果南(カナン)
2025-07-11 22:01:34
4922文字
Public さめしし
 

夏風が運ぶ

さめしし。ワンドロのお題「虹」「気分」で書きました。夏の早朝の庭での、二人のお話です。
また一つ、幸せの形が増えた朝。
獅子神邸の庭にいろいろ夢を抱いているので、妄想を詰め込んでます…広い心で見てやってくださいm(_ _)m


 夏の盛りが近づく、ある日の早朝。
 休日にしては早い時間に、私は目覚めた。
 とはいえ、既にベッドの中にいるのは私ひとりになっている。健全で自らの体を維持することに余念のない獅子神は、よほどのことがない限り朝のジョギングを怠らない。これだけ早めに覚醒したなら或いはと思ったが、なるべく暑くならないうちに済ませたいのだろう、やはり今日も出かけてしまっていた。
 勿論、獅子神の努力は賞賛に値するし、私は彼のそんな生真面目なところも好ましく思っている。しかし、たまには二人で寝起きに脚を絡めあいながら、甘い会話と視線を交わし、だらだらと朝寝坊を楽しみたいとも思うのだった。
 仕方がないので二度寝しようかと思ったが、眠りの質が良かったのか、脳はもうしっかりと冴えてしまっている。遮光カーテンの端から漏れてくる光も、夏らしい明るさで起床を後押ししていた。
 ため息をついて、私は起き上がった。サイドテーブルから眼鏡を取り上げて掛け、スリッパを履いて寝室を出る。キッチンへ向かい、コップに水を汲んで一杯飲んだところで、違和感から部屋の中を見渡した。
 当然、リビングにも獅子神の姿はなかったが、テラスに出られる面のカーテンが半分開けられている。いつもには無いことで、ガラス戸から長く差し込む朝の光が、ソファーの傍のアレカヤシの葉を淡く輝かせていた。
 庭にいるのだろうか、と思った。何故かは分からないが、わざわざカーテンを開けているからにはそうなのだろう、と。
 私はコップを流しに置き、リビングを突っ切ると、ガラス戸を開けてテラスに出た。
 緑の生い茂る広い庭に、獅子神の姿を探す。直接視界に捉えることはできなかったが、微かにさあぁぁ、と水音が聞こえた。ホースの中を、水が走る音だ。テラスの端の下にはリールに巻かれたままのホースが置かれていたが、おそらく庭の奥のほうに別の水栓があるのだろう。
 どうやら獅子神は、早朝から律儀に庭の水遣りをしているらしい。
 少し迷ったが、行ってみることにした。
 テラスの端から庭用のサンダルを履いて降りて、土を踏んで歩いていく。まだ日の光もそこまで強くない頃合なのに、既に蒸し暑い空気が立ちこめていた。息づく緑が濃く、植物の横溢な生気に押し返されそうになる。夏物の薄いパジャマのままで出てきた自分がふと無防備に思えて、すっと心細さに似た気持ちが体の中を駆け抜けていった。
 すぐに水栓と、奥へと伸びるホースが見つかった。大きな木の幹を回り込んで、ホースを辿って歩いていく。
 植え込みの向こうに、獅子神の後ろ姿が見えた。
 私はほっとして、足を止めた。
 獅子神は先にジョギングに行ってきたらしく、薄いTシャツにハーフパンツという恰好で、首にはタオルをかけていた。汗で濡れたTシャツが体に張りついて、肩から背中への逞しい筋の輪郭を浮かび上がらせている。いつもは右側に流してきっちり整えられている髪も、軽く乱れたまましっとりと湿り気を帯びて見えた。
 ホースを構えて水を吹きかけている一画は、小さな畝が整えられ、幾本かの支柱も立てられていた。そこに巻き付くように緑が伸びて、勢いよく葉を広げている。獅子神の振り撒く水は霧のように小さな粒となって、それらの緑に降りそそぎ、辺りに舞い飛んでいた。
 夏の朝の光に照らされて、寛いだ様子で庭に立ち、緑の世話をする獅子神。
 その背中に近づこうとして、私は思わず息を呑んだ。

 ホースの向きが変わり、今までよりも高い位置に水が飛んだ。霧状の水滴がぶわりと広がって、きらきらと陽光を跳ね返す。
 いっそう眩しく、輝かしく金髪が揺れて。
 淡い七色の光の帯が、獅子神の頭上に生まれた。
 
