果南(カナン)
2025-04-19 02:10:20
4927文字
Public さめしし
 

抱懐

さめしし。ワンドロのお題「肌」「ハンバーグ」で書きました。両片想いのさめししで、じわっと距離を詰めているさめ先生と、本能で何となく気づいているししさん。
隣に立ってみたかったし、同じように触れてみたかった。(初出:2025/04/18)




 手に軽く油を馴染ませて、白いバットに並ぶ肉だねを持ち上げる。熱したフライパンの上に慎重に運んで、小判型の成形を崩さないようにそっと置く。じゅうじゅう、と肉が焼ける以外の何ものでもない音が、すぐにキッチンに満ちていった。
 今日の夕食は、ハンバーグだ。仕込みは昼のうちにして、つけ合わせも既に仕上げ済み。村雨が午前中にメッセージを寄越してくれたので、余裕を持って準備ができた。
『今夜は、あなたの家に行っても良いだろうか』
 見慣れてしまった、お馴染みのフレーズ。
 誰か一緒なのか、と問えば、いや私だけだ、と返ってくる。それでオレは、その後で他の三人から訪問を打診されても、今日はちょっとゴメンな、と何となく断るようになっていた。
 雑用係の二人を早めに帰し、仕事を終えてやって来る村雨を迎えて、夕食の支度をする。今日もそんな具合で進めていると、ジャケットを脱いで手を洗った村雨が、こちらに歩み寄ってきた。
「ハンバーグだな」
 換気扇はもちろん回しているけれど、村雨の嗅覚(と肉に対する執着)がこの匂いを間違えるはずもない。じゅうじゅうと音を立て、焼けていく肉だねの色を確認しながら、オレは視線を上げた。
「そ。つけ合わせはブロッコリーとプチトマトな。人参のグラッセと粉吹き芋も作ってるけど」
「悪くない」
 微笑みを浮かべて、村雨が言う。十分に嬉しそうな声だった。
 マヌケだの何だのと普段から口は悪いし、相手を追い詰めるとなれば本当に手厳しいが、一方でこういう時の村雨は、実に素直だ。それは、オレも分かるようになってきていた。
 最近の村雨は、よくこうして一人でウチにやって来る。
 理由は様々だ。実家からの貰い物が余った(御中元ぽい佃煮の詰め合わせを箱ごと持ってきた)とか、先日の食事の礼だ(有名店のプリンとフルーツゼリーで、プリンは村雨が食べていった)とか。もっとシンプルに、あなたの料理が食べたい、と言って訪れることも度々ある。
 そういう時の村雨は、皆と——真経津や叶や天堂も交えて——一緒にいる時よりも、リラックスしているように見えた。アイツらと丁々発止でやり合うのも楽しんではいるのだろうが、何といっても全員が負けず嫌いの強者だから、時として凄いコトになったりする。その点、無駄に争いが発生しないオレと居るのは、気が楽なのだろう。
 ナメられている、と言えば、そうなのかもしれない。
 でもオレは、村雨と二人で居る時の雰囲気が気に入っていた。賭場では化け物みたいに強くて、現実でも医者として戦っているコイツが、オレの家で羽を休めるみたいに寛いでいる。あれこれ我儘を言って、叶えられると素直に嬉しそうにして、オレの作った料理を美味そうに食っていく。そんな様子は、可愛くすらあった。
 今も村雨は、キッチンカウンターの向こう側に立ったまま、フライパンの中を熱心に見つめていた。よほどハンバーグが待ち遠しいのか、焼けていく様子が興味深いのか、その両方なのか。好奇心旺盛なヤツだから、案外後者なのかもしれなかった。
 フライパンに接する面のほうから、ハンバーグの色が変わってくる。軽くフライ返しを差し入れて、焦げついていないことを確認する。感触からして、いい具合に焼き色もついていそうだった。
「ひっくり返すのか?」
 村雨が訪ねてきたので、頷いた。
「そうだな。それから火を弱めて、蓋をして……あと七、八分くらいで焼けると思うぜ」
「私がやってみてもいいだろうか」
「お前が?」
 オレはびっくりしたが、村雨は真面目な顔で頷いた。
「やったことあるか? ハンバーグひっくり返すの」
「無いな。手術で肝臓や脾臓なら脱転しているが」
……いや、わからねぇって」
 思わずツッコミながら、考えた。
 まあ、ハンバーグの下にフライ返しをそっと入れて、裏に返すだけだ。村雨は元々器用だし、慎重だし、肉を大事にしたい気持ちは人一倍強いはず。問題ないだろう。
「いいぜ。じゃあこっち来いよ」
 こくりと頷いて、村雨はキッチンに入ってきた。
