【スタゼノ】恋の嵐

スタゼノワンドロワンライ第217回お題「おめでとう」
せっかく休暇を合わせたのに、夜になってもリビングで仕事をするスタンリーとゼノの話。

 部屋の隅に置かれた、オレンジ色のランプの明かりしかない薄暗いリビングで、スタンはソファに沈みながら煙草を吸っていた。手元にはほの明かりを放つスマートフォンがあり、それはまるで空に浮かぶ月みたいに彼の顔を照らしていた。
 その表情は苦かったから、僕は勝手に仕事をしているんだろうかって想像した。僕も大概ワーカーホリック気味だったけれど、彼だってそうだったからだ。僕達は自分に任せられた仕事に、熱心になりすぎるところがあった。恋人と過ごす久しぶりの夜だって、こんなふうにお互いをほったらかしてしまうくらいには。
 ソファの前にあるテーブルの上の灰皿には、吸い殻が山を作っている。もう何箱吸ったのだろうか、これじゃ彼の肺はたいそう汚れて、黒く染まっていることだろう。今もスタンの唇は煙草を咥えている。それはゆるく揺れている。そんな彼の眉間にはしわがあり、それは彼が担う任務の重圧を示しているようにも思えた。
 そんな恋人を気にしつつも、僕は彼の隣に無言のまま座っている。いや、座っているだけじゃないな、ラップトップに向かってどうでもいいタスクをぼんやりとこなしている。勿論、外部に持ち出し可能なレベルのくだらないタスクだ。それは今しなくたって構わない、そんな仕事だった。
 そんな僕とスタンは、さっきからずっと喋っていなかった。騒がしいダイナーやバーを抜けてようやく二人きりになったっていうのにキスもしないで、まるでただの友人みたいにして過ごしていた。それは何となく近頃になかった不思議な感覚で、僕は呆けたように液晶画面とスタンを交互に見つめた。
 僕達は確かに愛し合っていたけれど、かつての――例えばティーンエイジャーの頃には確かにあったはずの、そんな情熱的な恋が日常に変わっていっているような気がした。そう、情熱的な日々は落ち着いてしまっていて、今じゃあお互いがなくてはならないくせに、目に見えない空気みたいだった。こうやって僕たちは、恋の嵐から逃れてゆくのだろうか? かつて熱心に確かめた愛情は、くだらない日常に埋もれてゆくものなのだろうか?
 時計は夜半過ぎをさし、部屋はスタンの煙草の匂いと、僕がキーボードを叩く小さな音だけで満たされている。仕事に就けば幾晩も起きているタフな彼だってことは知っているっていうのに、僕はたった一晩の夜更かしが心配だった。僕だって、眠れない夜が続くことはあるっていうのに。
(これじゃあまるで、倦怠期の夫婦みたいだ……
 そう、僕は今、世の中によくあるカップルの片割れになったみたいな気分だった。お互いがなくてはならないものであるはずなのに、それを日常にかき消されている気がしたのだ。
 でも、だったらどうすればいいのだろう? どれだけ頭を捻っても、いい案は思いつかない。だから僕は、データを集めようとして、恋人の横顔をこっそりと盗み見る。
 ティーンエイジャーの頃よりずっと精悍になった輪郭は、けれどどこか郷愁に満ちていた。その横顔からはかつてあった幼さは消えていたが、太陽の色をした黄金色の瞳は以前は確かにあった、そんな熱っぽい恋の色を残している気がした。そう、学生時代にIDを偽造して借りたアパートで、科学の実験をしながらいつしか唇を重ねたあの夏の夜が、今もまだ僕達の身体のどこかに残っているような気がした。そしてあの頃のスタンの笑顔は今日よりずっと柔らかったてことが、どういうわけか僕の心をかき乱した。今も互いがなくてはならない存在だっていうのに、どこか遠い気がしてしょうがなかった。
 そんなことを考えるうちに、僕はふと、スタンの煙草を奪ってしまう。自分でも驚いた。まるで、自分が幼い子供のように思えたから。
 それは単純に気を引きたかったからかもしれないし、仕事に埋もれる彼をこのまま見ていられないって衝動からだったからかもしれない。とにかく、僕はもう沈黙に耐えられなかったんだろう。だから煙草を灰皿でにじり消して吸い殻の山に乗せ、ラップトップを抱えたまま、彼をじっと見つめたんだろう。そんなものより僕を見てくれって、そう言いたくて。
