果南(カナン)
2024-10-04 22:02:38
2973文字
Public さめしし
 

素晴らしい恋人

さめしし。ワンドロのお題「匂い」「天使」で書きました。つき合っている二人が香水を囲んでいちゃいちゃしているお話です。さめ先生が盛大に惚気ています。

 ソファのローテーブルの上に、小瓶があった。
 天使を思わせる翼の形をした、意匠を凝らしたガラスの小瓶。大きめの蓋がついていて、中には水色の液体が入っていた。晴れた日の、高く澄んだ空を思わせる美しい色合い。獅子神の瞳の色のようだと思った。
 瓶の中央には、小さな丸いラベルが貼られている。手に取って見ると、フランス語らしい文字の連なりと、ハートのマーク、そしてその上に組み合わされた弓矢のデザインが確認できた。
「あぁ、それ。香水だぞ」
 私がしげしげと眺めていたからだろう。食後の紅茶とプリンを運んできてくれた獅子神が、さらりと解説を加えてくれた。
「香水? 珍しいな、あなたが」
「取引先の奴から貰ったんだよ……って、別にヘンな意味じゃねーぞ。仕事だよ。次の新作だから、よかったら感想聞かせてほしいって」
「ふむ……
 私はひとまず納得して、小瓶をローテーブルの上に戻す。ちょうどその隣に、獅子神が紅茶のカップを置いてくれる形になった。
 獅子神の瞳の色に合わせて贈ったのだとしたら、なかなか小憎らしい手管を用いる輩がいるものだと思ったのだが、どうやらその手の心配は不要らしい。獅子神の口調からは、ビジネス以上の気配は全く伝わってこなかった。
「キューピッドにブルーの組み合わせとは、意外性を狙ったのか。まあ、空を飛ぶ存在だと思えば、不思議でもないだろうが」
 そこも、私が警戒心を起こした理由の一つだった。恋や愛の象徴ともいえるキューピッドのデザインの香水、そんなのを贈り物にしたのだとしたら、そこそこ露骨な下心と言えるだろうと判断したからだ。
 が、当の獅子神は、ぽかんとした顔で、自分の紅茶を置いたところで動作を止めていた。私の顔と香水の瓶を見比べながら、おそるおそる口を開いてくる。
「あの、さ……これ、天使じゃないのか?」
「キューピッドだろう。ラベルのハートと弓矢が見えんのか、マヌケ」
 思わず呆れた声が出てしまう。が、そこも理解できてなかったとなると、どこぞの馬の骨の下心に気づく心配は全く要らなかったわけで、それは喜ばしいことだった。
 獅子神はもう一度、香水の瓶をまじまじと眺める。ほんとだ、と唇を動かしてから、真面目な顔で私のほうを向いた。
「ていうか、キューピッドって天使じゃねーのか? 同じような羽、生えてるだろ?」
「キューピッドは、ギリシャ神話やローマ神話に登場する神だ。愛の力を象徴し、弓矢を射て恋人同士を引き合わせる。一方、天使は神の意志を伝える使者、宗教上の存在だ。全然違うぞ」
「そーだったのか……
 獅子神は唸ると、どさりと私の隣に腰を下ろした。ソファの座面が沈み、体がわずかに獅子神のほうへ傾く。
……お前、バラの花は素直に贈れねぇのに、そーゆーことは詳しいのな。何でだ?」
「こういうのは、ただの知識だ。生きて本を読んでいれば、自然に身に着く」
 いや自然ではねーだろ、とぼやきながら、獅子神は手を伸ばしてティーカップを持ち上げる。私も自分のカップを取って、明るいオレンジ色の香りの良い液体を口に含んだ。
 いつもと同じ紅茶の香りに、いつもと少し違う獅子神の匂いが混じる。おそらく、そのキューピッドの香水を試しにつけてみているのだろう。だいぶ時間が経っているのか、かすかに漂う程度だったが、とろりと練られたミルクのような甘いニュアンスがあった。
