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果南(カナン)
2025-04-20 21:45:48
3658文字
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さかゆみ
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静謐の約束
まだつき合っているのかどうかよく分からない二人が、傷をあたためるお話。
事後です。
——
時々、アイツは痛みを堪えてることがある。
榊はその事実に、気づいていた。
暗い夜の底を覗き込むかのように、ひとり窓辺に佇んでいた神父服の背中が、ふわりと白髪を揺らめかせて振り返った時。
あるいは一夜を共にし、互いに熱を漲らせて高く駆け上がった後に、火照った体がようやく鎮まり眠りに就こうという頃。
なめらかな白い額に、わずかに影が差すことがある。
本当によく見なければ気づけないほどの、小さな皺が刻まれる。
特に季節の変わり目の、急に肌寒さを覚えるような頃合い。乱高下する気温が身体に疲労を蓄積し、心も戸惑い続けて切り替え時を見失う、そんな日に。
天堂がそうして、じっと耐えていることがあるのを、榊は気づいていた。
さすがに榊の目の前で、あからさまに古傷に手を遣るようなことはしない。だから、初めのうちは榊も何も言わなかった。
しかし、本当にその事実を隠したいのならば、天堂はもっと完璧にやり通すはずだった。それこそ、榊に片鱗すら掴ませないほどに。
つまり天堂は、榊に知られてもいいと思っている。
そうして、知った榊がどうするのかを眺めている。
今日もまた、そう結論づけるしかなくて、榊はため息をついた。
隣に並んで寝転がっている天堂の、整った横顔を見つめる。見えているのは、残った左側の眼球を包む瞼だ。並んで歩く時でも、こうして同衾する時でも、天堂は必ずと言っていいほど常に、榊の右側に自らを置いていた。
ぴくりと瞼が動き、長いまつ毛が震える。
額に落ちかかる白髪が、かすかに揺れた。
「
……
天堂?」
囁く声で、榊は呼びかける。
天堂は応じなかった。が、起きているのは明らかだ。
——
そして、今も痛みを堪えている。
小さな棘が突き刺さったような苛立ちを覚えて、榊は動く。右肘をつき、上体を半分だけ天堂のほうへ向けながら、軽く息を吸い込んだ。
「おい、天堂!」
もう一度呼ぶと、ようやく天堂は榊のほうを向いた。
「何だ、榊」
ぬばたまの黒い瞳が、榊を捉える。いつもと同じ色、落ち着いた光。
何でもないふうを装うその態度が、榊の勘に障った。わざわざ見せているくせに。それでもオレが気づかないと思っているのか。
「何だ、じゃねーよ。右眼の傷、痛むんだろ。どうして半端に隠そうとしてやがるんだ」
「
……
気づいていたか」
天堂が感心したような声を出したので、榊は顔をしかめた。
「よく言うぜ。お前が気づかせてンだろ」
「?」
「お前が本気で隠そうと思ったら、オレが気づくのは無理だろ。ってことは、お前が見せてるってことじゃねーか」
募る苛立ちのままに、榊は言葉をぶつける。また試されている、と思うと、どうしてもモヤモヤしたものが腹の底に溜まって、抑えきれなかった。
オレが、いくら心配したところで。
この神様は、せいぜい面白がるばかりだ。
問題を解き、答えを出した信者に、褒美を与え慈しむ。それが天堂のやり方で、オレは甘んじてそれを受けるしかない。
こうして体を重ねるようになっても、変わらない。
対等にはなれないのだと、思い知る。
「だいたい、お前は
……
」
さらに言いかけた榊へ向けて、天堂が軽く指を掲げる。紅く爪の塗られた指先が、榊の唇に触れた。
反射的に榊は、口を噤む。
「榊」
「
……
何だよ」
「いや
…………
そうだな。そうかもしれない」
天堂は呟くように言うと、小さく息を吐いた。
「
……
天堂?」
ため息のようにも取れるそれに、榊は眉をひそめる。
すると天堂は、おもむろに手を動かし、右眼を覆う眼帯を外した。
「
……
!」
窪んだ眼窩。
引き攣れて、周囲とは異なる色に変わり果てた皮膚。
滅多に晒されることのない傷痕を目の当たりにして、榊は息を呑んだ。
鍛えられ、隅々まで磨き上げられた、美しい天堂の体。そこに容赦なく刻まれた、敗北の証。
この体が血を吹き上げ、力を失って倒れるのを、かつて榊は己の目で見た。今では遠い昔のことのように思えても、あれは地続きの現実だったのだと、否応なしに思い出させられる。
——
痛くないわけがない、と思った。
