シノハラ
2025-08-30 00:28:19
1968文字
Public アルカヴェ♀
 

月とナイフ

仲良しな後輩との関係が終わってしまった日の先輩のアルカヴェ♀

 足早に自室に戻り、押し込むようにドアを閉めるやいなやカーヴェはへたり込んでしまった。鍵を閉めていない自覚はあったが、指先が冷たいせいかなかなか腕を持ち上げて錠を触る気になれない。
 それでもなんとか鍵を閉めて、カーヴェはドアに背を付けて深く息を吸い込もうとする。喉に引っかかるものを感じて息苦しさを覚えながら何とか肺を膨らませ、吐き出す時に嗚咽が漏れ出し自分が泣いているのにようやく気がついた。
 慌てて目を擦るとアイラインとアイシャドウが指にこべりついて、薄暗い色の中にちかちかとラメが光を反射する。その仄暗いきらめきに息を呑んで、次の一呼吸でカーヴェは押し殺した癇癪に近い声を上げた。そのかたちの崩れた声は確かに自ら引き千切った片翼を示している。
 疲弊したカーヴェの手を取って、引き上げてほしかった。その道のりが厳しいものになると知っていてなお、やり遂げようと告げてほしかった。けれどあの子は、アルハイゼンは真逆の選択をして、カーヴェの主張には一切取り合わなかった。
 自分がもう少し無理して、アルハイゼンがいくらか追加で役割を持てば何とかなるはずだったのだ。頑張ればなんとでもなるはずだった。だって、カーヴェはずっとそうやって生きてきたのだから。
 まだ。まだ、諦める段階ではなかったはずなのに。
 それなのに、アルハイゼンはそうは思ってはくれなかった。最初からカーヴェの役割に物言いたげな顔をし、対処しなければならない雑務をこなすたびに小言を漏らす。だって、カーヴェがやらなければ回らないではないか。
 他の誰か、たとえばさっきまで目の前にいた人が請け負ってくれるのであればともかくとして。君は僕を少しも助けてくれなかったじゃないか、アルハイゼン。
 集団の中で自分と同じような働きをしようとしない彼を見て、隣にいた人が自分とは違うひとなのだとようやく気がついた。たとえ、本当の双子だったとしてもその精神は、人生は別だと言うのに、カーヴェは知らぬうちにアルハイゼンにそれ以上を求めていたのだ。
 そうしてようやく、平均値よりも高い背丈、目立ち始めた喉仏や腕の筋が示す性別、本人は直接顔を見た記憶もないらしい両親から引き継いだかんばせをカーヴェは見る事になった。こんな顔をしていただろうか、こんな声をしていただろうか。そう問いかける度に、自分の中に眠っている記憶が肯定した。
 振り返れば、アルハイゼンはずっとアルハイゼンだった。ただ、カーヴェが彼の正しい姿を認めず、幻想の中にいただけに過ぎない。
 その事実がカーヴェの記憶の中からカーヴェと同じかたちをしていた後輩を掻き消して、アルハイゼンその人を明確に描き直していく。そうして、カーヴェはようやくその人の持つ美しさに気がついた。
 その人はカーヴェとは違う人だ。容姿や性別が違えば、魂の形も異なる。何もかも違っていて、何一つとして同じではない。知っていたのに、何も分かろうとしていなかったのは他ならぬカーヴェである。
 そう理解して、カーヴェは彼に対して新しい、今までとは異なる魅力を覚えてしまった。その希求を何と呼ぶべきか決める勇気は今のカーヴェにはない。
 見ないふりも叶わぬほどの断絶の影が濃くなるに従って、どうしようもないほどに意識させられる。その声に乗る感情の色、眼差しの鋭さ、握りしめようとして意識的に緩められた指先。母から父を奪ってからカーヴェが長く恐れてきた、情熱を思わせるかたち。
 意見の相違を歩み寄りが見えない態度を憎らしく思う度に、アルハイゼンという人の有様を知らしめられる。自分は今まで何を見ていたのだろう。傍にいてくれる人を、カーヴェはずっと知らないままでいた。
 知らないままでいればこんな思いにはならなかった。時折愛憎という言葉が脳裏を過り、ぎゅっと瞼を落とし迷いを振り落とす。その頻度がまるで坂を転げ落ちるように早まっていく。
 ――堪えられない。もう少しも堪えられなかった。二人で積み上げてきた日々を悔恨に変えた瞬間、アルハイゼンが僅かに目を見開いたのが見えた。けれど、すぐにカーヴェが背を向けてしまったので、それが自分の願望であったのかすら分からない。
 アルハイゼンはカーヴェを追っては来なかった。きっと自分達はこれで終わりだろうと、今までの中でひときわ輝かしくきらめく数多の記憶を縋りつくように引き裂きながらカーヴェは蹲る。
 涙を流すせいでこめかみがじくじくと痛むのを感じながら、彼は少しでも傷ついただろうかと考える。もしそんなことがあるならばずっとずっと、消え切らない痛みになれば良いと思う。カーヴェがこうして青春そのものを変質させられて、まったく行き場のなくなってしまった思いを抱えざるを得なくなってしまったように。