千代里
2025-08-30 14:49:02
11851文字
Public リーブラ15話
 

リーブラの針は問う・15話・その22


 礼拝堂から漏れ出た不自然な光に気がついたのは、ルーシャンだけではなかった。
 ノエも、ヤルマルも、その場にいたほぼ全員が、夕暮れ時の薄闇を切り裂いた光を前にして、『何か』が動いたことを察した。もっとも、その意味をルーシャンほど正確に理解できた者はいなかっただろうが。
 とはいえ、機を見るに敏な者もいた。
『ノエ! オーバンが動いたぞ!』
 円月輪を周囲に展開し、騎兵たちを牽制していたオランロー。乱戦から一歩距離を置けていた分、状況を俯瞰できていた彼は、すぐさまこの凶行の首謀者の動きを掴み取っていた。
 リンクパール越しに伝えられた内容に、ノエもすぐさま片目でオーバンの姿を探す。
 徒党を組んで押し寄せる、隙のない騎兵の連続攻撃。彼らの猛攻をどうにか押し返していたノエは、今まで悠然と佇み様子を見守っていただけのオーバンが、礼拝堂へと歩き始めたのを捉えた。
「ノエさん!」
「分かっている。でも、この状況じゃ……!!」
 ミラベルに言われるまでもなく、そして恐らく声をかけた本人も気がついてはいるのだろう。
 オランローとヤルマルの攻撃で手傷を負わせ、ミラベルとノエの前衛組が礼拝堂近くまでやってきた騎兵の攻撃を必死に押し返しているのが現状だ。
 傷は負わせているものの、人数が多い分、彼らの消耗は少ない。逆に、こちらの消耗は激しい。故国を憂う勇士に過ぎない騎兵に剣を向けたくない、という気持ちの面での枷も少なからずあるのだろう。結果、不平等な戦力差は、ノエたちから自由を奪っていた。
 ノエたちの代わりに、オーバンの前に立ち塞がったのは礼拝堂の敷地を囲う柵だ。入り口にあたる場所はノエたちの乱戦の只中にあたるため、そこを避けるためには外周から侵入するしかない。
 だが、長らく放置され、劣化も進み、補修もされていなかった柵は、一つの望みを叶えるために何年間も雌伏の時を過ごしていた男を前にするには、あまりに脆い。
 老爺が腰から吊るした剣を振るうと、柵はあっという間に一部が壊れ、オーバンが進むための場所を作り出す。さながら、彼を迎え入れるかのように。
「待て!!」
 いつもの丁寧な言葉遣いをかなぐり捨て、ノエはオーバンに向かって駆け出そうとした。
「させるな!」
「ご隠居様をお守りしろ!!」
 だが、オーバンを護るためにすぐさま騎兵はノエを追う。剣を向けずとも、人の壁となった彼らに阻まれ、オーバンを引き止めるどころか彼のもとに駆け寄ることすら叶わない。
(さっきの光が何を意味するものかは分からない。だけど、あの中にはオデットがいるんだ……!)
