─なんとなく彼とはずっと一緒に居られる気がしてた。永遠なんてものがないと分かっているけれど、ずっと一緒にいる彼となら言葉なんか、行動なんかなくとも、心さえ通ずることが出来ていれば、永遠にずっと一緒に居られるんじゃないかと思っていたのだ。
「…乱太郎、どうした?」
自分の視線に気がついたのか、きり丸が心配そうな顔をして乱太郎の事を見た。乱太郎はハッとして自分の気持ちに蓋をして、なんでもないよ。と言葉を紡いで、きり丸から差し伸べられた手を握ったのだった。
「…さっきおまえたちに渡したのは進路希望調査の紙だ。自分の行きたい進路をちゃあんと考えて夏休みに入るまでには出しておけよ。」
進路希望調査の紙を提出したよい子たちから私と山田先生のふたりで面談をする予定だから早めに、早めに出しておくように!夏休みまでに出さなかったやつは夏休み中に呼び出すからな!覚悟しとけよ!と何度もよい子たちに念を押して教室を去っていった。
担任の土井が去っていった教室には静寂から一転、喧騒が辺りを包む。夏の風物詩である蝉の声より六年は組のよい子たちの騒ぎ声の方が大合唱だった。
「もう進路の話かあ〜。」
「そりゃそうだろ、もう夏休みだからね。」
なに、若旦那はまだ一年生気分でいるつもりなの〜?と団蔵をイジる兵太夫の声が聞こえる中、乱太郎は先程土井に渡された進路希望調査の紙をずっと見ていた。
団蔵の言う通り、もう進路を決めないといけない時期なのか。と乱太郎は思う。だってこの前まで五年生で落第スレスレで進級できるか危ない!なんて騒いでいたのに。あれほどあほのは組と呼ばれていた自分たちが六年生までずっと同じ人数で、誰一人欠けること無くここまでこれたことを思うと感慨深いものがあるが、やっぱり進路で離れ離れになってしまうのか。と考えると、少し寂しいものである。
「乱太郎は卒業したらどうするのー?やっぱり家に帰るの?それともタソガレドキからもうお呼ばれしてるとか…!?」
先程まで団蔵と話をしていた兵太夫がいつの間にか乱太郎の机の側へ来ていて、問いかけた。兵太夫の発言に乱太郎は気づいていないが、は組のよい子たちの視線が一気に乱太郎に集まる。そんな中、その視線に気が付かないまま乱太郎は頬をかきながら笑って口を開く。
「…残念ながらタソガレドキにはお呼ばれしてないよ。」
「え〜っ、そうなの!?伏木蔵と一緒に勧誘されてると思ってたんだけど〜。」
「あはは…。伏木蔵は雑渡さんに気に入られてるからね。…私は気に入られてないから勧誘はされないんじゃないかなぁ…?」
「…そう?(ばりばり気に入ってると思うんだけどな…?)」
「…うん。」
「じゃあまた決まったら教えて!乱太郎の進路気になるから!」
そう言って兵太夫は再び乱太郎の机から離れて別の輪の中に入っていく。それを機に他のは組のよい子たちも会話に戻っていって、乱太郎はひとり机に向かう形となる。
(…進路かあ。)
いずれ、自分が進む道を決めなければいけないと思っていたけれど今日、突然そう言われて書いて出せよ〜。と困ってしまう。どうするも何も、乱太郎はそもそも将来のことなんてあまり考えたことがなかった。世間も忍者のことも何も知らない一年生の頃の自分は一流の忍者になるという目標を掲げて、この忍術学園に入学してきた。
けれど、学年が上がる事につれてたくさんのことを学んできて、自分が、世間が思っている程忍者は華々しい仕事ではないと気づいたし、忍者はいつ死ぬか分からない職業だと身を持って体験をした。
怪我をしている人や病気になっている人を救うためにあると思っていた自分の手で初めて人を殺めた時、吐き気と頭痛が止まらなかったことも、自分の命を守るために目の前の命を奪わなければいけないと思った時の感情も未だに覚えている。
