符というものは決まりがあり、それを扱う術師の心ひとつで呪いにも祝いにもなる。自分ははたしてどうなのだろうか。並べた符を見ながら、茫漠と思う。
呪えば呪うだけ、無事では済まない。世界の道理というものは決してそれをゆるさない。因果応報ということばがあるように。
硯と筆を洗い、筆入れに仕舞う。机は相変わらず飴色で、天井の照明をも反射していた。
符をまとめ、赤い組紐で縦、横の四方を囲って軽く縛る。
外は雨が降っていた。中庭の池に、おおくの水滴が落ちては跳ねて、また沈んでいく。
来島に傘を貸してもらった。影子はいまだに姿を見せず、来島に聞いても「葬式の準備の手伝い」といっていた。それが真実なのか否かは今、問題ではない。
符をもち、紫垂月頼宗とともに宿を出る。
傘をばっと開き、2人肩を並べて歩いた。そして、ゆっくりと坂を下っていく。
傘は無論ひとり用の傘だし、たいして大きくもないのでどちらかの肩が濡れる。
二本貸してほしいと言えるほどこちらも図々しくはない。
となりを歩く彼の方が背が高いので、腕を胸のあたりまで上げて歩く。
反対の手で太刀をもち、袂には符が入っている。ずいぶん軽装だと思うけれど、なにかがあって身軽に動けなければ困る。
「主、傘をもつよ」
右手がふさがるのはあまりよくないだろう、という表情をしていた。
「ありがとうございます」
彼に傘を持ってもらった。少し上に傘がある。坂をくだりながら、坂道に時折のぞかせる野草を見おろした。
放射線状に広がった葉。おそらく、たんぽぽであろうその葉は、雨に打たれてもしっかりと根を下ろし、薄緑の茎を伸ばしていた。
ぬかるんだ土に足を取られないようにしながら歩いたためか、少し時間がかかったがおおむね、時間通りだった。
家の横にある神社はひっそりとしている。雨が降っているからか、赤さがより一層鈍く感じた。赤銅のようだとも。
「すみません」
雨音で聞こえないかと思ったが、しっかりと聞こえていたのか喪服の女はいつものように「おあがり」と招き入れた。
お太鼓に結んだ帯は白銀の糸で織られたように、暗がりの中でも輝いてみえた。
茶室に入り、三人そろって座る。
「符は、準備してあります」
女は赤いくちびるを緩めて、そう、といった。
「せっかくだから、その前にお茶を召し上がってはいかが? 茶道具を揃えてきたのよ」
「この件が無事、収束しましたら」
女はさほど残念がっていない様子で「残念」といった。
茶庭は雨に濡れ、植物はみな、下を向くように垂れていた。坂の野草とは違い、しとやかなように見える。
「植柾の家に招いてくださればいいから」
ふたりに、まるで言い聞かせるように女がまっすぐ見据えてくる。
「承知しています」
「……雨が降っているのねぇ」
琥珀色の目玉がぎょろりと茶庭を睨んだ。あごを引き、鋭い蛇のようなその視線。そのさきに宙に浮かんだ黒い幾何学模様の影がある。条件反射のように膝を立てようとしたが、喪服の袖に制された。
「……」
あれは植柾國雪——あの妖魔の一部だろう。
じり、じり、とブラウン管テレビの砂嵐のように蠢き、かたちを成しては萎む。よく見るとそれは虫だった。棒状の虫が大群をなして大きな模様になっている。
左手で太刀を探ろうとしたが、紫垂月頼宗のかすかな声で止まる。
「主、この女に任せてみよう」
女がいったい何者であるのか、見定めるにはよい機会かもしれない。
彼女は音もさせずに立ち上がり、視線を黒いものに定めたまま赤いくちびるを開いた。
「おまえ、本当に悪趣味。わたくしと旧知の仲とはいえ、覗き見はお行儀が悪くてよ」
——この女は妖魔と知る仲——。借りがあるといっていたのはでまかせではなかったらしい。
「ここまで嗅ぎつけておいて、手も出してこない。臆病なのも昔とおんなじ」
歌うように呟く女の声が、いつもより低い。
黒い幾何学模様はかたちをやはり保たないまま、縮んだり伸びたりしている。
「それじゃ……いただきます」
彼女の足が茶室から一歩出ると瞬く間に体がゆがみ、喪服が鱗になり——巨大な蛇になった。
青嵐の喉がふと、鳴る。——大蛇。胸中でつぶやく。
その白い蛇は同じく大きな口を開き、宙に溶けようとする幾何学模様をばくん、と一呑みした。
雨の粒が鱗を撫でて、落ちていく。
そのあとは、雨音だけが響いていた。
白い大蛇。琥珀色の目。くらい月夜に言葉を交わした、あの蛇神。
聡明で心優しい大蛇は、明らかに過去青嵐が交信し、はじめて信仰した存在そのものだった。
