果南(カナン)
2024-12-03 20:48:50
6688文字
Public さめしし
 

払葉に雲を開いて

さめしし。つき合っている二人が早朝ドライブに出かけるお話です。ししさんがお気に入りの場所にさめ先生を連れていってくれる。



 車は、山道を走っていた。
 私は助手席で薄くまどろみながら、右に左にと交互に体にかかる力を感じていた。そんなに高くはない山だと獅子神は言っていたが、道の曲がり具合はそこそこキツい。しかし運転席の獅子神は、なめらかにギアを切り換えながら、実に自然な加減速で車を走らせ続けていた。既に幾つものヘアピンカーブを通過していたが、体に不快な加速度をいっさい感じていない。
 慣れている、と私でなくとも判る運転だった。この道を知りつくし、先の先まで読めている者の動きだ。
 どうしてこの山道に、そんなに詳しいのか。肌寒い休日の早朝に、わざわざ私を連れてきたのか。詳細な説明は獅子神から全く為されていない。昨夜仕事を終えていつものように訪れた私に、いつものように美味しい夕食を振る舞ってくれながら、明日の朝オメーを連れて行きてぇトコロがあるんだけど、と言われただけだった。
 やや硬い口調、少し引きつり気味の頬筋から、獅子神なりにいろいろ考えてのことだろうとは察せられた。声音は落ち着いていたので悪い思い詰め方ではなさそうだったし、まっすぐに私の眼を見ていたから後ろめたい隠し事でもない。となれば、本人が説明するまで待てば良いだけだ。それで、特に何も問い返すことなく了承の旨を告げた。
 獅子神はほっとしたように笑って、少し遠出になるから早起きするけど、と情報を付け加えてくれたので、私は運転をする彼の負担にならないよう、夜の行為を多少手控えることになった。それも好奇心のほうが勝っていたので、大した不満にはなっていない。
 かくして、無事に早起きを成し遂げた私達は車に乗り込んだ。休日の早朝とあって道路は空いており、曇天の下、獅子神は郊外へ向かって順調に車を走らせていく。夜半の雨で濡れた路面からは霧のように細かい水滴が舞い、時折ワイパーがフロントガラスを拭うのを眺めながら、いつしか私は眠りに落ちていた。
 そして、今までとは違う体の傾きを感じて半分目を覚ますと、車はもう山道を登り始めていたのだった。
「もうすぐ、上に着くから」
 私が聞いているのをわかっている音量で、獅子神が呟く。前を向き、運転に集中している美しい横顔を眺めているうちに、車は大きなカーブを曲がって平坦な道に出た。
 どうやらこの辺りが、峠のようだった。道の両側には飲食店とおぼしき建物がぽつぽつと見られたが、いずれも壁は傷んで窓ガラスは曇り、看板も色褪せてしまっている。閉店してかなりの時間が経過しているのは明白で、観光地として繁盛するような場所ではないことが見てとれた。
 少し進んだところに広めの駐車場があって、獅子神はそこへ車を乗り入れた。大きな銀杏の木の下を通り過ぎて、中央より少し奥の端で停車する。
「着いたぜ。動けるか、村雨?」
 ギアをパーキングに入れたところで、獅子神が振り向いて尋ねてきた。
「ああ。問題ない」
 目を開けて私が答えると、獅子神はエンジンを切って扉のロックを開けた。
「少し、歩くんだけど。傘は……要らねぇかな」
「大丈夫だろう」
「じゃあ、いっか」
 車を降りると、すっと澄んだ空気が身を包む。思わず深く息を吸って、あたりを見回した。
