果南(カナン)
2025-06-13 22:47:34
4435文字
Public さめしし
 

晴夜

さめしし。ワンドロのお題「ねがいごと」「星」で書きました。
告白まで秒読み状態の、両片想いのさめ→←しし。お互いに揃って一歩を踏み出すお話です。
伝える言葉は、まっすぐに甘く。


「お前って、願い事とかしそうにないよな」
 キッチンに立つ獅子神が、唐突にそんなことを言ってきた。
 リビングの大きなテレビは音無しでニュース番組を映し出していて、七夕を控えて云々、といった類いの特集が先ほどから流れていた。そこからの連想だという事は察しがついたが、それにしては獅子神の口調には、ほの暗い諦めのようなものが含まれていると感じられた。
 ただの世間話の一環として、七夕の話でもしようという風情では無い。
……ねがいごと」
 私は小さく呟いてから、口の中のプリンを飲み込んだ。コーヒーのカップに手を伸ばして持ち上げながら、素早く考えを巡らせる。
 家族で初詣に行けば今年も皆が無事で過ごせますようにと祈りはするし、子供の頃には幼稚園や小学校で七夕の短冊を書いたこともある。だから、全く願い事をせずに生きてきたというわけでもないのだが、獅子神が言っているのはそれとは違うことなのだろうと思えた。
 もっと真剣に、縋るような思いで、捧げる気持ち。
 自分では如何ともし難いことを、天に委ね、願う。
 神頼み——あるいは、叶わないことを夢見る、というのが近いのかもしれなかった。
「確かに、あなたの言うような願い事はしたことがないかもしれない」
 私は慎重に口を開きながら、獅子神の様子を窺った。
 エプロンをつけて流し台の前に立ち、夕食の食器や鍋類を洗っている。夕食といっても、彼は私が訪れる前に既に自分の食事を済ませていて、だからこれは私のためのものだった。何かと口実をつけて一人で度々訪れるようになっている私を、最初の頃こそ訝しがっていたものの、今では獅子神も受け入れてくれている。彼らと共に過ごす時とはまた違った朗らかさ、穏やかさも見せてくれるようになってきていて、これなら全ての想いを詳らかにできる日も近いだろうと踏んでいた矢先のこの発言だった。
 獅子神が自分の中のわだかまりを語り、私と共有してくれようとしているのは、良い傾向だった。理解し、それを伝えることができれば、私たちはまた一歩近づくことができる。
 だから、私もなるべく正直に話さねばならないだろう。
 コーヒーをひと口飲み、言葉を選びながら、私は話を続けた。
「勉強も受験も……医師国家試験も、努力で達成できるものだったからな。周囲に理不尽なマヌケ共もいるにはいたが、関わらずにいればそれで済んだし、そうできるだけの環境が私にはあった」
……そうだよな」
 獅子神はため息混じりに言うと、泡のついたスポンジを置いた。
 蛇口から水を出し、流しの中の鍋を持ち上げる。ざぁぁっ、と流水がステンレスを打つ音が響いて、私と獅子神の間を遮った。
 わかりやすく眉根を寄せて、獅子神はざくざくと鍋や食器を洗っていく。
 その動作が済み、水音が止まるのを待ってから、私は再度口を開いた。
「だが、それは自分のことならば、という条件付きだ。他のことなら、私も天や星に願ったことはある」
「他のこと?」
「兄だ」
 あぁ、と獅子神は小さく息を漏らし、一気にすまなさそうな顔になった。
「お兄さん……お前の勤務先で、手術したんだっけか」
「担当してくれた先輩は優秀な医師だし、周囲のスタッフも勿論申し分なかった。それでも、医療に絶対など無いからな……手術室へ入る兄を見送った後は、祈ることしかできなかった」
 患者の身内が同じ術場にいては、術者の集中を妨げることになりかねない。だから私は手術室には立ち入らず、ひたすら自分の業務を片付けることに勤しんだ。
 そして術後の経過観察のために入室するICUで、まだ半覚醒の兄を出迎えた。夜はICU内のカンファレンス室で仮眠しながら、ふとした事で目覚めてはモニター画面のバイタルを凝視し、幾度となくドレーンの排液を確かめに行った。どんな辛い当直よりも長かったあの夜、私にできたのはただ願い、祈ることだけだった。
 どうか何事もなく、無事に回復に向かいますように、と。
 幸いにして兄が元気になった今でも、あの時の心の感触は私の中に残っている。
「だから、私も知っているつもりだ。自分ではどうしようもなく、天の配剤を願うしかない気持ちというものを……無論、あなたと同じようにとはいかないが」
……ん」
 獅子神は頷いてくれながら、タオルで濡れた手を拭いた。
 前屈みになってキッチンのカウンターに肘を置き、ため息をつく。
「悪かった。オメーに当たるような言い方しちまって」
「気にするな」
「ガキの頃、居場所のない夜は近くの河原に走っていってさ。電車や車の音を聞きながら、ずっと星を見てたんだ。ほら、流れ星に願い事を言えたら叶うって言うだろ? だから、ずっと空を探してて」
 話しながら獅子神は、目を伏せてうなだれた。
 表情が直に見えなくなり、言葉だけが続く。
「でも、腹いっぱい食いてぇとか、もっとマトモに暮らしてぇとか……オレの願い事って、そんなんばっかだったからさ。お前はそんなこと無いんだろうなって思ったら、つい」
「気にするなと言っているだろう、獅子神」
 私はテーブルの上のリモコンを手に取ると、無音でつけたままになっていたテレビを消した。
 コーヒーをもうひと口飲んで、立ち上がる。キッチンへ向かい、カウンターを挟んで獅子神の前に立った。
 肘をついて俯いていた獅子神が、顔を上げる。
 整えられた金髪が揺れ、澄んだ薄青色の瞳が私を捉えた。