 オーバンがオデットの元に辿り着いたらおしまいだ。かといって、自分に向かって振り下ろされる剣を無視するわけにもいかない。
 進退極まる。オーバンを阻めない無力さに、ノエが歯噛みしたときだった。
「待て、オーバン。……これ以上、お前の好き勝手させてたまるか」
 さながら礼拝堂の本来の主人のように進み続けていたオーバンの前に、影が立ちはだかる。
「そのような立っているのもやっとの体で何を言う。貴様の父親は、見苦しいという言葉を教えなかったのか?」
 ルーシャンだ。オーバンの侵入を嗅ぎつけ、これ以上進ませてはならないと仇敵の前に立ちはだかったのだ。
 先ほどまで治療を続けていたサルヒは、二人の対峙する場所から少し離れたところから、二人の様子を見守っていた。
 彼女の視線は、「行くな」と言っていた。そんな彼女の献身に報えなかいことを内心で侘びつつ、ルーシャンは彼女に防護の魔法をかけてから、オーバンの進路を阻んだ。
(格好つけて出てきたものの、ジジイと長く付き合ってやるつもりはない。サルヒはまだ本調子じゃない。本当なら、もっと治癒魔法をかけ続けないといけない状態だ)
 父の魔法を仇敵の手に渡さないこと。
 ルーシャンの未来を護るために、本気で立ち向かってくれたサルヒを助けること。
 どちらを優先するべきなのか、ルーシャンの中の天秤は今もぐらついている。
「立っているのもやっとかどうか、お前自身の手で試してみたらどうだ。部下をけしかけることしかできない老いぼれが」
 挑発しながら、ルーシャンは己の武器を構える。オーバンの道を塞ぐ直前に、サルヒが打ち飛ばした武器も拾ってきたのだ。幸い、武器そのものに致命的な傷はなかった。
「確かに、私は老いぼれだ。だが、半死人に負けるほど衰えたつもりはない」
 オーバンは、柵を切った剣をルーシャンへと向ける。ルーシャンと似た構えは、エレゼン族に古くから伝わる剣術の構えだ。
「さっきみたいに、不意打ちするつもりはないってか?」
「機工兵器は乱戦には向いていない。万が一、貴重な人質の頭でも撃ち抜こうものなら、この後の交渉が難航してしまうだろう。貴様も、あの青年もな」
 オーバンの視線が、一瞬、ノエへと映る。今も、数体の騎兵を押し切ろうと、盾で相手を殴りつけるようにして奮戦する彼の姿を。
……やっぱり、ノエたちをオデットへの交渉材料にするつもりだったか」
「使えるものは使う。実に単純で合理的な解だ。あの娘にとって、彼らが『大事な人物』であるほど、私にとっては好都合だった。彼らが十分に『使える』ことは、共にいた数日で十分分かったとも」
 オーバンの声に挑発の色はない。あるのは、事実を分析し続ける冷徹な視野だけだ。
「そして、それはお前もだ、ルーシャン」
「へえ、そいつは意外な評価だな。俺はお前に嫌われていると思っていたが? 人質とするには、あまりに危険が過ぎるとかなんとか言って、殺されるものかと思っていたぜ」
「確かに、無意味に私に歯向かう愚か者であるお前は、生かしておくには、少々目障りがすぎる……が」
 オーバンの瞳に、これまで見せてきた冷然とした気配が消える。代わりに浮かび上がったのは、
……これは、なんだ? まるで、どこかで見たことがあるような)
 数秒遅れて気がつく。その色は、今の今まで自分が瞳に滲ませていた色だ。
 ――復讐。
 誰かを憎み、妬み、否定するための炎が、そこにはあった。
 故国を救うという、英雄の如き一歩を踏み出すには似つかわしくない、あまりに濃い私情がオーバンの双眸に見え隠れする。
「あの愚か者の息子を使い、その娘を生贄にする。これほど奴にとって相応しい幕引きもないだろう」
……どういう意味だ。お前は、親父の魔法を掠め取って、自分の栄誉にしたかったから、親父を殺したんじゃないのか」
 返答はない。その動機はオーバンらしからぬものと、ルーシャンも薄々分かっていたので、驚きはなかった。
「だったら、お前はどうして親父を殺した。どうして、兄貴やら使用人やら、あの日エヴラール家にいるやつ全員を殺したんだ!!」
「それを聞いたところで、貴様の憎悪に変わりはあるまい。私がやつを殺した。それだけで貴様にとっては十分ではないのか」
――――っ」