苦無が人の肉に刺さるあの瞬間の音、匂い、相手の表情から何まで今でも鮮明に覚えている。人を殺めてから、夜になると毎回その場面の夢を見るようになったし、手を洗う時に自分の手にずっと血がついているように見えた。
…あのとき、自分が死ねば良かったのかもしれないとさえ考えたこともあった。なんで、こんな思いをしてまで自分は生きなければならないのか?と。きっと、あの時、自分に殺された人が幸せに生きている未来もあったはずだ。と。
いろんなことを考えて涙が出そうになるのを抑えて、手のひらが傷つきそうになるくらい強く握りしめた。自分が誰かの未来を奪ってしまったことに対しての罪悪感が拭えなくて眠れない日々が続いた。
それでも、乱太郎が絶望せずに前を向いてここにいるのはきり丸を初めとしたは組のよい子たちが居たからだ。
「手が汚いのはお前だけじゃねぇよ。」
ここにいる学園長だって、先生だって、先輩方だって俺たちも俺たちの後輩だっていつか体験することだ。…だから、勘違いすんな。乱太郎だけが辛いんじゃない。乱太郎だけが手を汚すんじゃない。みんなで一緒に背負って行くんだよ、自分が殺した命と一緒にさ。そう言って乱太郎が初めて人を殺めた時に一緒に泣いてくれたのもきり丸だった。
戦乱が続くこんな世界だ。誰かを守るためには自分の手を汚さなくてはいけない時もある。誰かが犠牲にならないと生きていけないことがある。この世界の全ての人が助かるようなそんな夢みたいな事は存在しない。
そんな世界だと知った上でここに残り続けることにしたのだ。誰かの命を奪ってしまっても、乱太郎はそれでも人の為になりたいと思ったからこそ、こうして今ここに立っているのだ。
(それにしても……。私のやりたいことって何だろう。)
誰かの為に働きたい。誰かの役に立ちたい。という気持ちは乱太郎の中にあるのだが、具体的なものを問われたら何にも出てこない。…困ったものだ。自分にとっての“やりたいこと”はいったい何なのか。
困っている人を助けること?…それとも、父や母のように半農半忍で生きていくこと?…どんな事であれ、乱太郎は自分の中で答えを見つけなければいけないと思い始める。それが何であれ、自分自身で決めた道なら納得ができるだろうと。
(とりあえず、出すのは今日じゃないな…。)
「なあ。」
「え」
頭の中に溢れてくる問題に対して悩みに悩んでいる俯いた状態の乱太郎の前に影ができる。それに気が付いた乱太郎が顔をあげるとそこにはきり丸の姿があった。
いつの間にか皆帰ってしまっていたようで先程までいたはずの兵太夫や他のは組の生徒達の姿はない。きり丸も教科書をしまって、既に帰り支度を済ませてしまっているようだし、考え事をしてたらもう夕方近くになってしまっている。
「……どうしたの?きりちゃん。」
「…それは俺が言いたいセリフだけどなぁ?」
「えっ…?」
「だってお前ずっとぼーっとしてたじゃん。授業終わってすぐから今までずっと。」
「そ、そんなに!?」
嘘ぉ……と呟く乱太郎を見てきり丸は苦笑する。本当に全く気がついていなかったようだ。きり丸が乱太郎の隣に座り込みながら声をかける。
「……それで?」
「え?」
「…何かあったんだろ?」
きり丸の目がじっとこちらを見つめる。その真っ直ぐな瞳を見て誤魔化すことなんてできなかった。乱太郎は観念して両手を上にあげる。
「あっはは…。そんなにわかりやすかったかなぁ?」
「……まぁ、は組のみんなは気がついていただろうな。」
「えぇっ!」
全然気がつかなかった!!と驚く乱太郎の様子を見てきり丸は安心したように笑う。そして続けて言葉を続けた。
「……んで、何がお前を悩ませてるわけ?」
「……それは……。」
