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果南(カナン)
2025-02-18 22:32:22
9035文字
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さかゆみ
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白雪に紅唇
さかゆみ。何かが芽生えはじめた二人が、一緒にお餅を食べるお話です。前に書いたクリスマスの話からふんわり続いています。
さかきさんが、おばあちゃんっ子だったらいいなぁ~という妄想が入ってます。
家庭内のごたごたがあって、幼い頃は祖父母の家に預けられて育ったみたいな感じで。好物があんこと抹茶で、趣味は実力低いけど将棋、対人能力高い、ていうのがその辺りから来てたりしないかなぁと夢見ています。
『餅を焼いてほしい』
天堂からそうメッセージが届いたのは、榊が食堂で遅めの昼食を詰め込んでいた時のことだった。
既に正月は遠ざかり、鏡開きの日も過ぎ去って、残り僅かな一月が粛々と消えていこうとしている。何で今頃、と顔をしかめながらその旨を打ち返すと、テーブルの上に放ったスマートフォンの画面に、すぐに返信が現れた。
『幼子らの愛らしき真心だ』
つまり、近隣の幼稚園だか保育園だかで餅つきの行事が行われ、地域の親交の一環として天堂もそれに参加し、子供たちから餅を振る舞われたということらしい。相変わらずの遠回しで簡潔な表現ではあったが、その意図するところを不便なく汲み取れるほどには、榊も天堂の口ぶりに慣れてきていた。
とりあえず、天堂が自分で焼いたり煮たりを試みなかったのは良かった、と榊は内心で胸を撫で下ろした。食べ物の味にうるさいわりに、自らの料理の腕が壊滅的な天堂のことだ、慣れない餅を調理しようとした挙句に、どんな甚大な被害を台所に与えないとも限らない。それよりは、多少我儘でもこちらに役目を振ってくれたほうが、よほど心安らかでいられるというものだった。
『わかった。今日は残業するけど、その後なら行ける。それでいいか?』
『かまわない。神は寛大だ』
『食いたい味があったら、早めに送れよ。準備していくから』
『お前に任せる』
メッセージアプリの中で、速やかに言葉が飛び交う。必要なやり取りを終え、スマートフォンをポケットにしまって顔を上げると、正面で食事を進めていた梅野六郎と目が合った。
「
……
何だよ」
六郎の大きな黒目がちの眼は、何やら物言いたげにじっと榊を捉えている。一部始終を見られていたのを悟って、榊は口を尖らせた。
「担当ギャンブラーのコンディションを保つのも、仕事っちゃ仕事だろ。だから我儘きいてやるだけで、別に
……
」
「今夜の天気は雪になる説が有力です」
榊の言葉を遮って、淡々と六郎は告げた。
「え?」
「18時以降の気温は2度まで下がり、降水確率も80パーセント。更に明日の最低気温は0度の予報です。不要不急の外出は避けるべきという説が有力です」
「って言ってもなぁ
……
」
既に行くと言ってしまったものを覆したら、あの自分本位な神様はきっとヘソを曲げるだろう。雪ごときで約束を違えるとは情けない男だ、お前の信仰心はその程度か、と言いたい放題に罵られるのは目に見えていた。
「ま、気をつけて行ってくるわ。行かねぇほうが面倒だろ」
「それは否定しませんが」
「主任にも一応、報告しとくか。雪で何かあった時に困るもんな」
「そうですね」
六郎は軽く頷くと、メンチカツの大きな半分を頬張った。
榊も残っていた白米をかき込み、味噌汁をすする。ちらりと目を遣った窓の外では、灰色の雲が午後の空を覆い始めていた。