 かつてのルーシャンならばそうだった。犯人が誰であり、父を殺した者の次なる目標が父の遺産と分かっただけで、動くには十分すぎる理由だったからだ。
 だが、今は少し違う。魔法の鍵が揃い、懸念の一つは解消された。そして、この数年間の中で、少なからずルーシャンはオーバンの人となりを知った。
 そして何より――たとえ相手が悪人であろうと、自分が長年気に入らないと思っていた相手であろうと、真正面から向き合おうとする青年と共にいた。
……たとえ、相手が自分の罪を認めたとしても、それでも『どうして』と問い続ける奴と長く付き合ってたもんでな。そいつに影響されちまったのかもしれない」
「それはまた、随分と無意味な問答をする者に感化されたものだな。いや、ある意味……それは似ていると言えるのやもしれぬ」
「似ている?」
「知れたこと。あの愚かな父親に、貴様もまた瓜二つということだ!」
 言葉と同時に、オーバンが切り込む。それに応じるため、痛みの残る腕で、ルーシャンは仇敵の剣を受け止めた。
 澄んだ剣戟とは裏腹に、睨み合う両者の顔は、強い決意が滲んでいる。
 ルーシャンの顔には、仇敵を今度こそ討ち果たさんとする決心。その隙間には、置き去りにしてきた過去への疑念がわずかに混じっていた。
 だが、オーバンの顔に浮かぶそれは、ルーシャンに向けられてはいない。
 目の前の男を通して、別の誰かを見てとったかのように、彼はどこか遠い先にあるものへの嫌悪を浮かべていた。
 
 ***
 
……うっ」
 自分の声に引っ張られるようにして、オデットは閉じていた瞼を開く。冷たく固いものに横たわった感覚が体に広がり、自分が横になっているのだと遅まきながら気がついた。
 頭がずきずきと鈍く痛む。横になったとき、どこかを打ったのか、膝や腕もじんじんと痛んだ。
「ここは……?」
 左右を見ると、じっとりと湿り気を帯びた岩壁が聳えている。洞窟の中のようにも思えるが、剥がれ落ちた岩壁の隙間から、整えられた白い石組みが見える。
 それだけを見れば、まるで古代に作られた遺跡が長い時を経て土砂の下に埋まったようにも見える。正面には、岩壁に覆われていない部分が白い表面を曝け出していた。
「扉……でしょうか」
 真っ暗の洞窟のはずなのに、なぜそれが扉と分かったのか。オデットは遅まきながら、岩の下から姿を見せている白い部分が、淡く発光していることに気がついた。
 だが、扉の先に何があるのかは皆目見当もつかない。
 そもそも、なぜ自分はこのような場所にいるのか。記憶を辿ると、瞼を閉じる直前の光景が蘇る。
 手元で輝いた鍵と、礼拝堂の壁に広がった魔紋。そして、ルーシャンの言葉。
 それらがつながり、オデットは背筋に冷たいものが流れ落ちるのを感じた。
「わたし、邪竜を倒す魔法があるところに来てしまったんですね」
 てっきり、魔法がある部屋に直接転送されるのかと思いきや、オデットは入り口に飛ばされたようだ。ならば、早々に踵を返して立ち去ろうと扉に背を向け、それが不可能であることをすぐ悟る。
「出口が……
 オデットが背を向けたのが、洞窟に埋もれた遺跡の扉のようなものだとしたら、振り返った先にあったのは正真正銘の白い壁だった。
 人工物の白い石ではない。微かに聞こえるのは、流れ落ちる水の音だろうか。駆け寄って、その壁に触れれば、白い壁の正体が氷だとすぐわかった。
 一朝一夕では作られない自然が生み出した、強固な白い壁。魔法を使って突き崩そうかとも考えたが、
「でも、もしここで魔法を使って、また魔紋が反応したら……
 先ほどは、この場に送られるだけで済んだ。だが、ルーシャンの説明が正しければ、こここそが邪竜討伐のための魔法が隠された場所のはずだ。ならば、下手な行動は、魔紋に命を捧げることに繋がりかねない。
 慎重に一度、深呼吸。意を決して、オデットは白い石造りの門へと駆け寄った。
 ルーシャンから預かった鍵を鍵穴に挿すと、扉はあっさりと開いた。両開きの重たそうな扉をゆっくりと開くと、
「ここは……研究室、でしょうか?」
 足を踏み入れた部屋は、一見少し変わった作りの礼拝堂にも思えた。
 真っ直ぐに伸びる一本の廊下。その両側には、礼拝堂ならば祈りを捧げる信者が座るベンチがあっただろう。しかし、代わりに、部屋のそこかしこには複雑な魔紋が彫られている。魔紋の中に所どころ見られる設置物は、魔力の結節点として使用するためか。