 駐車場のアスファルトはあちこちに水が溜まり、周囲の木々はしっとりと濡れている。寒暖の変化がおかしい最近の気候のせいか、この時期にしては紅葉の進み具合が今ひとつだったが、それでも黄色や赤に色づいた葉が鮮やかに目に飛び込んできた。水気を纏ったその色合いは、より深みを増して見えて美しい。ばさりと音がして、大きな鳥が枝を揺らして飛び立った。
「村雨」
 無造作にコートを羽織りながら、獅子神が私を呼んで、歩き出す。私も車を離れ、彼の隣に並んだ。
 獅子神は駐車場の入口へ向かい、来た道まで出て反対側へ渡った。そのまま道沿いに歩いていく。自然な動作で車道側に並ばれたので、特に異を唱えることはせずに有難く受けておいた。
 足元に散った落ち葉を踏み、余裕のある歩調で獅子神は進んでいく。顎を上げ、時々左右に視線を配りながら。薄青色の瞳は凪いでいて、穏やかな光を湛えている。心拍も呼吸も落ち着いているし、問題になりそうな徴候は見当たらなかった。
 私はコートの袖口から覗く獅子神の手を眺め、掴もうかと思案して、結局止めた。手背に浮いた腱、曲げられた指の角度から、微妙な緊張感が漂っている。触れたら触れたで拒否はされないだろうが、何となく憚られるものがあった。
 自分の両手はポケットに突っ込んだままにして、獅子神の隣を歩いていく。
 カーブの先で道路の脇に小さな広場が現れて、獅子神はそちらへ入った。広場は奥のほうがやや高くなり、展望台と思しき四角い建物が見えている。
「目的は、あれか?」
「ん、まぁそんなカンジ」
 斜面に刻まれた段を登り、私達はその建物へ入った。
 展望台は、実にシンプルな箱型をしていた。入口側は壁が大きく開いている形で、特に扉などはない。奥の壁も窓のようにくり抜かれていて、そこからでも景色は見渡せそうだったが、獅子神はそちらには目もくれずに、まっすぐに隅の階段へ向かった。
 螺旋状の階段を上って屋根の上に出ると、周囲には手摺りが巡らされており、幾つかのベンチや古ぼけた双眼鏡、字の薄れかけた案内板なども置かれていた。どうやらこちらが、展望台の本体ということらしい。
 ベンチはもちろん濡れていたので、私達は眼下が広く望める奥の手摺りに近づき、並んで立ち止まった。
「ああー……やっぱ、イイなぁ……
 獅子神が両腕を上げ、うーんと伸びをしながら、目を閉じて深呼吸を繰り返した。
「この季節の早朝がさ、いちばん空気が綺麗な気がすンだよな。冷たくて、でもスゲェすっきりしてて。余計なモンが全然無いっつーか」
「あぁ。そうだな」
 私もまた、同じように大きく息を吸って吐いた。山へ来ることなど滅多に無いが、ひんやりとした空気は確かに心地良く、肺胞まで洗われているかのように感じられる。日頃街中で吸う空気にはいかに夾雑物が多いのか、改めて思い知らされている気分だった。
「雨の後ってのが、また気持ちいいんだよな。雲が懸かってっから、見晴らしがイマイチなのは申し訳ねぇけど」
「いや、これはこれで風情がある。気にするな」
 厚く雲が垂れ込めた空は、様々な灰色を交えながら遠くまでほの白く広がっていた。眼下にも切れぎれに薄く雲が広がり、その隙間から森や田畑の緑、立ち並ぶ家々などが見渡せる。雲海、という単語が頭をよぎった。
 普段の生活の中では、足元に雲を見る機会など滅多にあるものではない。それが、少し車を飛ばしてきただけで——運転したのは獅子神だが——このような非日常の情景に包まれることができる。
 私が自分だけの世界で過ごしていたままだったら、わざわざ早朝に此処へやって来るようなことは無かっただろう。この景色にも、出会えないままだったに違いない。