きり丸の問いかけに乱太郎は言い淀む。正直にいうと自分でもよく分かっていないのだ。なぜ自分がここまで将来のことについて悩んでいるのか。どうしてこんなにも不安になるのか。
ただひとつ分かるのは、どんな未来を考える時にも自分の隣にきり丸がいる前提で考えていることだけだ。乱太郎は、きり丸がいない未来がどうしても想像できないのである。だってきり丸は自分の半身のような存在だから。
だからこそ彼がいなくなったらと考えると怖くなるのだ。いつも落ち込んでいたとき、いつも乱太郎のそばに最初にいてくれたのはいつだってきり丸だった。きり丸が居るから今の自分があると言っても過言ではないと思うほどに自分の中で大切な存在となっていることに乱太郎は気がついていた。
しかし、そんなことを本人に伝えてもいいものか。それとも黙っておくべきなのか。乱太郎はどうしたものかと考え込む。きり丸は乱太郎の言葉を待ってくれているようだった。
そんな沈黙を破ったのは乱太郎の方である。意を決したように顔を上げたあと大きく深呼吸をして口を開いた。
「…例えばだよ?私が卒業したらどこかに行ってしまってもう二度と会えないかもしれないってなったらきりちゃんは寂しいとか思ったりする?」
「なんだよその例え話…。」
突然の質問にきり丸は首を傾げる。どうやら乱太郎の考えていることは伝わっていないらしい。しかし、そんなことで諦めたりしないのが乱太郎なのである。
「…別にいいじゃん!きりちゃんだったらどうするかなって思ったんだからさぁ〜!」
「何だよそれぇ?」
意味わかんねぇ。と言いながらも考える素振りを見せてくれるあたり本当に優しいと思う。しばらく唸りながら考えた後、きり丸は答える。
「……分かんねぇ。」
「分からないって…?」
「いやだって……そんなの今考えたってしょうがねぇだろ。」
確かにそうだ。今は仮の話であって実際に起こることではない。けれどそれでも考えてしまうのはやはり彼が特別だからであろう。
例え仮の話であったとしても彼がもしも離れて行ってしまったらと考えるだけで胸が苦しくなるのだ。それほどまでに彼は自分の中で大きな存在になってしまっていたということを乱太郎は改めて実感した。
だからこそ余計に彼の気持ちを聞きたいと思ってしまうのだ。もし自分と同じ気持ちを抱いてくれるのであれば嬉しいと思ってしまうのは悪いことなのだろうか。そんなことを考えていると不意にきり丸の口から言葉が漏れる。
「…うーん、別に、特に何も思わねえかも。」
「えっ……。」
「やっぱり、今考えたってしょーがねえし……。」
きり丸の言葉を聞いた瞬間乱太郎は言葉を失ってしまった。まさかそんな返事が返ってくるとは思っていなかったからだ。だって自分はきり丸が居なくなることを考えただけでこんなにも胸が締め付けられるような想いになったというのに…。
(そっか……。きりちゃんは私が居なくてもいいのかぁ……。)
考えてみれば当たり前のことかもしれない。卒業したらそれぞれバラバラになるかもしれないということぐらい分かっていたはずなのに今更になってその事実を突きつけられて動揺している自分は馬鹿みたいだと思う反面酷くショックを受けている自分もいることに気がつく。
(あぁ……嫌だなぁ。)
「……乱太郎?」
急に黙り込んでしまった乱太郎の様子を不審に思ったのかきり丸が心配そうに顔を覗き込んできた。そこで我に帰った乱太郎は慌てて誤魔化すように笑う。
「ごめん!なんでもない…!ごめんね急に変な事聞いちゃって…!」
「別に構わねぇけど…。」
「じゃあ私、医務室に用があるから行ってくるね!」
「おー…。気をつけろよ。」
今日は当番でもなかったから特に医務室へ用はないのだが、乱太郎は逃げるようにその場を後にした。これ以上この空間にいたら取り繕った笑顔が剥がれてしまいそうで恐ろしく感じたからだった。