 くくっ、と急に獅子神が笑いを漏らす。私は眉をひそめて、横目で視線を送った。
「何だ」
「いや、キューピッドは恋人同士を引き合わせる、て言っただろ。じゃあオレらの場合、それって真経津かよ、て思ってさ。アイツ、キューピッドってガラか?」
「確かにガラではないな。が、神話の神とは得てして気まぐれなものだ。そういう意味では、素質はあると言える」
……なるほど」
 獅子神はまだ半分笑いを堪えている顔で、紅茶の残りを口へ運ぶ。私はカップを置いて、彼が紅茶を飲み込んでしまうのを待ってから口を開いた。
「まあ何にせよ、私としても奴に感謝はしている……天使のようなあなたと、こうして引き合わせてくれたのだからな」
 ぐほ、と大袈裟に獅子神がむせた。落としかけたカップをかろうじて支え、顔を赤くして咳き込みながら、こちらを睨んでくる。
「お、オメーなぁ……いきなり何つーこと言うんだよ。もう少しで思いっきり紅茶噴くとこだったじゃねーか」
「その点は心配ない。あなたが飲み込むのを待って言ったからな」
「オイ、それ込みでわざとかよ! ったく、もう……
 獅子神は自分もカップを置き、脱力したようにソファに体を預けた。背もたれに頭をのせて天井を仰ぎ、大きくため息をついてくる。
「それこそ、ガラじゃねーだろうよ……オレが、天使だなんて」
「そんなことはない。あなたは気高く、美しく、誠実で優しい。あのマヌケ共に対する寛容さも持ち合わせているし、料理も上手い。私にとっては、まさしく天使のようなものだ」
……っ」
 さらに顔を真っ赤にしながら何か言い返そうとして、獅子神が口をぱくぱくさせる。その唇を指先で押さえ、言葉を封じておいてから、逞しい体をそっと抱きしめた。
 いつもより甘い獅子神の匂いが、私を包み込む。首筋に頬を寄せ、鼻を埋めながら、肺の奥までその匂いを吸い込んだ。身じろぎした獅子神の筋肉の動きを味わい、指先で辿る。その間にも立ち昇る匂いで、昂りがかき立てられていくのを感じた。
 キューピッドは恋と魅力、愛情の神。
 そして、情熱的な欲望を司る神でもある。
「む、村雨……?」
「良い匂いだ、獅子神」
 私としては香水を纏った獅子神を褒めたつもりだったのだが、獅子神はちょっと誤解したらしい。ぱっと私の顔を見て、嬉しそうに提案してきた。
「気に入ったなら、お前もつけてみる?」
「え……?」
「こういうの、村雨先生はつけたことねぇだろ。教えてやるよ」
 空色の美しい瞳が、きらきらと輝いている。その楽しそうな様子を見てしまうと、特に興味が無いとは言い出しづらかった。
……では、入浴を済ませてからにしよう。今つけたところで風呂に入れば落ちるだろうし、あなたのプリンもまだ食べていない」
「そういや、そーだな」
「ただし、一緒に香水をつけたその結果として、あなたと渾然一体となった匂いに私がいつもより興奮したとしても、責任は取れない。その点は心得ていてほしい」
 ぷっ、と獅子神が吹き出した。
「何だよ、それ。怖ぇなぁ」
「予測されるリスクを、先に提示したまでだが」
「でもお前、普段から我慢なんてしてねーだろ。ま、いーけどよ。オレも頑張るから」
 くしゃりと私の頭を撫でて、獅子神が笑う。それこそ、天使のような笑顔で。
「ほら、食うんだろ、プリン。紅茶のおかわり、要るか?」
「いや、大丈夫だ。ありがとう」
 促されてプリンの皿を手に取り、スプーンを差し入れる。口に入れると、卵と牛乳のしっかりとした味わいと、甘く焦げたカラメルの濃厚な香ばしさが広がった。
 キューピッドの甘く蠱惑的な匂いを漂わせながら、天使のように優しく寛大で、料理も上手く、私を愛してくれている。
 まったく私は、この上なく素晴らしい恋人に恵まれたものだ。