 私が自分ひとりでは、知り得なかったこと。見ようともしていなかったこと。
 それを今、獅子神と共に目にしているのだ。

……以前はさ。よく一人で、来てたんだよ」
 特に前置きも無しで、獅子神はそう語り始めた。
 美しい空色の瞳に、無彩色の雲を映しながら。
「少しずつ金を貯めて、ようやくボロい車が買えた頃の話だよ。本当に、ふっるい型のヤツで……でも今までは行けなかった所に行けるのが、とにかく嬉しくてさ。これさえあれば何処にでも行ける、って思ってた。食い物積んで、遠くまで行って、わざわざ車内で寝たりしてた」
……
「だから……イヤな夢見て、夜中に飛び起きたりとかして……そういう眠れそうにない時とか、いてもたってもいられなくて車に乗って走り出してさ。んで、ココに来てた。最初は偶然見つけたンだけどよ、峠なのに走り屋も全然いねぇし、静かで……なんか気に入っちまったんだよな。手つかずな感じっていうか、オレだけの秘密の場所!みたいな? 子供っぽくて、馬鹿みてぇだけど」
 獅子神が自嘲する笑みでこちらを見たので、私は静かに首を横に振った。
「そんなことはない……私は好きだ、獅子神」
……ありがとよ、先生」
 また視線を遠くに向けて、獅子神は話を続けた。
「昨晩が雨だったから、今日はあんまし空が見えねぇけど……晴れた夜だと、一面に凄ぇ星が見えるんだぜ。夜明けが近くなったら空の色が変わっていくのも、めちゃくちゃ綺麗でさ。そういうデカいものに圧倒されてたら、ぐるぐる回ってた嫌な気持ちも忘れるっつーか、なんか収まってきて……んで、いつの間にか腹が減ってきて。んじゃ帰るか、帰ってメシ食ってまた頑張るか、って思えたんだよな」
 私は獅子神の話に耳を傾けながら、その時の彼の様子を脳裏に思い描いた。
 今より何歳か若い獅子神が、朝焼けの光に浮かび始めた街に向かって、薄靄の残る曲がりくねった山道を車で下っていく。好きな歌を切れぎれに低く口ずさみ、軽快なシフトチェンジとハンドル捌きで、でもスピードはあくまで穏やかに、古い型の愛車を労わりながら。
 頭の中では朝食のメニューを組み立て、冷蔵庫の中身と照らし合わせていて、足りない食材を買い入れるために二十四時間営業のスーパーに寄る。目当てのものを手早く選び出し、レジで会計を済ませ、車に戻って助手席に荷物を置く。帰り着いたら作る料理の味を考えて、口元はもう自然と綻んでいる。
 想像の中のその顔に、振り向いた今の獅子神の笑顔がすっと重なった。
「だからさ。オメーにもこの場所、見せておきたかったんだよ。何となく。まぁ別に、大したことないって言ったらそりゃそうなんだけどさ」
「そんなことはない」
 私はもう一度、きっぱりと首を振った。
 コートのポケットから手を出して、そっと獅子神の手を引き寄せる。冷たくなっていた指に自分の指を絡めて、握った。
「あなたの特別な場所を、私にも教えてくれて嬉しい。私にも……そういう場所があったら良かったのだが」
……ははっ」
 獅子神はおかしそうに笑って、空いているほうの手でくしゃくしゃと私の頭を撫でた。
「ンなこと、気にすんなって。村雨先生には似合わねーだろ。悩んで飛び出して、闇雲に走り回って泣いたりとかさ」
「しかし、獅子神」
「いーんだって。オメーはそれで……こういうのって、人それぞれだろ。比べたり張り合ったりするモンじゃねえよ」
 穏やかな口調でそう言うと、獅子神は私を抱きしめてきた。
 私は彼の首筋に頬をつけて、そっと息を吐いた。前が開いたままのコートの内側に腕を差し入れて、獅子神の腰の後ろに手のひらを置く。薄手の服の布地越しに、彼の体温が伝わってきた。
 確かに、獅子神の言うとおりだった。
 育った環境、経てきた道の違いは、今さら論争の種にするような事ではない。各々で違うのが当然なのだ。
 でも、獅子神は私に見せてくれたのだ。ずっと自分の中に抱いていた、大切な何かを。
 おそらく今まで誰にも見せなかったであろうコトを、私に共有してくれたのだ。
 だから、応えたい。
 そのために、私はどうすればいい?
 しっとりと澄んだ風が、私達を撫でていった。晩秋の冷たさを宿しながらも、水気を含んだ風はどこか甘い。キチキチキチ、と遠くで鳥の鳴き声が響き、離れた道の落ち葉を踏み散らして乗用車のタイヤが駆け抜けていく音が聞こえた。
「どーしたんだよ、村雨?」
 私を抱きしめている獅子神の手が、ぽんぽんと背中を叩いた。軽く、優しく。
「そんな、深刻になる必要ねぇって。ただの昔話だよ。お前がこうして一緒に来てくれて、聞いてくれた。オレはそれで十分だ」
……だが、私は違う。これでは、十分とは言えない」
 私は顔を上げて、正面から獅子神を見つめた。
 彼の腰に置いた手に、自然に力がこもる。
「同じことを、返すことができなくても……私もあなたに応えたい。でも、どうすればいいのか」
「村雨……
「私はあなたに、何をしてやれる? あなたの大切なものを、私も大切にしたいのだ、獅子神」
……
 獅子神はしばらく黙ったまま、私を見ていた。
 私も、獅子神を見つめ続けていた。彼の表情の揺れ、息遣い、わずかな体の動き。何ひとつ見逃さず、拾えるように。
 いつもより深い青に染まった瞳が、ためらいを含んで揺れる。私に何かを告げようとして、迷っているように読み取れた。
 その『何か』がわからないのが、もどかしい。