 ルーシャンの言葉が正しければ、ここは地下に広がった空間のはずだ。そのため、窓はないが、部屋の両側にクリスタルで作られたと思しき装置が並んでいるため、部屋全体はクリスタルの淡い光に包まれ、いっそ幻想的なほどに美しかった。
 ハルオーネ神の像の代わりのように、最奥部にも同様のクリスタルが据えられている。どこから採ってきたのだろうか、これほどに巨大な塊を見るのはオデットも初めてだ。
「クリスタルがこんなにもあるのは、ここから引き出すエーテルだけで魔法を動かすエーテルをまかなおうとしたから……なのでしょうか」
 これほどのクリスタルが蓄積したエーテルを制御するとなれば、やはり術者に負担がかかり、死は免れないだろう。だが、それでもなお、邪竜を倒すには出力が足りないと判断して、大地のエーテルを引き出すという結論に至ったのだろうか。
 床や天井にびっしりと広がった魔紋は、エヴラールという家が長らく積み重ねてきた研究の跡というよりは、血を吐くような苦悩と試行錯誤の末に、決死の思いで残した爪痕のように見えた。
 魔紋やクリスタルに覆われて見えづらくなっているが、見上げるほどに高い天井も、壁も、オデットが立つ床もその材質は入り口と同じ白い石を組み上げて作られたものだった。
 素材は大理石に似ているが、ひょっとしたら違うものかもしれない。精緻に積み上げられたそれらは、どこか非現実的で、これまでイシュガルドで見てきたどの建築物とも洋式が異なる。まるで、人が作ったものではないかのようにすら思えた。
 その俗世から離れたような作りのおかげか、クリスタルたちが居並ぶ不可思議な空間の見た目によるものか、ここは地下であるというはずなのに、地下独特の圧迫感はない。
 あるのはシンと静まり返った静謐な空気。ちょうど、皇都の礼拝堂を訪問したときのように、背筋を正したくなる静けさだ。オデットの命を奪う仕掛けがあると分かっているはずなのに、思わず背筋が伸びてしまう。
 しかし、今はのんびりと周囲の景色を眺めている場合ではない。
「わたしのお父さんや過去のルーシャンさんがここにきていたなら、きっと帰るための魔紋もあるはずです。早く戻らないと」
 残してきたノエたちの様子も気になるが、この場所にオデットがいるということ自体が危険そのものと言い換えてもいい。自ら、爆弾に火をつけにいったようなものだ。
……わたしは、イシュガルドの人たちのためには死ねない。そう分かったんです」
 薄情だとは思ったが、ノエも自分と同じ意見であると知れたのは嬉しかった。
 たとえ他の誰もがオデットに死んでくれと頼んでも、ただ一人ノエだけが否定してくれるのならば、それだけで自分の胸に消えない炎が灯ったような気がした。
 気持ちを整え、間違っても己のエーテルが放出されないように最大限意識して、中へと足を踏み入れる。クリスタルの淡い光と、空間を構築している白い石たちの優しい光のおかげで、周囲は奇妙なまでに明るく感じられた。
「まるで、建物全部に光の魔法がかけられているみたいです」
 照おかげで、灯りを生み出すために魔法を使う必要がないのは、今のオデットには有り難かった。
「知らない間に、わたしは、随分と自分の魔法に頼るようになっていたのですね」
 ノエと出会った頃は、何もできない己の無力さが悔しくて仕方がなかった。
 だから、魔法を扱えるように訓練を重ねた。そして、今では当たり前のように己の魔法を手足のように扱っている。だが、こうして自分の手元から魔法を引き剥がされると、残っているのは魔法が使えない小さな子供に過ぎないのだと思い知らされた。
「でも、あの頃のわたしとは違います。あの頃に比べれば、ずっと知識も増えましたから」
 呼吸を一つ置いて、オデットは慎重に辺りを見渡す。
 全体的に室内が発光している上に、魔紋が至る所にびっしりと描かれているので、転送魔紋だけを探すのは至難の業だろう。礼拝堂の魔紋と似たものがないか、隅から隅まで探そうかと考え、
……?」
 礼拝堂のように縦に長く四角い作り部屋。縦横無尽に広がる魔紋と、魔紋を支えるように随所に設置してあるクリスタルたち。その只中に、まるで通路を通せんぼするように、机が一つ置かれていた。どうして入ってすぐに気がつかなかったのかと思うほどに、それは均整のとれた空間の中において非常に目立っていた。