 やはり、美しい。何度見ても、私を強く惹きつける。
 己が意志と努力でここまで自分を磨き上げた存在を、私は他に知らない。
 ——愛おしい。
 誰にも、渡したくない。

「あなたはもう、無力な子供ではない」
 できるだけゆっくりと、穏やかな口調になるよう気をつけながら、私は言った。
「自分の力で前に進み、これだけのものを築いた。そして今も、更なる目標に近づこうとし続けている。素晴らしい向上心だ。星への願いなどに頼らずとも、あなたはあなたを引き上げていける」
……でも、まだオメーには勝てねぇよ」
 獅子神はそう言うと、少し寂しそうに笑った。
「そりゃいつかは勝ってやるって考えてるし、勝ちてえよ。でも、そんな日が来るとも思えねぇ。なのに、こんな気持ち……お門違いもいいところだ」
「獅子神」
「どーせお前にはバレてんだろ。だから、愚痴くらい言わせろよ。かなうはずのない相手を、好きになっちまって……でも憐れみや施しなんかで、振り向いてほしくねぇ。そんなケチなプライドで、どうしようもなくなってんだ。笑えよ、村雨」
 自嘲に塗れた口調が、痛々しかった。
 どうしてこの男は、これほど厳しく、真っ直ぐに自分を見つめてしまうのだろう。
 同じ眼でこちらを見つめてくれれば、私の気持ちなどすぐにわかりそうなものなのだが。
「別に、笑ったりはしないが。マヌケなことは確かだな」
 思ったままを口にすると、獅子神は顔を歪めて私を睨みつけてきた。
 何か言いたそうなのを手で制して、先に言葉を継ぐ。
「賭事で私に敵わないのは当然としても、だ。なぜ想いが叶わないと決めつける? 私が何のために、足繁く此処へ通っていると思っているのだ」
 獅子神は瞬きを繰り返し、青い瞳を丸くした。
 それから、ぎこちなく口元を持ち上げて苦笑する。
……最初の一言、要らなくねぇか?」
「事実は、事実だからな。だが、あなたの努力を軽んじるつもりはないぞ」
 私は一歩前に出て、カウンターに両手をついた。
 軽く身を屈めて、獅子神の瞳を覗き込む。
 初めて近づいた距離だったが、獅子神は何も言わなかった。体を退くこともせずに、至近距離で私をじっと見つめ返してくる。
 自分の心拍数が、とくとくと上昇するのがわかった。
「あなたの優しさや素直さ、常に前向きな明るさ。何もかもが眩しく私を惹きつける。勿論、あなたの美味い料理も」
「お前、メシ食いたさで言ってんじゃねーだろうな?」
「あなたこそ臆病がらずに、ちゃんと私を見ろ。私は全てを正直に語っている」
……っ」
 きゅっと獅子神の瞳孔が窄まり、色を深めて揺れた。
 逸らすな、と視線に力を込めて、見つめ続ける。叶うなら今すぐにでも、手で触れて掴んで、逃げられないように捕まえてしまいたかった。
 だがそれでは、真に彼を得たことにはならない。
 一瞬の時間が、とても長く感じられた。
「村雨……
 やがて、震える唇が私を呼んだ。
 大きな手がカウンターの上で動きかけて、きゅっと握りしめられる。
「オレ、どうしようもないから……ガキの頃みたいに、星に願ったんだ。この気持ちを何とかしてくれ、って」
「願うなら、よく分からん宇宙の彼方で何億年も前に生まれた光よりも、今あなたの目の前にいる私に願え。あなたの欲するもののためには、その方が確実だろう?」
「あぁ……
 獅子神は小さく呻くと、まぶたを閉じた。
 長く息を吐き、それから目を開ける。そうしてこの話題になってから初めて、微笑んだ。

 薄青色の、綺麗な昼空の色の瞳で。
 軽やかに、ふわりと花開くように。

「じゃあ、言っていいか? オレの、ねがいごと」
「言ってみろ」
「ちゃんとお前の言葉で、聞かせてほしい。勘違いでぬか喜びとか、したくねぇから」
「構わんが、それならあなたも言ってほしい。直接聴きたいという点では、私も一緒だからな」
「ハハっ……
 今度は苦笑ではなく、楽しそうに獅子神は笑った。
 カウンターに手を置きなおし、前屈みになっていた体を起こして立つ。私も背筋を伸ばして、カウンター越しに正面から獅子神と向き合った。
「んじゃ、せーので言うか」
「受けて立とう」
「勝負じゃねぇって」
 視線を合わせれば、あとは簡単だった。獅子神の心拍、呼吸、しなやかな筋の動き。全てが私に、彼を伝えてくれる。掛け声などなくても、揃えるのは容易い。
 獅子神もそう思ってくれたのが、わかった。
 私たちの唇が、同時に動く。

「あなたが好きだ、獅子神。誰にも渡したくない。私の恋人になってほしい」
「お前のことが好きだよ、村雨」

 ——嬉しさと、愛おしさがこみ上げてきて。
 弾けるように、ふたりで笑った。
 やっぱ欲が強ぇよオメー、とおかしそうに言われて、唇を尖らせながら手を伸ばす。カウンターの向こうから伸ばされた、大きな手が受け止めた。
 少し汗ばんだ手のひらを合わせ、震える指を絡めて握る。互いに力を込めればすぐに落ち着いてきて、心地よく熱が溶け合っていった。
 ようやくこれが、現実になったのだ。
「もう、星などに願いを預けるな。あなたには私がいるのだからな」
……あぁ、そーだな」
 ありがとう、と囁かれて、こちらこそ、と返す。
 そうして私たちは、晴れてふたりの道を踏み出したのだった。