 私は瞬きをするのも忘れて、眼前の光景に見入った。
 ——美しかった。
 一瞬の儚い虹が消えかけ、また現れて、獅子神を彩る。少し風が吹いても、水の向きが変わっても失われてしまう、本当に得難い偶然が重なったひと時。
 太陽の光が水滴による屈折で分かれ、反射して重なり合って現れる。ただそれだけの事として理屈は分かっていても、目を奪われる。

 彼に舞い降りた、虹の王冠。

……獅子神!」
 ぱっ、と彼がこちらを振り返った。
 水の向きが変わり、虹が消える。
 私はサンダルを引っかけた足で駆け出して、彼の体を抱きしめていた。舞い散った水滴がパジャマを濡らし、肌から気化熱を奪う。すっと首筋を冷感が撫でるのと同時に、体幹と腕は獅子神の熱をいっぱいに受け止めていた。
 汗ばんだ体から立ち昇る、獅子神の匂い。
 それは夜の熱い交わりを彷彿とさせながらも、朝の健全な光の中では全く異なる芳しさをもって、私の鼻腔を満たしていく。緑と水の匂いも入り混じって、膨れ上がって、かつてない感覚で脳の処理が飛びかけた。
 健やかで、愛おしくて。
 とても、幸せで。
「むっ、村雨⁉︎ ちょっ……濡れただろ⁉︎ 大丈夫か⁉︎」
 狼狽えた獅子神が、慌てて手元のスイッチを切り替えて水を止める。ホースを放り出し、私の体を受け止めながら、濡れ具合を確かめるように顔を覗き込んできた。
 戸惑う空色の瞳に、私は微笑み返す。
「平気だ。驚かせたのは私だからな。気にするな」
「いや、えーっと……そもそも、まだこんな早朝だぞ? 寝ててよかったのに」
「迷惑だったか」
「そういうことじゃ、ねぇけど」
「なら気にするな」
 もう一度言い放って、私は獅子神の額に口づけた。微かな汗の塩気をちろりと舐め取って、獅子神が水を遣っていた緑に眼を向ける。
 小さな畝に植えられているそれらは、ミニトマトや茄子、胡瓜といった夏野菜だった。まだ実が小さく、色づいていないものが多かったが、幾つかのミニトマトは鮮やかな赤を見せている。周囲には大小のプランタも置かれて、それぞれに異なる葉の植物が植えられていた。
「これの世話をしていたのか」
 私はしゃがんで、プランタのひとつに手を伸ばした。獅子神が遮ろうとする気配の無いことを確かめてから、小さな葉をちぎってみる。肉を焼いてくれる時によく使っている、馴染みのあるハーブの香りが漂った。
 隣で身を屈めながら、獅子神が頷いた。
「そ。普段は園田たちがやってくれてるんだけどな。今日と明日は、アイツら休みにしてっから」
 それが、珍しく連休を確保できた私と過ごすための対応だということは分かっていたので、私は何も言わずに話の先を促した。
「そろそろミニトマトが熟してきたし、今朝のサラダに使えっかなぁ、って考えながらぼーっとしてたら……急にお前が来たから、びっくりした」
「そうか」
「何で、もっと早く声かけなかったんだよ」
 軽く唇を尖らせた獅子神を、私はしゃがんだままの姿勢で見上げた。
 背中から朝の太陽を浴びて、光に透けた金髪がきらきらと輝いている。濡れたTシャツ越しに見える筋の張りが、艶めかしかった。
 先ほどの光景を思い出しながら、私はゆっくりと答えた。
……あなたに、見惚れていた」
「へ?」
「ホースで水を撒いていただろう。あれで水滴が広がって、あなたの頭上に虹が出ていた。それが……綺麗だった」
……
「私の恋人は何と健やかで美しく、見事なのだろうと思うと、誇らしかった。そんなあなたが私を愛してくれているのだと思うと、とても嬉しかった。だから……
「わ、わかったから! もういい!」
 獅子神が顔を真っ赤にして、私を遮ってきた。ぶんぶんと胸の前で両手を振って、数歩後ずさってしまう。
「ったくオメー、朝から照れもせずによく言うよな……さすがに恥ずかしいっつーの……
「朝でも夜でも関係なく、あなたのことは愛しているが」
「そーゆートコだよ、ったく」
 照れてぶっきらぼうな口調になってはいたが、顔は笑っていた。
 しゃーねぇなあ、と呟きながら、近づいて手を差し伸べてくれる。
「村雨」
……ん」
 大きな手につかまって、私は立ち上がった。
 今の空と同じ、澄んだ薄青色の瞳が、優しく私を見つめてくる。
「じゃあ、たまには早起きで外に出るのも悪くないって、そーゆーことでいいか? 先生?」
「そうだな。なかなか良い気分だ」
 獅子神は美しく、いつものように優しく、水に濡れた緑は清々しい。季節柄、気温と湿度が既になかなかの高さではあったが、獅子神の庭で一緒に過ごしているのだと思えば、うっすらと汗ばんでしまうこの暑さも心地よく思えた。
 ぱっと顔を綻ばせて、獅子神が嬉しそうに言葉を続けた。
「んじゃ、ついでに今日の朝食はテラスで食ってみる、てのはどうだ? 今の時間ならまだイケるし、バゲットサンドとサラダとかならすぐ作れるぜ?」
 うきうきと弾んだ口調で、形の良い唇から言葉が飛び出してくる。目を凝らせばぱたぱたと振られる尻尾も見えるのではないかというほどの、分かりやすい期待っぷりだった。