こうして傷痕を見るだけのオレでさえ、胸に軋むような痛みを覚えるのだから。
息が、苦しくなるほどに。
「
……
榊」
わずかに、天堂が微笑んだ。
すっと白い髪が流れ、傷痕を抱えた顔が動く。
そうして裸の榊の胸に右の眼窩を押し当てると、天堂は切なげに息を吐いて、残った左眼を閉じた。
紅い爪先の指が、榊の腕を掴む。
「て、天堂?」
右肘だけで上体を斜めに支えていた榊は、バランスを失って仰向けに寝転がる。それでも天堂は顔を伏せたままで、潰れた眼窩をぴたりと榊の胸につけていた。
さらさらと、長い白髪が榊の肌を撫でた。
「ど、どーしたんだよ。そんなに痛むのか? だったら薬とか、何か」
「必要ない。少し、このままでいさせろ」
「でも」
「大丈夫だ
……
お前はあたたかいな、榊」
低く、落ち着いた声だった。
榊は何も言えずに、胸の上に伏せている天堂を見つめた。
そろそろと腕を回して、張りのある背中を撫でる。白髪の頭を包むように抱いて、自分も目を閉じた。
わからなかった。本当に天堂が痛みを感じているのかも、自分が何をしてやれるのかも。
ただ、愛おしかった。
たとえ痛いフリだとしても、コイツがこんなことをしてみせるのは、きっとオレにだけだ。あのギャンブラーの友人達にも、他の信者にも、こんな甘え方はできないだろう。
オレが、あの時、天堂を見ていたから。
そして、今
——
「そうだ、榊」
まだ顔を見せないままで、天堂が言った。
「お前は、私が痛みを抱えていると思っている。その痛みを感じ、何とかしたいと思っている。それが、お前の優しさで
……
だからきっと、私もこうしているのだろうな」
「いや、オレは
……
」
「無理に言葉にする必要はない。ただ、己が神の声を聞けばよい」
そう言うと天堂は、ゆっくりと榊の胸から顔を起こした。
乱れた白髪が流れ、潰れた眼窩を半分覆う。
残った左眼を細めて、天堂は微笑んだ。
「お前は私を見ているだろう。私も、お前を見ている。自信を持て、榊」
「天堂」
どくん、と自分の胸が鳴る音を、榊は聞いた。
このわかりにくい神様は、それでもオレを、近くに置いている。
オレに、見せようとしている。
オレは
——
それを受け止めていいのだ。きっと。
「
……
榊」
するりと天堂が両手を伸ばしてきた。細い指が、榊の頬を包む。
伏せられた長いまつ毛に見惚れているうちに、紅い唇が重ねられた。やわらかく、二度、三度。
「ん
……
っ」
「ふふ
……
」
遅れて榊が応じると、嬉しそうに天堂は笑みを漏らした。開いた唇の間から、温かい舌が入り込んで絡み合う。節の目立つ榊の指が白く長い髪を引き寄せ、返すように天堂の紅い爪先が、榊の耳朶を撫でた。
触れ合う肌が、熱を持つ。
満たされては、求める。幾度も、また。
「
……
お前の傷も、神があたためてやろう」
何度目かに唇を離した後で、天堂はそう言った。
赤くなった頬を、榊はかすかに歪める。
「オレは、傷なんか」
「あるだろう? この奥に」
とん、と天堂の指先が、榊の胸を突いた。
「
……
っ」
「お前はそれを語ろうとしないが、神は分かっている。お前の抱える、悔恨も、空洞も」
「天堂」
「同じだ、榊。お前がそれを見つめ続ける限り、神は寄り添おう。敬虔な信者を導くのは、神の役目だからな」
やわらかく、慈愛に満ちた眼で、天堂は微笑んだ。
うっすらと朱を這わせた頬が、榊にすり寄せられる。その頭を囲うように抱きしめて、榊は囁いた。
「じゃあ
……
触れてくれ」
「ふふ、いいぞ。どちらにだ?」
「どっちもだよ。わかってンだろ」
心も。体も。
お前があたためてくれると言うのなら。
きっとオレも、同じようにしてやれる。お前のために、できることがある。
自分たちはそうして少しずつ寄り添っていくしかないのだろう、と榊は思った。癒せない傷を抱えたまま、それでも生きて、進んでいく。
その果てに見えるものが何なのか、今はまだわからないけれど。
少なくとも隣には、この男がいるのだ。
「
……
よかろう。来い、榊」
甘やかな声で、天堂が招く。榊の逡巡を見通し、定まった心を歓ぶ声だった。
無言のままで榊は動く。逞しく美しい体を組み敷き、白い髪を掬って。雪のようなひと房に口づけながら、まっすぐに神の隻眼を見つめる。
それで天堂には伝わると、知っていた。
「まったく
……
お前は愛らしいな」
笑みを深めた天堂が、黒髪の頭を引き寄せた。逆らわずに榊は、紅い唇を捉えて口づける。
重なるふたりの体が、熱を帯びる。心は夜の深いところで、痛みと共に溶け合っていった。
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