─あんな返事をされるのならばいっそ聞かなければよかった。こんなにも心臓が痛いのはきっと走ったせいだと言い聞かせて乱太郎はただひたすらに足を動かす。乱太郎が部屋から消えたあと。きり丸は深いため息を吐いた。
「……何やってんだよ俺は……。」
そう呟いた彼の顔はとても悔しそうだった。だって本当は分かっているのだ。乱太郎が何を言いたかったのか。ただの戯言ではないことも本当は理解していた。それでも言えなかったのは怖かったから。この関係を壊したくなかったし、自分の本心をさらけ出して拒否されることを恐れたからだった。
(…本当はお前とずっと、居たいんだよ…。)
けれど、そんなことを言ってしまえば最後。今まで築き上げてきたものが崩れてしまう気がした。乱太郎と一緒に居たいと思う反面でそれを素直に口に出せるほどの勇気を持ち合わせていない自分にも腹が立っている。
「……俺だって。」
俺だってお前がそばに居なくなるのは嫌だ。お前のいない生活なんて考えられない。そう言えたらどれだけ良かっただろうか。きっと誰にも受け入れられないであろう自分の気持ちを押し殺しながらきり丸は再び溜め息を吐いたのだった。
あの日以降、乱太郎ときり丸の間には少しずつ溝ができていったように感じる。何故なら今まで普通に交わせていた会話がうまくいかなくなったのだ。
お互い意識しているわけではないと思うのだがやはりどこかギクシャクしてしまう。そんなふたりを見て周りの人達は何があったのかと心配するものの直接聞くことはできずモヤモヤしながら日々を過ごしていた。そんなある日の放課後。乱太郎が廊下を歩いていると後ろから声を掛けられた。振り返るとそこにいたのはしんベヱだった。
「乱太郎。」
「……しんベヱ…。」
「…ちょっと、ふたりで話そうよ。」
有無を言わさず連れて行かれる。抵抗しようと思えばできるのだろうが大人しく従うことにした。連れていかれて辿り着いた先は校庭にある池の畔でありそこで一旦腰を落ち着けることにした。すると開口一番しんベヱが切り出したのは先日の出来事についてである。
「ねえ、乱太郎。きり丸となにかあったの?」
単刀直入に言われて乱太郎は狼狽える。確かに最近自分達の間に流れる空気は少しだけ重いものではあったがまさかバレているとは思わなかったのだ。どう答えようか迷っているうちに痺れを切らしたのかしんベヱはさらに続ける。
「…ふたり共元気ないよね。何かあったんでしょ?」
それとも、僕には言えないようなこと?と真剣な眼差しでこちらを見るしんベヱに対して嘘偽りなく答えるしかないと判断した乱太郎はぽつりぽつりと話し始める。
「この前、しんベヱがいない日に進路希望調査の紙を配られてさ、」
「…うん。」
「それで、進路の話になったの。」
「…うん。」
「それで、きり丸に…。きりちゃんにね……?」
もしも私が居なくなったら寂しい…?って聞いたの。そう言った途端しんベヱの顔色が変わった気がした。その理由はよく分からなかったけれどとにかく続きを話した方が良いと思ったのでそのまま話すことにする。
「そしたら何も思わないって言われちゃった…。」
「…そうだったんだ……。」
「…それが結構悲しくてね。」
乱太郎は自嘲気味に笑う。本当はこんなことを言うつもりはなかったのだが一度口にしてしまうと止まらなくなってしまったようだ。一方、しんベヱはというと難しい表情を浮かべている。しばらく考え込んだあとゆっくりと口を開いた。
「…きっと、きり丸は本心で言ったんじゃないと思うよ。」
本心じゃない……?どういうこと?」
「きり丸はさ、照れ隠しとか強がりとかでよく自分の気持ちを隠しちゃう癖があるからさ。だから多分今回もそうなんじゃないかなって…。」