瞬きをも忘れて見入っていると、高らかな笑声が響きわかった。
「ああいい気味。あれの味はまったくおいしくはないけど、喰ってやった!」
喰ってやった、喰ってやったと蛇の姿で愉快そうに巨大な口を開けて笑っている。
「まだ本懐のご馳走は出ていないようだけれど、いいのかい。僕たちが仕留めても」
彼女は口を閉じ、赤い舌を一度ちらちらと覗かせた。
「いらないわ。だって不味いんですもの。それにわたくし妖魔の核は喰えないの。さっきのはあれの一部だったから喰ってやったけど」
「やはり」
場違いのように、震える声で吐き出した。
大蛇はぐるりと首を回し、青嵐を見下ろしている。
「やはり、あのときの……あなたは」
——私が捨てた神だ。
頭ではわかっていたはずの存在を目の当たりにし、動揺を隠せずにいる。そのことを彼女も、紫垂月頼宗も知っているのかもしれない。ここにいる人間は、青嵐ひとり。人間であるから、ひどく躊躇ってしまう。彼女の目も、彼の目もひどく冷静であった。
彼らの生きてきた道の、小指の爪ほどしか生きていない青嵐が惑うことも仕方ないことなのだということも、もしかすると知っているのかもしれない。
「さあ……どうだったかしらね。そんなことより早く植柾の屋敷に行きましょう」
彼女は低い声で笑いながら首をさげ、瞬きのうちに喪服を着た女に化けた。——化ける。彼女が人間に化けていたという事実を今さらながらに疑問を抱いた。
けれどここで押し問答したとして、なんの解決にもならない。
太刀をとり、茶室をでた。
雨はいまだ、降り続いていた。
傘をさしたが、行きとおなじように紫垂月頼宗が傘の持ち手を取った。
「まだ、揺らいでいるね」
「……ええ。すみません」
「あの蛇と、昔会ったことがあったんだ」
「私がまだ子どもだった頃のことです」
道すがら、語る。
——私とあの大蛇が出会ったのは、まだ学校に上がる前でした。5歳くらいでしたでしょうか。夜しか家から出られなかったので、いつものように夜の森や林を駆け回ったあと、砂浜を歩いていました。遠目で、でしたが、巨大な蛇が林から顔を覗かせていました。月のない夜でした。暗闇の中でゆっくりと体を動かしながら海へと入っていくのを見たのです。私は驚いて立ちすくんでいました。当時の私の背の何倍もある大きさの蛇はこちらに気付き、笑いかけました。いえ、笑ったように見えた、といった方が良いでしょうか。彼女はそのまま海に潜り、その夜はそれきり彼女を見ることはありませんでした。
その一週間後、彼女とまた出会いました。そして、語りかけてきました。「こんばんは。坊や」と。私は沖縄語なまりの言葉で返しました。「ユックィ、ウシャガンショチー」。そういったのを覚えています。
彼女はこちらの言葉をわかっているような、わかっていないような顔をしていました。
それから一週間に一度、彼女と私はちょっとした会話や、その週のできごとを話すようになりました。もっぱら、私が一方的に喋っていただけなのですけれど。
そして彼女から、大和言葉を教えてもらいました。彼女は「私は大和から来たのよ。おまえの祖先に招かれて、ここに来たの」そういっていました。私のような神は招かれなければ入れない、とも。そして、彼女からはたくさんのことを教えてもらいました。彼女たちのような神と交信する術、ヲシテ文献に見られる旧秀真文字、本州の歴史、言葉、文化……。霊的なものから今の流行り、廃りまで。文字は真似をして書き、覚えました。そしていつからか、文字を書く職業をしてみたいとさえ思うようになったのです。
月日は早々に流れ、私が十八歳になった頃、私が彼女に抱いているものは愛情でも親愛でもなく、信仰心と知りました。彼女がいったのです。「おまえたちが私を信仰してくれているから、この地にいられるのよ」と。このときはじめて、私は彼女が神であることへの矜持をずっと抱えていることを知りました。我々人類が神を招き、誠心誠意仕え、ここにいるものだと認知する。そうしなければ神たちは存在し得ないものに成り下がってしまう。あなたがたのような刀神は目に見え、触れられる。けれど名のない神は存在できなくなると、彼女はいっていました。招かれたのち、信仰するものがいなくなればその場に取り残され、土地を移すこともできない。人類が勝手に招いた後がそんな顛末になることなど、よくある話です。