……なんでしょう、これ」
 部屋全体が魔法の控え室のように一定の調和を保っているのに対して、この机だけ居場所を間違えたかのような違和感を放っていた。作業用に持ち出したとしても、通路の真ん中に机を置く作業など思いつかない。
 歩み寄ったオデットは、気がつく。
 ――机の上に置かれた、一通の手紙。
 つまり、この机は作業用に置かれたまま放置されたのではなく、手紙がここにあると来訪者にすぐに気づいてもらうために置かれていたのだ。
「でも、誰が一体こんなところに?」
 今の状況すら一瞬頭から吹き飛び、オデットは机上の手紙を手に取る。
 封蝋に刻まれている家紋に、彼女はハッと息を呑んだ。
 だが、ここにこれがあるのはある意味当然かもしれない。乾き切った封蝋にきざまれた、本を開いたような意匠。それは、オデットが記憶を失う直前まで持っていた、家紋が刻まれた指輪にあったものと同じ意匠であった。
「私があの指輪を持っていたのは、きっとお母さんがわたしに渡してくれたからですよね」
 なら、母にそれを渡したのは、彼女を囲っていたエヴラール卿なのだろう。その推理を裏付けるように、裏返した封筒には『セレスタン・ド・エヴラール』と綴られている。
 名前を確認した同時に、紙が擦れる音が響く。何事かと思いきや、封筒をひっくり返したはずみで、封蝋が外れてしまったらしい。長い間この場所に放置されていて、封蝋の接着力が落ちてしまったのだろう。
 ばさばさと落ちた数枚の手紙。誰宛かもわからないそれを読むのに引け目を覚え、見ずに元に戻そうとした。
 だが。
『私のよき理解者 オディールへ』
 その名前を目にして、指先が止まった。
「これは……お父さんが、お母さんに宛てた手紙だったのですね」
 すでにこの世にいない母に宛てて、父が書いた手紙。そして書いた本人も、もう氷天に旅立った後だ。
 父が母へと残した手紙を、娘であるとはいえ覗き見ていいものか。
 躊躇は生まれたが、結局は好奇心が躊躇いを上回った。
 もしかしたら、この場所から出る方法を書いているかもしれない。そんな言い訳を心の中で唱えつつ、紙面に目を落とす。
『オディールよ。お前がこの地でこれを呼んでいるということは、私はお前に鍵を託したのだろう。それとも、お前の隣には私もいるのだろうか。それとも、私という男は、お前に邪竜を滅ぼすかどうかの決断を押し付けて逃げた、愚かな男であったのだろうか。お前の魔力を、鍵として登録した時と同じように』
 書き出しを読んで、オデットは悟る。
 エヴラール卿は、確かにオディールを鍵として選んだのだ。それは、自分の決断を先送りするためか、あるいは直視するのを避けるためだったようだ。
『お前は、私の葛藤をどちらも受け入れてくれた。
 一つは、魔法を起動するために、大地のエーテルすらも必要とするという矛盾。イシュガルドを救うためにイシュガルドの一部を――そこに生きる民の日常を犠牲にするという矛盾を、私は受け入れ難い欠点だと見做していた。だが、これを解決するには、これまでの研究にかけてきた時間の倍か、それ以上の時間を必要とするだろう。クリスタルを持ち込むのにも、限度がある』
「兄さんの話していたように、お父さんも魔法は完成品だとは思っていなかったのですね」
 だが、魔法としての機能は既に完成していた。その発動のために多少の欠陥があろうと、結果が齎されるならそれで良いと考える者もいるだろう。
『我が友オーバンがこの矛盾を聞いたなら、間違いなく一蹴していただろう。彼にとって、如何に早く邪竜ニーズヘッグをイシュガルドから消し去るかが、重要だろうからな。
 だが、私のこの葛藤に、お前は真摯に耳を傾けてくれた。
 私は、その優しさに浸っていたいと、束の間の夢を求めてしまった。お前は、私のわがままを聞き入れ、私から鍵を預かってくれた』
 その様子を見たわけでもないのに、オデットには見えたような気がした。どこかの屋敷の部屋の一角で、己の背負った責務に押し潰されそうな男に、そっと寄り添う母の姿が。
 それは、在りし日に、己の目指した正しさのあり方に悩んでいたノエに寄り添った自分に、少し似ているような気がした。