予定よりも少し早い時間に、榊は残業を終えた。
報告書を送信してパソコンの電源を落とし、コートを着込んで部屋の電気を消す。足早に駐車場へ向かい、小雪の舞う夜の街へ車を走り出させた。
教会へ向かう前に、買い物をする必要があった。まだ開いている大きめのホームセンターへ向かい、目当ての道具と調味料をカゴに放り込んでいく。少し迷ってから、自分のカードで会計を済ませて、車に戻った。
雪は、少しずつ強くなっているようだった。銀行を出た時に比べて、車のフロントガラスに付く白が大きくなってきている。まだ道路を覆うほどではなかったが、榊は心持ちスピードを下げて、慎重に車を進めていった。
『もうすぐ着く』
途中の赤信号で、手短にメッセージを送る。すぐに既読がついた。
やがて見えてきた教会の屋根は、うっすらと雪に覆われて白くなっていた。街灯の明かりを受け、ぼんやりと淡く輝いている。
普段とは違う光景に、榊は一瞬、目を奪われた。
雪の白はつめたく、美しい。誰にでも平等に。
しかし、その白が揺れ、微笑む瞬間がある。
そう
——
特別に。
「
……
馬っ鹿じゃねぇの」
口の端を歪めると、榊は自嘲的に吐き捨てた。
考え過ぎ
——
あるいは自惚れ過ぎだ。
あくまで、これは仕事の一環なのだ。そう思わなければ。
雪の降る夜に、わざわざ残業の後で。
神様の家に、餅を焼きに来たとしても。
「やっぱ、領収書貰うべきだったか
……
? でも、なぁ」
それを宇佐美主任に提出することを考えると、同じくらい気が重くなるのは事実だった。榊はため息をついて、教会の駐車場のいつも停めている場所に車をすべり込ませた。
エンジンを止め、ぐきぐきと首を廻す。目を閉じて、一度深呼吸をした。
仕事のつもりで、来たはずだった。ならば何故、必要なものを自分の金で買ったのか。
あの瞬間は、そうすべきだと思った。
でも、今になってみるとわからなくなる。
ただはっきりしているのは、迷ったままで天堂の前に出るべきではないということだった。そんなことをすればすぐに見破られ、思うさま翻弄され、彼の良いようにあしらわれてしまうだろう。いつも以上に。
それは、御免だった。
「
……
よし」
榊は、目を開けた。
荷物を持ち、ドアを開ける。外の風の冷たさに首を縮めながら車を降り、ドアを閉めてロックした。念のためワイパーを立ててから、教会の住居部分の玄関へ向かう。
チャイムを押すと、ほどなく扉が開いた。
雪のように白い髪が、さらりと隙間から覗く。
「遅かったな、榊」
教会の主はそう言うと、紅く塗った唇を動かして微笑んだ。
「お、おう。雪がな、ちょっと」
自分が車の中で悩んでいた事がバレたのかと、榊は思わず身構える。が、天堂はそれ以上追及することはなく、彼を招き入れた。
「仕事はいいのか」
「あぁ。今日の分は終わらせてきたからな」
「では頼む。神はちょうど小腹が空いた」
「へーへー」
肩をすくめながら、勝手知ったる台所に入る。丁寧に手を洗い、うがいをしてから、買ってきたものを台の上に並べた。
「それで、餅を焼くのか?」
榊が取り出した銀色の網を見て、天堂が首を傾げた。金属でできた四角い板状の網は、両端に折りたたみ式の脚がついていて、そのままガスコンロの上に立てられるようになっている。
「そうだよ。脚付きのやつがあって良かったぜ」
「原始的なのだな」
「基本に忠実だと言ってくれ」
軽口を叩きながら、榊は焼き網の脚を立てていく。軽く力を加え、脚がしっかり固定されたことを確かめると、コンロの上に網を設置した。
「餅は? どんなのだよ?」
「これだ」
天堂が差し出したビニール袋には、紅白の丸餅が合わせて十個ほど入っていた。大きさや形がばらばらなのは、園児たちが丸めたからなのだろう。