 きっと私が、まだ知らないものなのだ。だから、見えていたとしてもわからない。
 人に寄り添おうとした経験が乏しい私には、わからない。

——村雨」
 ふっと表情を緩めて、獅子神が私の名を呼んだ。
「珍しいな。オメーがそんな、自信なさそうな顔してんの」
……そうだな」
 その通りだろうとは思ったので、私は反論せずに答えた。
 事実は事実として受け入れなければ、前に進めない。
「失望したか?」
「んなワケねーだろ。そういうお前も、好きだよ」
 獅子神はまた私の頭を撫でると、額に唇をつけてきた。
「あのな、本当に、そんなに難しく考えるようなコトじゃないんだぜ。でも、もしお前がどうしても、何かしてくれたいって言うんなら」
 大きな手が、私の肩を包んだ。
 薄青色の瞳が、正面から優しく私を捉える。
「今度はよく晴れた日の夜に、また一緒にここに来てくれよ。凄ぇ星空と綺麗な朝焼けを、お前にも見てほしい」
「獅子神……
 そんなことで良いのか、と反射的に喉元まで出かけてきた言葉を、しかし私は飲み込んだ。
 そんなことで、良いのだ。きっと。
 理屈ではなく、言葉でもなく。隣で同じものを見る時間を持って。
 そこから始めて、進んでいけばいい。
「わかった。そうしよう」
 私が頷くと、獅子神はにっと笑った。
「おう、頼むぜ。んじゃ、今日のところはそろそろ帰るか」
「あぁ」
 私達はもう一度目の前の景色を見渡すと、展望台の螺旋状の階段を下りて、獅子神の車へと歩き出した。どちらからともなく手を繋ぎ、指を絡める。
 依然として空は厚い雲に覆われていたが、辺りは明るさを増してきている。帰り着く頃には、ほどよく腹も減っているだろう。さて朝食には何を頼んでみようかとあれこれ考えていると、横目で私を見ていた獅子神が声をかけてきた。
「車に戻ったら、あったかいコーヒーとクッキーあるからさ。とりあえず、それで我慢しろよな」
 私は軽く眼を見開いて、獅子神を見上げた。
……何故わかった? 私が食べ物のことを考えていたのが」
「そりゃオメー、それくらいは、流石にな? オレが今までにどれだけ腹を空かせたオメーを見てきたと思ってんだよ」
 くつくつと笑う獅子神は、何とも楽しそうだった。細められた目の奥からあたたかい光があふれて、私を包む。自然に私も口元が弛んでしまう。
 でも、そのままでは少し照れくさいので。
 顎を上げ、顔を前に向けて、いつものように言い放った。
「では次に此処へ来る時は、ぜひ軽食の持参を頼みたい。星空を見て朝焼けまでとなれば、それなりの時間滞在することになるだろう?」
「へーへー、言うと思ったぜ。オメーの好きなもん作るから、心配すんな」
「言ったな? 期待するぞ?」
「いつも通りだろうがよ。ま、その時になったらまた聞くから」
 そこでちょうど車に着いた。獅子神が運転席に近づき、ロックを解除する。
 私は助手席側に廻り、扉を開ける前に辺りを見回した。山の朝のつめたい空気を、改めて肺の奥まで吸い込む。
 今は、余計なことは考えずに。ただ、覚えておこうと思った。
 こうして知らなかったことを、知っていくこと。少しずつ、いろいろなモノを重ねていくこと。
 それがきっと、つき合っていくということなのだ。
 ずっと、一緒に。
 扉を開け、助手席に腰を下ろす。獅子神がクッキーの詰まったタッパーを差し出してきたので、受け取った。
「ほれ、昨日焼いたヤツだから。食ってていいぜ。コーヒーもすぐに」
……その前にあなただ、獅子神」
 大きめの保温水筒を持ち上げた彼の手を制して、私は腕を伸ばした。指先でうなじを辿り、耳を撫でて、引き寄せる。
 重ねた唇は、少しひんやりとしていて。
 でもすぐにあたたかく濡れて、優しく解けた。