「……」
「それに…乱太郎に質問するけど、」
乱太郎はきり丸が誰かのものになっても、受け入れられるの?それでもいいの?しんベヱの真っ直ぐな目でそう問われて乱太郎は言葉に詰まった。何も言えなかったからだ。だって自分も心の奥底で薄々気づいていたことなのだから。
「私は……。」
もしもきり丸の隣に自分以外の誰かがいたらと考えるとゾッとする。きっと耐えられないだろうし許せないとも思う。けれど同時にそれは自分自身にも言えることなのだ。
もし仮に自分が誰かを好きになったとき、果たしてその人のことを愛することが出来るのだろうかと考えるだけで恐ろしくなるし、眩暈がしそうだ。
「わ、わたしはっ…。」
「…うん。」
「…嫌だ、そんなの嫌だよ…っ…。」
それは次第に大きくなっていきやがて頬を伝う雫となった。そんな乱太郎の様子を見てしんベヱは優しく微笑む。
「…ふふ、ようやく言えたね、乱太郎の気持ち。」
そう言って頭を撫でられると余計に涙が溢れ出てくるような感覚に襲われる。それでも必死に堪えようとするものの結局は駄目だったようでボロボロと流れ出てくる始末だ。
「…僕に言えたように、素直な気持ちをきり丸に話せたらきっときり丸も分かってくれるはずだよ。」
「…ほんとう?」
「…本当だよ。…僕が乱太郎に嘘ついたことあった?」
「…う、ないけど…。」
そんな様子を見てしんベヱは苦笑いしつつも何も言わずにただ寄り添っていてくれた。その温もりを感じて安堵したのか次第に落ち着きを取り戻していく乱太郎に対してしんベヱは言う。
「…大丈夫、大丈夫だよ、乱太郎。」
「…うん?」
「……きり丸もきっと、乱太郎と同じ気持ちだろうからね。」
「…お、同じ……?」
「そうだよ。だからちゃんと向き合ってお話しよう。逃げずにさ。…ね、きり丸。」
しんベヱがニコッと笑って告げた名前に反応した乱太郎は勢いよく振り返る。するとそこにはバツが悪そうな顔をしたきり丸が茂みから出てきて、ぽつんと立っていた。
「き、きりちゃ……っ。」
乱太郎が声をかけるよりも先にきり丸の方が先に動き出す。スタスタと歩いてきたかと思うとそのまま勢いよく乱太郎の手を掴んだ。突然のことに驚いている乱太郎を他所にそのまま引き摺るように歩き出す。
「えっちょ……!?」
驚く乱太郎を横目に、しんベヱはきり丸の肩を叩いてこう言った。
「…庄左ヱ門から言われたと思うけど…。ちゃんと仲直りしてね。乱太郎のこと大切にしなきゃ、僕次は怒るよ?」
「…わーってるよ。」
しんベヱの言葉に背中越しで言い、最後にありがとな。と返事をしたきり丸は乱太郎を引っ張りながら歩き続けた。途中何度か振り払おうとしたがそれよりも強い力で握られており不可能に近い状態となっていることに気づいた乱太郎は大人しく従うことにした。
連れてこられた先は空き部屋で、そこは普段使われていない場所だった。きり丸は障子を閉めると向き合う形で乱太郎の正面にしゃがみ込む。乱太郎はただ呆然と立ち尽くしていたがやがて小さく息を吐いた後覚悟を決めたように口を開く。
「……ごめん。」
謝罪の言葉と共に下げられる頭。それに対してきり丸は何も言わなかったが代わりに手を掴む力を強めたように感じた。
「……きりちゃん……?」
恐る恐る名前を呼ぶとそれに反応するようにピクリと肩を震わせる。それからゆっくりと顔を上げると視線が交わる。その目からは涙が溢れており今にも零れ落ちそうだった。
それを見て驚く暇もなく次の瞬間にはきり丸に抱きしめられていた。突然の出来事に頭が追いつかず硬直していると耳元で嗚咽混じりの声で囁かれる。
「…好きだ。」