自分が丸めた餅を、我先にと神父様に差し出す子供たち。
それらを分け隔てなく受け取って、優しく笑顔を返す天堂。
そんな光景が、榊の脳裏に容易に像を結んだ。
「無垢な子供たちの、混じりけのない優しさだ。愛おしいものだな」
ごく自然に天堂が言った。榊の考えを読んだかのように。
「お前、見えてんのか。オレの思考」
「今のは分かりやすいだろう」
ぬばたまの左眼が細められ、紅い唇が美しい笑みを刻む。至極当然、といった風情の反応に、榊は軽く顔をしかめた。
「
……
まあな」
努めて何も考えずに、餅を袋から出した。大きさのバランスを見ながら、網に並べていく。ついでに薬罐にも水を満たして、隣のコンロに置いた。
上位のクラスで戦うギャンブラー同士の、わけのわからないレベルの読み合いに比べたら、自分の考えなどザルも同然。そんなことはわかっている。
しかし、何もかも見透かされているかのように振舞われると、やはり面白くなかった。
自分がまだ自分で掴みかねている、この感情も。
天堂はすべて、お見通しだというのだろうか。
「
……
榊?」
「火、つけるから。手ぇ出すなよ」
もやもやとした心を押し殺して、榊は手を動かした。かちん、と音がして、ガスコンロの青い炎が燃え上がる。
仄かな熱気と、傍らに立つ天堂の視線を感じながら、榊は焼き網の上の餅を見つめた。
オーブントースターや電子レンジでも焼けるだろうとは思ったが、もし失敗して餅が破裂したりした場合、中を掃除するのは面倒くさい。ならばいっそシンプルに、ガスコンロに網を置いて焼けばいいじゃないかというのが榊の判断だった。焼ける様子を逐一見ていられるし、焼き上げ時も分かりやすい。
「
……
手慣れているな」
榊が菜箸で器用に餅をひっくり返していると、隣で天堂が呟いた。意外そうな口調だったが、感嘆の響きも込められている。
「まあ、ガキの頃はよくやってたからな」
「餅を焼いていた、と?」
「そーだよ。ばあちゃんの家でな。古い家で、でっけぇ火鉢とか残ってたからさ。冬はそれに灰入れて、炭をおこして
……
んで、網を載せて餅焼いてたってワケだ」
「ほう
……
」
天堂が軽く目をみはる。どうやら興味は持たれたらしいと解釈して、榊は話を続けた。
「最初の頃は加減がわからなくて、焦がしたりしてたけどな。こまめにひっくり返して、いい焼き色になってきたら自分でも盛り上がるんだよな。そろそろ膨らむかーって、ワクワクして
……
んで、端っこから持ち上がって斜めになったら、一気にぶわっ、と
……
」
その言葉に合わせたかのように、焼き色の付いてきた餅の一つが動いた。みるみるうちに膨らんで傾き、隣の餅とくっつきそうになる。
「うわっ早ぇな⁉︎ 天堂、そこの皿取ってくれ!」
「段取りが悪いぞ、榊。神の手をわずらわせるな」
「オメーの食う餅だろーが! それくらい手伝え!」
肩をすくめて天堂が差し出した皿を、榊はひったくるようにして受け取った。網にくっついて焦げかけた部分を手早く剥がして、皿に餅を移す。
「あー間に合ったな、よかったぜ」
「ふむ。良い色合いだ」
「これからどんどん焼けてくからな。見てろよ」
大小の餅が、網の上でてんでに膨らんでいく。ひとつひとつを丁寧に網から外して、榊は餅を皿にのせていった。
最後の餅が焼き上がると、榊はガスの火を止めた。買ってきたあんこを小皿に出し、別の皿には砂糖醤油を混ぜ、きな粉や黒すり胡麻、焼き海苔なども手早く整えていく。
「ほら、座れよ」
結局最後まで隣で立って眺めていた天堂を促して、テーブルに移った。天堂を座らせて餅と調味料の皿を並べ、箸を置く。
「すぐに茶も淹れるから。食ってていいぞ」
「榊」
台所へ戻ろうとした榊を、天堂は呼び止めた。
「何だよ」
「茶は後でいい。お前も座れ」