 きっと獅子神は獅子神で、まだ世の中が目覚めていない早朝に、私と二人で過ごすことを思い描いてくれていたのだろう。
 朝の爽やかな光の中、寄り添って見つめ合い、同じ一日を始められたことを共に喜んで、笑って踏み出していく——そんなひと時を。

 私は微笑んで、しっとりとした獅子神の頬に口づけた。
 汗と水滴で濡れた金髪を指で梳き、快活な青い瞳を見つめる。
「ああ、そうしよう。準備を頼む」
……いいのか? お前てっきり、外は暑いしまだ眠いって言うもんかと」
「あれだけあからさまに嬉しそうにしておいて何を言っている、マヌケ。いいから、するならさっさとしろ。それからバゲットサンドにはぜひ、厚切りのハムを入れてほしい」
「へーへー。仰せのままに」
 肩をすくめて、獅子神は放り出していたホースを片付けていく。水の元栓を閉めて戻ってくると、畝の間に踏み入って、赤くなったプチトマトを二つ、丁寧に千切り取った。
「んじゃ、戻るか」
「あぁ」
 私たちは並んで庭を歩き、テラスまで戻った。
 そこ座ってろよ、と獅子神に言われて、テラスの椅子に腰掛ける。日常的に使われ、掃除もされているらしく、埃も大きな汚れも見当たらなかった。私がいない時の獅子神は、ここから庭を眺めたりしているのかもしれない。そうして今日のような日が来るのを、待っていてくれたのかもしれない。
 そんな風に想像してみると、悪くない気分だった。

 私たちはまだお互いに、言い出せていないことが、きっといろいろある。
 その一つずつが——時には衝突を生むかもしれないとしても——私たちの幸せに結びついていくのだ。
 折にふれて、ゆっくりと。

「なーにニヤケてんだよ」
 目の前にガラス製のタンブラーを置いてくれながら、獅子神が言った。しゅわしゅわと泡を上げる炭酸水が満たされ、氷とミントの葉が浮いている。礼を言って口をつけると、仄かにレモンの味も漂った。
「何でもない。ただ、いい気分だなと思っていただけだ」
「そーかよ」
 獅子神の返しは短かったが、十分嬉しそうだった。
 続けて獅子神はガラス戸を大きく開けて、テラスの椅子をもう一脚持ち出してきた。すぐに出来るから、と言い残して、急ぎ足でキッチンへ入っていく。
 私は炭酸水のタンブラーを持ち上げながら、庭を眺め、振り返ってキッチンの獅子神を眺めた。Tシャツにハーフパンツの恰好のままで、手際良く朝食を誂えている獅子神を。
 ざくりと切られたバゲットに厚いハムとチーズが挟み込まれ、サラダボウルにみずみずしいレタスと胡瓜が盛られていく。沸いた薬罐の湯がコーヒーのドリッパーに注がれ、サラダの中央には先ほど収穫された、輝くルビーレッドのミニトマトが乗せられた。
 少しずつ高くなる太陽の光が、庭の緑を強めていく。吹き抜ける夏風が、開け放たれたガラス戸のカーテンを揺らす。
 水滴に濡れた私のパジャマも、もうすっかり乾こうとしている。私は少し懐かしい思いで、庭の奥で虹に彩られた獅子神の姿を、そっと瞼の裏に思い浮かべたのだった。