きり丸が絞り出したその言葉を聞いただけで、身体中が熱くなるのを感じた。同時に胸の奥底から何かが溢れ出しそうになる感覚に襲われる。それはおそらく歓喜というものだろう。嬉しくて幸せで堪らないという感情が溢れて止まらないのだ。
乱太郎はきり丸の背中に腕を回すと強く抱きしめ返す。するとそれに応えるかのように更に強く抱き寄せられ苦しいくらいだったが不思議と不快感はない。むしろもっと強く抱いて欲しいと思っている自分がいることに気づく。
「…わ、わたしも……きりちゃんのっ、ことが…すき…っ!」
そう口にすると堰を切ったかのように想いが溢れてくる。ずっと秘めていた気持ち。誰にも打ち明けられなかった秘密の恋心をようやく本人に告白できた喜びと安堵によって涙腺が緩み次々と雫となってこぼれ落ちていく。
それはとめどなく流れ続け止まる気配がないどころか増えていく一方だ。そんな乱太郎を宥めるように優しく頭を撫でる手の感触に余計に泣きそうになる。
「ごめんな…。乱太郎。」
「え……?」
「……俺、怖かったんだ。」
「…」
「…乱太郎との関係を壊したくなくて、壊すぐらいならずっと親友のままでいいとすら思ってた。」
「……」
「…俺は、お前がいないとダメだ。…俺は、乱太郎がいないと生きていけないよ。」
きり丸は乱太郎の手を取ると自らの胸元へと押し当てる。そこから伝わってくる鼓動は速く強く脈打っており緊張していることが伺えた。それと同時に彼の体温も感じることができて乱太郎はまた泣きそうになった。
そんな乱太郎を察したのかきり丸は困ったような笑みを浮かべる。そしてもう片方の手を伸ばすとそっと髪を梳いてくれた。それが心地よくてつい目を細めるとクスリと笑う声が聞こえる。
「……こんな俺だけど、これからも側にいてくれる…か?」
そう言い終わった後きり丸の顔を見ると顔を赤く染めていてさっきまで泣きそうになっていた乱太郎は、それがとても可愛らしく見え思わず笑ってしまう。
「なんだよぉ……。」
「ふふ……。いや、可愛くて……。」
「可愛いって言うな。……でもまあそんなところも全部好きなんだけど。」
「……っ!」
きり丸の言葉に今度は乱太郎の顔が真っ赤に染まる番だった。それを見てまた笑うものだから恥ずかしさのあまり俯いてしまう。
すると突然唇に柔らかいものが触れた感触があった。
それが何かを理解した時には既に遅く、離れていく温もりを追いかけるように視線を向けると悪戯っぽい笑みを浮かべているきり丸の姿があった。
「ふは。やっぱ乱太郎はかわいーや」
「……っずるい……!!」
「えー?なにが?」
「全部!!そういうところも含めて全部!!」
「はいはい。俺にとってはお前も十分ずるいんだよ。」
そう言って額同士を合わせる。至近距離で見るきり丸の顔は普段と違ってとても色っぽく見えた。その瞳に吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥るほどに。
「乱太郎…。」
「……なぁに?」
「…だいすき。」
「……私も。…だいすきだよ。」
乱太郎の言葉を聞いて満足げに微笑むきり丸を見て自然と笑みが溢れた。それにつられて乱太郎も笑顔になる。そしてどちらからともなく顔を寄せ合いら互いの想いを確認し合ったふたりはどちらからともなく自然と唇を重ねた。
─永遠なんてないことをとうの昔に知っている。だけど、彼となら。この先もずっと、ずっと添い遂げられる気がする。…ふたりでならば、どんな困難も乗り越えられる気がするからだ。…そんな漠然とした期待を抱きながら乱太郎は愛しい人の背に腕を回したのだった。
ワード:何も知らない・勘違い・眩暈
了
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