「え
……
でも」
「焼きたてが最も美味いだろう? 神の与えし恩寵、ありがたく受け取るがいい」
見慣れてしまった、余裕に満ちた微笑み。艶めいて動く、紅い唇。
つい反発を覚えて、榊は口を尖らせた。
「オイ、焼いたのはオレだぞ」
「だからこそだ」
「
……
っ」
さらりと返されて、音にならない声で榊は唸った。
——
まったく、コイツは。
そして、オレもオレだ。いちいち振り回されて、それを不様に晒して。
こんなことでは、何も上手くいくはずがない。
榊は小さくため息をつくと、無言でもう一度台所に入った。棚から箸と皿を出してテーブルに戻り、天堂の正面の席にどかりと腰を下ろす。
視線で追っていた天堂が、にっこりと笑った。
「では、頂こう」
きちんと両手を合わせ、口の中で何かを唱えてから天堂は箸を持った。榊もそれに倣い、天堂が餅を取るのを待ってから、一番小さな白い餅を自分の皿にのせた。
「よっ、と
……
」
あんこをたっぷりと掬い取り、餅で包むようにして噛みつく。熱い餅と冷たさの残るあんこが絡み合い、濃厚な甘さと歯応えで口の中がいっぱいになった。
夢中で顎を動かし、堪能しながら噛みしだいて飲み込む。すぐにふた口めを同じようにして放り込んだ。広がる甘さ。焼け目の香ばしさ。
「美味そうに食べるのだな」
榊の正面で、天堂がくすりと笑みをこぼした。
「そっか?
……
いや、でも美味いわ。久しぶりに食ったな、焼いた餅」
「そういうものか?」
「自分ひとりじゃ焼かねぇだろ。面倒だし。だからまあ、いい機会になったわ」
——
ありがとな。
そう続けようとして、榊は口ごもった。タイミングを失った言葉は、途端にとてつもなく重くなってしまう。
代わりのように熱く火照ってきた頬を動かし、残りの餅を強く噛んだ。沁み入る甘さを受け止めているうちに、何故か胸が痛く、苦しくなってくる。
焼いた餅に、あんこを合わせて。本当に久しぶりで、こんなに美味いのに。
コイツのせいだ。
天堂が、何もかもわかってるみたいな顔で、オレを呼びつけて。当然のように、餅なんか焼かせるから。
オレはまだ、何もわかっていないのに
——
「榊。腹が空いているなら、もっと食べろ」
次の餅にきな粉をまぶしながら、柔らかな声で天堂が言った。
「残業の後、そのまま来たのだろう? お前のことだ、自分の食事は二の次にして、急いで仕事を終わらせてきたのではないか?」
「や、それは」
「遠慮も隠し事も不要だ。私を誰だと思っている」
天堂は箸を持つ手を止めると、まっすぐに榊を見つめた。
隻眼が、夜の底から湧き上がるような光で正面の男を捉える。射すくめられた榊は、思わず生唾を飲み込んだ。
こくり、と自分の喉が動く音が頭に響く。
視界の真ん中で、紅い唇がゆっくりと言葉を紡いだ。
「敬虔な信者の苦しみを見捨てるような、神ではない。お前にとって今が試練に思えたとしても、その先には必ず救いがある」
天堂の眼光は依然として鋭く、低い声はまさに天啓の如く厳かに響く。しかし、その奥には包み諭すような優しさがあった。
榊は、自分の感覚がうまく信じられなかった。
天堂の言い回しには、慣れたつもりだった。少なくとも自分に向けられた言葉を、不足無く読み取れるほどには。
——
でも。これは。
「
……
本当かよ」
半信半疑で唸ると、天堂が微笑んだ。
「神の言葉だぞ。私を信じろ、榊」
ふわりと唇が綻び、あでやかに花開く。
茫然と見惚れた榊の目の前で、天堂はきな粉をたっぷりまぶした餅をつまみ上げ、ぱくりと口に入れた。満足そうに眼を細め、もぐもぐと噛みしめる。
赤い舌が一瞬ひらめいて、口元についた粉をぺろりと舐め取っていった。
結局、焼いた餅はほぼ半分ずつ、二人の胃の腑に収められた。
