ORANGE*AXE/小野美歓
2025-08-29 23:44:08
3715文字
Public 風花
 

夫婦と家族の話【ディミメル】

蒼月√クリア後。メルセデスが最初の子を妊娠中の、秋の日の話。短編再録集「CANDY BOX」収録。

 フェルディアの王宮の、奥まった位置にある庭園で。秋から冬に移り変わる彩りの中を、夫と二人でゆったりと歩きながら、メルセデスは苦笑を浮かべた。
「大修道院にいた頃、ドゥドゥーのことを『過保護』だって零していたけれど、あなたも人のことは言えないわね~?」
 隣で不安げな顔を見せながら妻に歩調を合わせるディミトリは、彼女の言葉に対して大層不満げに唇を尖らせた。
「お前の中に、俺たちの大切な家族が宿っているんだぞ。何もかもが初めてのことだし、心配になるのも当然だろう。身体を冷やしたらどうする」
「ふふ、あなたの気遣いはとても嬉しいわ。でも、もう少ししたら、本当に外には出られなくなりそうだから」
――それもそうだな」
 小さく息を吐き、ディミトリが空を見上げる。
 フォドラの冬は、ファーガスの北からやってくる。赤狼の節も末の方になれば雪の降る日が増え、やがて屋外の景色は白銀に染まる。今ですら気温は下がっているから、新たな命を宿した身重のメルセデスが庭園に出て清涼な空気に直に触れられるのはあと数日、といったところだった。
「家族……か」
 自分が大修道院にいた頃の話を持ち出し、彼が「家族」と口にしたからか。メルセデスの脳裏を懐かしい記憶がよぎっていった。あれはまだ、互いを級友と認識していた頃のことで。
「どうかしたか?」
 不意の呟きを、初めての出産への不安と感じたのかもしれない。問うてくるディミトリの声に気遣わしげな色が差す。本当に、心配性ね――からかいたくなる悪戯心を抑えながら、メルセデスは質問に答えた。
「あなたと二人で、お互いの家族の思い出話をしたのは、ちょうど今くらいの時期だったな~って思ったの」
「今くらい……士官学校時代のことか」
「ええ。あの時は、あなたにとってはとても大切な思い出だって認識があっただけで、まさか他の人たちには秘密にしていたほどの話だとは思わなかったのよね~」
 話題自体は他愛ない雑談の範囲を出ない、けれど当人にとっては宝物に等しい大切な記憶を、二人で懐かしみながら互いに話して聞かせた。その最初の機会が、士官学校に在籍していた頃のおよそ今くらいの時期だったのだ。
 ディミトリの方は王族ということもあって、個人的な情報は殆ど公にされているようなものだったから、メルセデスにとって初耳だったのは、単に自分が平民として暮らしていたから知らなかっただけだと思っていた。それから五年が経った後に、醜聞であるが故に秘匿されていたのだと級友達の前でディミトリが明かした時には、心底から驚いたものだ。
「お前は本当に不思議だよ。俺の家族の話も、生母のことだけ話せば済んだのに、気がついたら、それまで他人には話していなかったことを殆ど喋っていたんだ。まぁ……そういう些細な積み重ねの末に、お前と共に在る今があるわけだから、話して良かったんだがな」
 互いの身分があまりに違いすぎた。普通に暮らしていたなら、言葉を交わす機会すら容易に得られるものではない。それを可能にしたのは士官学校という場に同じ年に入学し、級友となった偶然だ。けれど結局はそれだけで、互いの存在を個人として認識し、級友として交流を持とうとも、その関係は卒業と共に終わるはずだったのだ。
「そうねぇ……私もあの頃は、まさかあなたが私の夫になるなんて、想像もしなかったわ~。相手が誰か、というより、結婚自体に夢も希望もなかったのよね」
 当時は、貴族に成り上がる野心を持つ養父の意向が全てで、卒業して早々に結婚できる相手との縁談も組まれていた。勿論そこに、メルセデス自身の意志は、欠片ほども含まれてはいなかった。
「私にとって大切に思う『家族の情景』は全部過去のもので、新しく作れるものだと思ったことがなかった。先のことは全部、私自身じゃない誰かに決められていて、私の人生は紋章を利用したい人たちの思惑に流されていくだけなんだって、諦めていたの」
 東部の教会で慎ましく暮らしていたのに、細やかな幸せは唐突に奪われ、望まない栄達へのしるべの役を強要された。養父は財産のある豪商であったから、物質的には豊かになったけれど、心は摩耗していくばかりだった。
 抗う気力もないままに魔道学院に入れられ、その次は士官学校へ。養父にしてみれば、貴族の花嫁とするための箔付けだったのだろう。――そこで二人の運命の歯車が噛み合い、回り出すなどとは、想像だにせずに。