『私にとって、それは生まれた時から背負い続けていた肩の荷を下ろすも同然だった。私がお前に頼んだこととはいえ――感謝している、オディール。私の荷物を、預かってくれて』
 セレスタン・ド・エヴラールは、魔法を愛していた男だとルーシャンから聞いた。
 そんな彼であっても、一族の悲願でもある魔法の完成は、生涯を賭けたやりがいのある命題であると同時に、少なからぬ負担でもあったのだろう。
 なぜなら、それはただの魔法ではない。国の命運を賭けた一手となるかもしれないのだ。
 次代に正しい形で魔法を継承すること。
 研究の過程で、先人が積み上げてきた研究を守り続けること。
 ありとあらゆる不確定要素を抱えたまま、生まれた時から死ぬまで魔法のために歩み続け、その責任を鍵という形で継承していた当主。
 彼にとって、一時的とはいえ鍵を別の相手に託すことは、ようやく足を止めて休むことを許されたも同然だったというわけだ。
『だが、お前はここにきてしまっている。つまり、お前は魔法に接触するためにここに来たのだろう』
 感慨に耽っていたオデットは、不意に意識を現実に引き戻された。
『もし、私がそこにいないのなら、私はなんらかの理由で命を落としてしまったのだろうか。そして、私の悲願を叶えるためにお前はここに来たのだろうか。それとも、情けない私が、お前に決断を委ね、勇敢なお前は己の意思で邪竜を討つためにこの地に来たのだろうか。
 どちらにせよ、今ここで文字を綴っている私は言わねばならない。
 オディールよ。どうか考え直して欲しい』
……!」
 すでに、オデットは自分の命を捨てようなどとは考えていなかった。
 だが、まるで少し前までの自分に父から呼びかけられたような気がして、心の片隅がちくりと揺れる。
『オディールよ。私はお前に死んでほしくない。お前の命を使うために、私はお前にこの鍵を預けたわけではないのだ』
 扉を開くために使った鍵に、思わず手が伸びる。ぐっと握りしめた拳には、微かに震えが走った。
『お前がルーシャンを生かすために自分を犠牲にしようとしているのなら、なおさらだ。
 確かに私は、ルーシャンに死んでほしくないとお前に言った。それが、私が魔法を生み出した直後から胸に巣食っていた、もう一つの葛藤だった』
……やっぱり、そうだったのですね」
 領主として、領民の日常を捧げたくないという葛藤と同じところに、彼は父としての顔から、慈しんでいた養子の青年を守りたいという葛藤を抱えてしまった。
『手元に鍵があったら、いずれ私は使命感からルーシャンを差し出してしまうかもしれない。あれは、私を慕いすぎている。あれ自身が私の選択を拒むことはないだろう。だからこそ、私はお前に鍵を預けて、私自身から選択を遠ざけたのだ』
「お父さんはルーシャンさんを死なせたくなかった。……それが、答えだったのですね」
 そう思った瞬間、オデットは手紙を握る手に思わず力をこめてしまった。握られた部分に皺が寄っても、オデットは力を緩められなかった。
『私は、お前もルーシャンも失いたくない。イシュガルドを救い、邪竜ニーズヘッグを討伐するのは、確かに我らの一族の悲願だ。だが、私はお前たちを差し出す決心がつけられなかった。その決断の重荷をお前たちに押し付けるつもりもない。全ての責任は私が取る』
 オデットの唇が真一文字に引き結ばれる。力を入れすぎて、唇の端がかすかに震えた。
『だから、オディール。どうかお前はこの手紙を置いて、奥の魔紋から外に戻ってくれ。そこに私がいるのなら、隣にいる愚か者を引っ叩いて目を覚まさせてほしい。お前の役割は、そうではないだろうと』
 そうして、オディールの無事を願う言葉を結びの言葉として綴り、そこで手紙は終わっていた。
 オデットは手紙を握ったまま、何度か同じ文面を目で辿り、
……お父さんは、勝手です」
 力を込めるあまり、無意識に唇を噛んでしまったらしい。唇の端に、かすかに鉄錆びた味が広がった。
 エヴラール卿が、自分が庇護下に置いていたオディールの身を案じていたことも、養子であるルーシャンを死なせたくないと思っていたことも、手紙から十分に読み取れた。
 誰かを差し出す決心ができない愚かさのツケを、全て己に負わせて構わないとまで言っていた。
