつないでかっぱを揺らしている。長靴で水たまりを蹴るのが楽しいらしい。
 ──僕も昔、水たまりの中をじっと見るのが好きだった。雲が動いていくのも、通りすがる人の傘の下の顔が映るのも、全てが眺められた。そうやって長々と観察して、雲はいつも灰色で重くたれこめているイメージだし、人はほとんど、疲れた顔であることが多いと知った。
 背が伸び、傘をさすようになって、そういう寂しさや冷たさから身を守るようになったけれど──松田さんと住む内にいつの間にか、雨の日を寂しいと思わなくなった。
 松田さんは、雨の日も晴れの日も変わらない。愚痴が多いときもあれば、陽気なこともあって、でも決して、つまらなさそうには生きていなかった。仕事へ行くのを面倒くさがるときはあるけれど、朝ご飯を食べて家を出るときには、その背中にやる気を密やかにみなぎらせている。仕事が好きで、仕事に生きて、尊厳と誇りを持っているのだろう。ややワーカーホリック気味ではあるが。
 小さいころに見た水たまりの中で、そういう表情を見ていれば、少しは僕も将来を明るく考えられたかもしれないのに。
『改札のまえにいるから』
 とだけ松田さんにメッセージを送る。松田さんから見てわかりやすい位置にいられるよう、会社や学校帰りの人たちが波のように訪れても、できる限り動かずにそこにいた。僕は人混みが得意ではないが、控えめに遠くで待ってしまうと、きっと見つけるのが困難になる。
 雨がますます叩くように道路に跳ねるころ、背の高い、頭が一つ飛び抜けた人がこっちを見た。
「山田」
 松田さんがこちらへ寄ろうとするが、人が壁のようにぞろぞろといて、近づくのに時間がかかる。松田さんは苛ついた顔をしていたが、怒り出さずに人をかき分けて僕にたどり着いた。
「迎えに来たんか」
 予想通りの言葉をもらえただけで目的を達成した気になってしまう。僕が目を細めて笑うと、松田さんのいぶかしげな顔が視界に滲んだ。
「松田さんの傘、大きいし撥水はっすいもいいから、ここ来るまで全然濡れなかった」
「これええやろ、もう何年も使っとるわ」
 得意げな彼がふと、視線を僕の持つビニール傘に向いた。
「それ、うちにあったやつか?」
「うん」
 なんの変哲もないビニール傘のはずだ。しかし松田さんは苦い顔をする。
「すっかり捨てんの忘れとったわ」
「捨てる?」
「折れとんねん、風にあおられてな」
 とあっさり言われる。僕は松田さんが逆さまになった傘を罵倒している姿を想像し、こっそり笑った。それはすぐに見つかって、「あれ、お前やったら傘ごと吹っ飛んどったで」と皮肉をぶつけてくる。たしかに数日まえ、今日ほどではないが雨と風の吹き荒ぶ日があった。タバコを買いに出かけた松田さんが、小用だからとビニール傘を使ったのだろう。
「折れたの使うのも、みっともないしな」
 持つわ。と言って、松田さんは僕の手から折り畳み傘を引き取り、今度は二人で入った。彼の左肩がくっつく。
「いくら傘が大きくても、さすがに男二人では濡れるでしょ」
「お前、図々しいな。ちゃんと詰めて入る気ないやろ」
「それはあるけど」
 でも松田さん、さっきから、僕に雨が当たらないようにしてるでしょ。
 ──松田さんを迎えに行く、相合傘をしてもらう。大雨が道路に当たり、派手な音を立てているが、迎えに出るまえよりは小さくなった。こうして過ごす時間も、あとわずかなのかもしれない。学生時代の僕だったなら、早く終われと思っていたに違いない。今は、こもった空気の中で聞く松田さんの話に、僕は気遣いも謝ることもなく、息をするように言葉を交すことができる。
 この傘の下で特別を感じているのは、僕だけではないと信じたい。
「夜、どこかで食べていこうか」
 松田さんはこの雨なのに? と言わない。「そうやなぁ」とのんびり相づちを打つ。
「飲んでもええな、明日休みやし」
「僕は休みじゃないんだけど」
「取材あるんやろ。お前はソフトドリンクな」
「松田さんだって飲み過ぎないでよ」
 空返事をする松田さんは、肩をすくめる。その肩の、右側だけが濡れていく。