 ハンバーグは全部で三個ある。まずはオレがフライ返しを握って、いちばん焼けていそうな奥のやつをひっくり返してみせた。じゅわっと新たに肉が焼けていく音がして、滲み出た油がぱちぱちと跳ねる。焦げたカスを避け、フライパンの中で位置を整えてから、村雨にフライ返しを渡した。
「ゆっくりでいいからな」
「わかった」
 フライパンの柄は、オレが持っておくことにした。そのまま立ち位置をずらし、フライパンの前を村雨に譲る。
 コンロの前で、二人で並んで立っている格好になった。ぶつからないように少し体を斜めにして、腕を伸ばしてフライパンを支える。
 しょっちゅうウチに来ているとはいえ、村雨とこんなに近づくのは珍しい。ふざけた勢いでじゃれついてくる叶や、時々すっと懐に入り込んでくる真経津とは違って、村雨は(天堂もだが)無闇に人との距離を詰めたりしない。だから、こうして肩が触れそうなほど傍にいる機会は、滅多になかった。
 買い出しや試合の帰りなら、並んで歩いたことはある。
 でも、今はオレの家で。キッチンで、互いにじっと立っていて。
 そう思うと、途端に落ち着かない気分になった。
 意味もなく、心臓が騒ぎだす。フライパンの柄を握る手に、不自然な力が入る。
 鎮まれ、と焦って自分の体に言い聞かせた。いま隣にいるのは、村雨だ。ちょっとした動悸や体の緊張だって、全部見破られて、読み取られてしまう。そうしたら何を言われることか。
 ——でも村雨は、特に何も言わなかった。
 左手でフライ返しを持ち、すっとフライパンに滑らせる。二つ目のハンバーグの下に差し入れると、難なく返して、フライパンの上に戻した。元あった位置から、ほとんど変わっていない。
……上手いじゃねーか。やっぱ、器用だな」
「ふふ」
 つい感心すると、得意げな笑いが返ってきた。残った最後のハンバーグに、村雨がフライ返しを向ける。
 と、その時。
 バチっ、と大きめの音がして、村雨の腕がびくりと揺れた。フライ返しが手から離れ、フライパンの上で弾んでコンロの奥へ転がり出る。
……っ!」
 油が、跳ねたのだ。
 村雨が顔をしかめて、左の親指のつけ根あたりを右手で押さえる。オレは反射的に火を止めながら、その村雨の左手を掴んで、流しの方へ引っぱった。
「ししが——
「バカ! 早く冷やせ!」
 有無を言わさず蛇口の下に持って行き、ざぁっと水を出す。勢いが良すぎてびしゃっと水が飛び散り、オレのニットも村雨のシャツの袖も一気に濡れた。慌てて水量を調節して、手を打たせていられる程度の強さにする。
 流しの前に二人で立ち尽くして、さあさあと流れる冷たい水の下で、ただ村雨の左手を掴んでいた。
 いつも色白の肌がさらに白く見えて、爪も心なしか青っぽい。でも、火傷はとにかく冷やすのが一番だ。安易に妥協せず、もう手が冷え切ったと思えるくらいまで、このままでいる方がいい。
 でないと——
……獅子神」
 低い声で、村雨がオレを呼んだ。
 当たり前だけど近くで聞こえて、どきりとする。
「む、村雨」
「もう大丈夫だ。この程度の火傷なら、大したことはない」
「でも、お前」
「忘れたのか。私は、医者だぞ」
 可笑しそうに、村雨が言った。細めた深紅の瞳でオレを見て、口元には微笑みを浮かべて。
「あ……
 呆然として、力が抜ける。
 村雨はおもむろに手を引くと、蛇口の水を止めた。濡れた左手を眼前に翳して、親指のつけ根あたりをじっと見つめる。
「ふむ。問題ないな。多少赤みはあるが、すぐ引くだろう」
……痛くないのか」
「少しぴりっとする程度だな」
「ごめんな、村雨。オレ……
 何から言えばいいのかわからなくて、言葉に詰まった。
 村雨をフライパンに近づける前に、いったん火を止めていれば。あるいは村雨の申し出をやんわり断ってでも全部オレがやっていれば、村雨にケガをさせることはなかったはずだった。いくら軽い火傷で済んだとはいえ、自分のテリトリー内で守りきれなかったという後味の悪さは拭えない。
 オレがうなだれていると、村雨はタオルで手を拭いてから、ふっと笑った。
「そんなに、私のことを心配してくれているのか」
「そりゃそうだろ……
「安心しろ、獅子神」
 すっと左手が、眼前に差し出された。
 色白のなめらかな肌が、目に眩しい。その親指のつけ根あたりに、よく見なければわからないほどの薄さで、淡く紅い痕が見てとれた。
「おそらく、明日にはもう消えている。手の機能に影響を及ぼすような火傷では全く無い。だから、それ以上気に病むな」
……ん」
 頷いたが、まだ村雨の手は差し出されたままだった。
 器用でしなやかな指の、美しさ。細やかな肌理。
 こくりと、生唾を呑み込む。