途中で榊が緑茶を淹れ、冷えかけた餅を軽く炙り直した。冷蔵庫に残っていたチーズも加えて様々な味の組み合わせを試すうちに、大きく膨れた紅白の餅はすいすいと皿から消えていく。天堂が七味唐辛子を持ち出した時には榊も血相を変えて止めたが、白い餅の上で溶けたチーズにぱらりと振られ、勧められるままに恐るおそる口にすると、今までとはまた違う美味さに唸らざるを得なかった。
「餅って和菓子みてえなモンだろ。何でチーズと七味が合うんだよ」
腑に落ちない、と大きく顔に書いた榊が餅と睨み合うのを見ながら、天堂はおかしそうに肩を揺らした。
やがて全ての餅がなくなり、榊は皿と箸を集めて台所に運んだ。今度は紅茶にしろ、と言う天堂に顔をしかめつつ応じてから、使った食器を洗っていく。こびりついた餅の欠片を何とか落としきり、水切りカゴに皿を並べ終えたところで、榊、と天堂が呼ぶ声がした。
「何だよ、天堂」
水道の水を止めて、榊は顔を上げる。テーブルで紅茶を飲んでいたはずの天堂は、いつの間にか窓際に立っていた。
「榊、こっちへ来い」
「え?」
「いいから来い。そして、外を見ろ」
「
……
外?」
まさか、と思いながら榊は濡れた手を拭いた。足早に台所を出て、天堂の立つ窓辺へ歩み寄る。
紅い爪先が隙間をあけていたカーテンを、ばっと押し開いた。
「ウソだろ
……
?」
外は、来た時とは比べものにならないほどの雪が降り積もっていた。榊の車も、車の周囲も、すっかりと白いもので覆われてしまっている。そして暗い夜空からは今もなお、勢いを増した雪がとめどもなく降り続けていた。
「ワイパーは立てていたのか。賢明だったな」
「いやそれどころじゃねーだろ! どーすんだよ、これ
……
」
タイヤチェーンなど所持していないし、もちろん冬用タイヤに換えているはずもない。無理をすれば運転できないこともないだろうが、それでもし事故でも起こしたらと思うと、簡単には決断できなかった。
「今から歩いて、終電間に合うか
……
? もうタクシー呼んで
……
あぁでも空いてねぇ⁉︎ クソっ、みんな考えることは一緒かよ⁉︎」
素早くスマートフォンを操作しながら画面を睨んで、榊は悪態をつく。
すると天堂が、さらりと髪を揺らしながら当然のように言った。
「泊まっていけばいい」
「
……
へ?」
咄嗟に何を言われたのか理解できず、榊はぽかんと口を開けた。
かすかに眉をひそめて、天堂が繰り返す。
「聞こえなかったか? 泊まっていけばいい、と言ったのだぞ」
「えっ、いやその
……
待てまて待て! 無理だろ、そんなの!」
発言の内容を今度こそ把握して、榊は口元を引きつらせた。スマートフォンを握りしめたまま、思わず後ずさる。
天堂は軽く肩をすくめた。
「何が問題だ? 今日の仕事は終わらせてきたのだろう?」
「そーだけどよ
……
でも無理だって。着替えも何も持ってきてねぇんだぞ」
「お前は私の服が着られるだろう。下着も新品の予備がある」
「オレはバスローブなんか着ねぇって!」
「スウェットくらい持ち合わせている。神は衣類も豊富だ」
「
……
.っ」
それ以上返す言葉を見つけられず、榊は唇を噛んだ。
こんな押し問答になってしまったら、天堂にかなうワケがない。こちらの考えていることくらい全てお見通しで、的確に逃げ道を塞いでくるに決まっている。
だが、このままでいいのか。
オレはまだ、何も決めることができていないのに。どうせ勝てねえからって、それを口実にして、流されたままで。
そんなの
——
「
……
榊」
天堂がため息をつきながら、男の名を呼んだ。びくりと肩を震わせて、榊は俯いてしまっていた顔を上げる。
ひとつきりの黒い眼が、まっすぐに榊を見つめていた。