そのよくある話のひとつが彼女と私でした。私は罪を犯し、罰のために彼女を捨てたのです。
そこまで語りおえ、くちびるを閉じ、目を伏せる。
「多くの時間をカミと過ごし、言葉を交わしてきました。私が、あれを捨てる前にせめて、さよならを言えていたら、こんなに自己嫌悪に陥ることもなかったでしょう」
紫垂月頼宗はゆっくり歩きながら、青嵐の言葉を聞いていた。相変わらず雨は降り続いている。
「君たちの道理と僕たちの道理はきっと違う。その言葉を言えなかったことが彼女にとって悪いことではないかもしれない。君がいうのは、人間側の道理だ」
「そう……ああ、そうですね。本当に、そうだ」
彼の言葉は正しかった。人間と神は元から違う。違うつくりだ。内も、外も。
「人間の道理は人間が作ったものだし、こちらの道理はこちらが作ったもの。なにも一緒くたにして苦しまなくてもいい」
「……はい。紫垂月殿」
不意に名前を呼びたくなり、紡ぐ。
彼はほんの少しくちびるの端を持ち上げ、ほほ笑んだ。
視線の先、茅葺き屋根の屋敷をみとめる。
坂を登りきり、門の前に立つ。玄関の先に赤い小さなものがひらりと動く。夕乃だった。雨が吹き入らないぎりぎりのところで、うずくまっている。
「わたくしはここまで」
「ええ。後ほど、招きいれます」
うなずき、足早に門を越える。袂に差し入れた符がこの地と共鳴した。問題なく、じわじわと侵食してくる。ここはやはり、妖魔のすみかだ。
夕乃は俯いて坐りこんでいた。膝をついて、彼女に声をかける。
「植柾夕乃さんですか」
「……」
答えはない。異様な気配に、あごを上げる。玄関の扉は開け放ったままだった。妙な静けさだった。人間の息遣いがまるでない。
「静かだね。人間の気配が全くといっていいほどない」
門の手前には、女が和傘をさして佇んでいる。
「夕乃さん」
失礼します、と声をかけ、少女のあごを持ち上げ、口もとに耳を近づけた。
呼吸音が薄い。細くやわらかい手首に指を当て、脈を測る。ひどく遅い速度だ。青嵐の表情は険しい。
「このままでは危ない」
「他に人間はいそうもない。どうする、主」
「救急車を……。いや」
この人気のなさ、雨音と紫垂月頼宗、青嵐の声しか響かない場所。知らず知らずのうちに眉間にしわが寄る。
忍ばせていたスマートフォンを取り出す。電源を入れても液晶は真っ黒なままだ。
——推測ではあるが、幾何学模様のそれが餌であった場合、呑み込んだ女がまさにここにいる。あえて呑み込ませたのならば、術中に嵌まったと言わざるを得ない。
「……身を切ってここに誘い込んだか」
だが、いずれにせよ三人がここにくることは確実だった。今日、そして今でなければならなかったのだろう。元から仕組まれた罠ならば。
「この子を見ていてください。彼女を招きいれます」
立ち上がり、門に向かう。彼女だけ時が止まったように動かず、傘を持ち、じっと佇んでいる。
「ウヮーチタバーリ」
傘で目元が見えず、赤いくちびるだけが際立つ。それが弧を描き、笑んだ。
「ふふふ。招いたわね。わたくしを、招いたわね」
彼女は傘を投げ捨て、喪服の裾を払いながら門を抜けた。
投げ捨てられた傘は地にふわりと舞い降り、ゆっくりとその場で回転する。
「招きましたとも。……気づいておいでか。この島、すべての人間が消えたことに」
頷く代わりに、琥珀色の目玉が屋敷を見つめた。懐かしいものを見ているような目だった。
玄関先にうずくまる夕乃と、その体を支えている紫垂月頼宗に駆け寄る。
「呼吸が浅くなっている」
彼はそういい、夕乃を見下ろした。凪鞘班のものであれば手を尽くせるかもしれないが、青嵐には理解の及ばない領域である。
時間がない。青嵐以外のすべての人間が消え去った今、元を斬らねば。太刀を握りしめる。
「……人間である私は消えていない。妖魔はあえて消さなかったのか、あるいは消すことができなかったのか」
考えていても仕方のないことである。今は動かねばならない。
「この子をお願いできますか。私は刀と符を持ちますので」
女を見上げる。うなずき、そっと夕乃をおぶった。上背があるのが幸いしたか。
「主。彼女、奥座敷といったね」
「ええ。おそらくそこに妖魔はいる。気配は遠いですが」
廊下に足を踏み入れる。先日のようなひどい不調はない。結界が機能しているのだろう。
「行きましょう」
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