 ——自然に、体が動いた。
 両手でそっと、村雨の左手を包む。しばらく水に打たれていた手は、まだひんやりとして感じられた。
 火傷には触れないようにしながら、軽く手を握る。肌と肌が触れあう部分が増え、より明瞭に村雨の体温が伝わってきた。冷たく思えたそれが、次第にあたたまっていく。オレの体温と、同じになっていく。

 まだこうしていたい、と思った。
 心地良くて、安心する。この細い指、なめらかな肌を包んでいるのはオレなのに、オレのほうが包まれているような気がしてしまう。
 
 村雨が、全ての眼でオレを見てくれているから。
 何も言わず、ただ優しく。
 オレのするままに、任せて。

「ごめんな。村雨」
 もう一度そう言ってから、手を離した。
 村雨が、小さく首を横に振る。
「それ以上気に病むな、と言っただろう」
「そうだけど」
 手を握ったことは気にしていないのか、と表情を窺ったけれど、村雨がそう簡単に心の内を表に出すはずもなかった。
 諦めて、ため息をつく。
 村雨がちらりとオレを見てから、キッチンを見回した。
……私のほうこそ、調理器具を取り落としてしまってすまなかったな。調理台も汚してしまった」
「いいって、そんなの。すぐ掃除できるし」
「先に着替えてきても良いだろうか。結構濡れてしまったので」
「あー……じゃあ、ついでに風呂入るか? どーせお前、泊まっていくつもりだっただろ? 着替えはゲストルームに出してるし、お前があがってくるのに合わせて、ハンバーグ焼いとく」
「そうだな。では、そうさせて貰おう」
 村雨は身を翻すと、すたすたとキッチンを出た。
 リビングの扉へ向かいながら、ふとこちらを振り向く。
「そういえば、獅子神」
「ん?」
「私は嫌なことであれば、はっきりと嫌だと言っている。あなたも、よく知っているだろう……だからそれ以上、気に病むな」
……え?」
 急いでカウンターから身を乗り出したが、村雨は深紅の瞳を光らせてにやりと笑うと、そのままリビングを出て行ってしまった。
 ぱたん、とドアの閉まる音が響く。
「え、あ……?」
 オレは軽く混乱した状態で、キッチンのカウンターに手をついたまま、閉まった扉を見つめた。
 嫌なことなら嫌だと言っている、って。
 でも、村雨は何も、そんなことは言わなくて。
 ——それは。
「嘘だろ……?」
 遅れて何かを理解した心臓が、どくどくと速い脈を打ち始める。あっという間に胸が、手が熱くなって、顔も勝手に火照ってきた。頭の中では何度も、村雨の台詞がこだまする。
 とにかく、ハンバーグを焼かなくては。
 すべては、それから。オレがきちんと料理を仕上げて、村雨がそれを食べ終えてからだ。
 ぺちん、と熱くなった頬を両手で叩いてから、深呼吸をする。村雨が落としてしまったフライ返しを拾って、一度流しで丁寧に洗った。
 コンロの火をつけて、フライパンに向かい合う。すぐにじゅうじゅうと肉の焼ける音がして、良い匂いが立ち昇り始める。でもその全てが、どこか夢の向こうの事のように感じられた。