「でも、だったら……ルーシャンさんの気持ちはどうなるんですかっ」
 オディールは――オデットの母は、それでよかったかもしれない。
 自分の面倒を見てくれた男性に少しでも報いようと、彼の弱音を受け入れ、その苦悩を共に飲み込んだ。清廉とはいえない関係であっても、美談ではあるだろう。
 オデットの存在が文面に書いてなかったのは、彼にとって娘の存在は予想外だったからだろう。ならば、オディールとの関係は、恋人や愛人といえるほど甘やかな関係ではなかったのかもしれない。
 だが、今は自分が生まれた切っ掛けよりも、沸々と湧き上がる怒りの方が大きかった。
「あなたが信頼して、自分の後継者にするとまで言ったのに。いざその時が来たというのに、事情も知らされずに何もかもを取り上げられたルーシャンさんの気持ちを、あなたは一度でも考えたことがあるんですかっ!」
 ここでオデットが怒ってもどうしようもない。
 それでも、次から次へと生まれる憤りを隠すのは難しかった。
 父親は、善意からルーシャンに伝えなかったのかもしれない。家族だから、多少の秘密は許してもらえると思ったかもしれない。
 だが、善意であることも、血よりも濃い絆も、何をしてもいいという理由にはならない。
(確かに全てを話したら、ルーシャンさんは喜んでお父さんのために命を擲っていたかもしれませんが……でも、そのせいで、あの人はサルヒさんにも誰にも頼らずに、ずっと一人で抱え続けていた)
 己が背負い続けた年月を憐れむことを、ルーシャンは望まないだろう。そうわかっていてもなお、オデットは胸中に渦巻く不満を抑えきれなかった。
 二人きりで旅をしていた期間は、長くはなかった。だが、あの短くない時間の中で、オデットは不器用な男が腹のうちに抱えていた葛藤に何度も触れた。
 普段の陽気なルーシャンを知っているからこそ尚のこと、その内に抱えていた行き場のない想いを吐き出そうと彼が藻搔いているように見えた。
 父に選ばれなかったことの絶望を、オデットに八つ当たりという形でぶつけることもできず。オディールを羨んでも、恨むほどに苛烈にもなれない男に向けられた言葉が、たった一枚の手紙――しかもルーシャン本人に宛てたものではないなどというのは、あんまりではないか。
 少なくとも、エヴラール卿の思いを少しでも知っていれば、ルーシャンはもっと違う生き方もできただろうに。
……でも、もしそうだったら、わたしはルーシャンさんがお父さんの養子だとも知らなかった。兄さんたちも、ルーシャンさんに出会うことはなかった」
 それどころか、占星台にいた頃のオデットは、一度オーバンの手先によって拉致されている。そのときにルーシャンが彼らへと奇襲をかけなければ、記憶を奪われたオデットが逃げ出すこともできず、ノエとの出会いもなかっただろう。
 数奇な縁が巡り巡って今があると考えると、途方もない運命の糸が絡み合うのが見えたような気分になる。
「これは、全てが終わったらルーシャンさんに見せましょう。そのときは、わたしもちゃんとお父さんの話をルーシャンさんから聞かないと」
 この先のことを考え、一瞬硬直してしまった思考を動かす。オデットはすっかり皺のよってしまった手紙を丁寧に伸ばし、手早く畳んで封筒の中に入れた。
 ローブのポーチの中に封筒ごと折りたたんで仕舞ってから、改めて奥へと視線をやる。
 手紙には、奥の魔紋から帰るようにとあった。ならば、礼拝堂で見たような魔紋がそこにあるのだろう。
「早くここから出ないと」
 自分の命を奪うかもしれない魔法のすぐそばにいる。それは、まるで巨大な魔物の腹の中にいるような不安感をもたらした。だが、同時に、
(ここで、わたしが魔法を発動させれば……
 どうしたって胸によぎる、もしもの先の世界。なまじっか魔法の膝元にいるからこそ思い浮かべてしまう、可能性のその先にあるものに、一瞬足が挫けかけたときだった。
「無事だったか。……オフェリー」
――――!」
 その声に、オデットは振り返る。
 久しぶりに再会した時、そっけない態度を装うとして、でも隠しきれなかった声。
 目で見るまでもなく、そこに誰がいるかは分かる。
……お兄ちゃん?」
 視線の先、立っていたのは息を荒らげ、肩を揺らすミラベルだった。