「流されるままに入った士官学校だったけれど、あなたと出会ってたくさんのことを学んだわ。その中でも一番大きかったのは、自分の道は自分で選ぶ、ってことかしら。
 本当はね、千年祭の日に大修道院に行くこと、養父にはすごく反対されたのよ。あの頃の大修道院は廃墟になっていたし、帝国の兵がいるって話もあったから、危ないし、行くだけ無駄だって」
 思い出される情景は、メルセデスの裡に切なさを喚起する。実際に訪れたガルグ=マクの市街は噂通りに荒れ果て、人の気配が恐ろしくも感じられたものだ。
――そんなこと、分かってた。それでも、あなたに会える機会があるとしたら、千年祭の日しかないって思っていたから、反対を押し切ってアンと二人で出てきちゃったの。思えば、養父に真っ向から反抗したのは、あれが最初だったかしら」
「そうか……お前は、俺を信じていてくれたのか」
 滲むような歓喜を帯びた声が、ディミトリの唇から零れた。メルセデスがそっと彼に身を寄せることで、言葉によらず肯定すると、返すように肩を抱かれて。
「ありがとう、メルセデス。今の俺があるのも、その時お前が思い切ってくれたからなんだな」
「そうかもしれないわね。でも……だとしたら、お礼を言わなきゃいけないのは私の方だわ。だって、私に『諦めないこと』を教えてくれたのは、あなたなんだもの。今の私がこんなにも幸せなのは、やっぱりあなたのお陰なのよね~」
 愚直なまでに信念を貫き通す姿勢を、級友として間近で見ていたからこそ、感化されたメルセデスはあの日に自らの意志で行動することができた。帝国と戦う最前線は苦しいことも多かったが、戦火に喘ぐ民を救い、平穏な日々を取り戻せた。その中で紡いだ想いまでもが結実して、あまりに幸せすぎて未だに夢を見ているのかと思う程だ。
 肩を抱いて支えてくれる夫の、掌の温度と力強さが頼もしい。だからこそ、不安に思うこともあって。メルセデスはディミトリの顔を見上げて、問うた。
「ねえ、ディミトリ。あなたから貰っている分の幸せを、私はきちんと返せているかしら?」
 すると、ディミトリは一瞬驚いたように目を見開いた。けれどそれは、すぐに喜びの色を湛えて眇められた。
「心配しなくていい。俺は毎日、両手がいっぱいになるくらいの幸せを、お前から貰っているからな。今ですらそんな状態なのに、この子が生まれたら、この手から溢れて抱えきれなくなるんじゃないかと、少し怖くなるよ」
 繊細な硝子細工に触れるよりも優しく、厚手の服越しにも分かるように膨らんできた腹を、ディミトリがそっと撫でる。その無骨な手に自身のそれを重ねて、メルセデスは微笑み返した。
「それこそ、心配いらないわよ。その幸せは、あなた一人だけじゃなくて、私も一緒に抱えるものなんだから。私達は夫婦なんだし、大切な家族のことは、二人で……ね」
 これ以上はない程に寄り添いながら、メルセデスはディミトリの背に手を回して、身を預ける。お互いに支え合おうという意思表示に、ディミトリの面も笑み綻んだ。
「この子が生まれた後、春になったら落ち着くかな。そうしたら、三人で義母上にも会いに行こう」
「そうね。お母様もきっと喜んでくれるわ。でも……
「どうした?」
「事前に知らせるべきか、内緒にしておくか、悩むのよね~」
「驚かせたいのか?」
「ううん、そういうのじゃなくて……ほら、『国王陛下』よ、あなた」
「そういうお前は、『王后陛下』だな」
「そうなのよ~。だから、できるだけ周りに迷惑を掛けないようにするには、どうしたらいいのかしら、って考えちゃって」
「はは……まだ先の話だし、ゆっくり考えれば良いさ」
 そんな風に、他の誰にも届かない囁き声で、胸が温まる未来を語り合った後。ディミトリがやおらに、空を見上げた。東の方は僅かながら、夕暮れの色を帯びてきている。
「さあ、そろそろ日が傾いてきたぞ。身体を冷やしてしまう前に、中に入ろう」
「ええ、そうしましょうか」
 ぴったりと寄り添っていた身を離すと、ディミトリが手を差し出してきた。意図を察しながらも、メルセデスは敢えて自分の手を重ねることはせず、軽く掴んで引き寄せると、彼の掌にそっと口付けた。
「ありがとう、ディミトリ。我儘を聞いてくれて。……愛しているわ」
 今は背伸びができないから、せめてその手に、と思っての行為だったけれど。離した身体は再び引き寄せられて、「俺も、お前を愛している」と囁かれた後、唇に口付けが降ってきて……本当に、夢に見るよりも幸せだと、メルセデスは思った。