 そんなふうに激情に支配された僕だったが、スタンはというと、酷く驚いた目をしていた。黄金色の、太陽の色をした瞳。その虹彩はわずかに揺れている。そりゃあそうだろう、突然無言で愛飲する煙草を取られたんだから、動揺もするだろう。集中していたんだから、驚きもするだろう。でも、僕はいてもたってもたまらず、そんなものに構わず強引に唇を重ねる。柔らかくて少し湿った、彼の粘膜に自分のそれを重ねる。
 煙草の苦い味と彼の体温が、僕の中に広がってゆく。僕は彼を堪能する。一つになったみたいに、愛しい男に、薄暗い部屋の中でキスをする。繰り返し角度を変え、僕はスタンにキスをする。
 感覚としては長いこと唇を重ねていた気がするけれど、それは秒針が揺れる一瞬だったかもしれないし、本当に長かったのかもしれない。でもやがて唇は離れ、僕達はまた二人に戻っていった。
 僕が離れると、いきなりのキスに、スタンはぽかんとした顔をしていた。僕はなんとなく突然キスを仕掛けたことに罪悪感を持って、何も言わない彼を見つめる。嫌だった? 今夜は仕事をしたい気分だった? 僕と重なりづらい休暇を合わせても、一人きりになりたい気分だった? そんなふうに、少々面倒な感情を抱きながら。
「スタン、ごめん……
 ようやく口を開いて謝罪すると、どういうわけか彼は口元を緩め、濃いまつ毛に縁取られた目を細めて笑った。スタンは楽しそうだった。僕が一人で勝手にキスを仕掛けて、そして降参したのを、心の底から楽しんでいるみたいだった。
「あんたから仕掛けてくんの珍しいね。おめでとう、あんたの勝ちだよ。やっぱりあんたには敵わないな」
「スタン……
 彼はスマートフォンをソファに置き、僕からラップトップを奪う。そして一応NASAの文書が入ったそれを閉じ、テーブルの上、今にも崩れそうな吸い殻が山になった灰皿の横に置く。
 それから、僕達は静まり返った部屋の中で、月も星も、勿論遠くの惑星も見えない小さな部屋の中で、また唇を重ねた、お互いの存在を確かめ合った。
 確かに、恋の嵐は知らぬ間に過ぎ去った。日常を重ねてゆくうちに、僕達は何かを失くした。情熱的な日々は落ち着いて、今じゃあお互いがなくてはならないくせに空気みたいだった。でもそれでも僕達の間には、静かで、揺るぎない愛が根付いているんだって思う。お互いに口に出来ないことは沢山ある。僕はNASAの機密事項は絶対に話せない。スタンだってそうだろう、彼は決してスマートフォンの中身を僕には見せなかった。でもそういう契約なのだ。僕達はお互いに秘密を抱えるっていう、そういう約束をしていた。僕達は宇宙の秘密を解き明かすって夢に向かっていたから、その契約は必要だった。
 だというのに、僕はやがて来るかもしれない曖昧な、恋愛と日常のグラデーションが続く日々を恐れていたのだった。ついさっきまでは、彼が口付けに応えてくれる前までは。
 僕はスタンなしには生きてゆけない。彼もそうだろう。そう自惚れてしまうくらいに、僕達はやっぱり思い合っているのだろう。それはキスの重さで分かった。言葉にしないでも、仕草一つで分かった。
 そうして僕達はソファに沈み込み、互いの肌を探り出す。
 スタンはもうスマートフォンを見ない。僕もラップトップを見ない。秘密の約束からは目を逸らして、夢から目を逸らして、今はお互いだけがここにあるように僕達は見つめ合っていた。
 そう、幼い頃に夢見た、そんな夢の傍らでお互いだけを見つめる時間を、僕達は今晩も贅沢にも過ごすのだ。嵐が去ったその時こそ、お互いがなくてはならない存在だってことを経験から知っているから。それくらい、僕達は長い時間を共に過ごしていたから。
 恋の嵐が過ぎ去っても、僕は彼を思っていた。それは彼だって変わらないだろう。そう思えるくらい、僕はスタンリー・スナイダーって男を愛していた。他の誰にも替えられないほど、僕はこの男を、熱心に口付けを施す男を愛していた。



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