「落ち着いて考えろ、榊。慣れない雪の中を運転して、もし事故でも起こしたらどうする。その方が銀行にも迷惑がかかるのではないか?」
「う
……
」
確かにそれは、先ほど榊も考えたことだった。
「でも、朝になったからって、雪が無くなってるとは限らねえだろ。仕事休むワケにもいかねえし、だったらもう、今のうちに」
「その時は私が、宇佐美に連絡してやろう。敬虔な信者に神の教えを説いていたのだと」
「
……
本気かよ」
「私が呼びつけたのだからな。当然だ」
言いながら天堂は、手を動かした。榊が開け放っていたカーテンを、慣れた動作でシャッと閉める。
そのまま流れるように前に出ると、腕を伸ばした。
「
——
!」
しなやかな指先が、肩下まで伸ばされた男の黒髪を絡め取る。
一瞬で眼前にぬばたまの瞳が迫り、榊は息を呑んだ。吸い込まれてしまいそうな黒の向こうを、ただ無言で、凝視する。
だって、何を言えばいいのだろう。
こんな、どこまでも深く。すべてを掴むように見つめられて。
何もかもを見透かす、神の眼が。
オレの迷いにも、想いにも、気づいていないはずがない。
「
……
榊」
軽く顔を傾けて、天堂が囁いた。雪のように白い髪が、さらさらと肩を流れる。
榊は、動けなかった。
自分が生贄の仔羊にでもなってしまったかのような心地だった。圧倒的な力を持つ存在の前で、矮小な罪人である自分はあまりにも無力だ。
この妖しくも美しい、神を名乗る男の意のままに。
魅せられて、為すがままに
——
紅い唇が、動いた。
わずかに不満そうに、軽く尖った形になって。
それから両端が、持ち上げられる。
「安心しろ、榊。神は待てるのだ。人の子が迷い尽くすまで、な」
「なっ
……
⁈」
するりと白い指先から、黒髪の束がすべり落ちた。
「神が湯舟を満たしてやろう。疲れた体、しかと温めるがいい」
そう言うと天堂は、踵を返して廊下の方へ向かった。つややかな長い髪が、ふわりと翻る。
「待てよ、天堂
……
っ!」
遅れて榊は、大声を出した。部屋の扉に手をかけていた天堂が振り返る。
美しく弧を描いた紅い唇に、榊の視線は吸い寄せられた。
その唇が、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「
……
今日は御苦労だった、榊。お前の信仰心を讃えよう」
そうして天堂は、扉の向こうへ消えた。
残された榊は、どさりと壁にもたれかかった。目を閉じて、大きく息を吐く。
「あー
……
何だってんだよ、ちくしょー
……
」
髪を絡め取られて、触れる寸前まで接近されて。
キスされるのかと思った。
そうなったら、受け入れようと思った。
——
でも。
「迷い尽くすまで、か
……
」
それでは足りない、と天堂は言ったのだった。
流されるまま、与えられるままではなく。自らの意思を示せ、と。
耐え難きほどまで悩み抜き、どうしようもないほどの衝動に揉まれろ。
後悔などするはずがないと、我が隻眼を前に怯まずに言い切れるまで。
神たる者を、欲さんとするならば。
「オレは
……
」
榊は、もう一度大きく息を吐いた。
手を伸ばし、天堂が閉めていったカーテンを半分だけ開ける。暗い窓の外では、なおもしんしんと雪が降り続けていた。
車も、家も、教会も。今夜は全てが、白に包まれて埋もれていく。
「オレは、ただの人間なんだよ。いや
……
人間以下かもしれねぇんだ」
それでも。
自らを知って、あの紅い唇を望むのなら。
「どうすりゃいいんだ
……
」
窓ガラスにそっと額をつけて、榊は雪の降り積もる外を見つめる。冷えきったガラスがいくら熱を奪っていっても、今の顔の火照りは到底冷めてくれそうになかった。
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