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果南(カナン)
2024-09-06 19:57:42
3219文字
Public
さめしし
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夏水の戯れ
さめしし。ワンドロのお題「残暑」で書きました。夏の終わりのプールのお話で、あにさめが二人のことを知っている前提です。
ぱしゃ、と水しぶきが跳ねて、足元に飛んできた。借りている庭用のサンダルの爪先が、わずかに濡れる。
私は読んでいた本から顔を上げて、ビニールプールに目を遣った。濡れた髪を掻き上げながら、水着姿の獅子神がこちらを振り返る。
「すまねぇ、水飛んだだろ? 本、濡れなかったか?」
「大丈夫だ」
軽く頷き返して、本を閉じた。テーブルの上に置いて、代わりにオレンジジュースのタンブラーを手に取る。ストローに口をつけて、こくこくと甘味のある果汁を吸った。
獅子神はざば、とプールの中に腰を下ろすと、両手で水を掬った。顔を洗うようにばしゃりと水をかけて、それから手で水滴を拭う。ほどよく日に焼けた肌、逞しく均整のとれた体が水を弾いて滴らせ、夏の終わりの日差しできらきらと輝いた。
「ビニールプールなんて、子供が遊ぶもんだと思ってたけど
……
結構楽しいな、これ」
「それなら良かった。兄の家の大掃除で出てきたものだが、このまま捨てるのは忍びない、と言うのでな。あなたが楽しんでくれるなら、報われる」
「ふーん
……
」
ぱしゃぱしゃと水を跳ねさせながら、獅子神は伺うような目で私を見た。
「でも、何で自分の家に持っていかなかったんだよ。お前ん家も十分、庭広いだろ」
「私が自分の家で、ひとりでプールで遊ぶとでも?」
ぎろりと睨んでやると、獅子神はすまん、と唇を動かして肩をすくめた。
私はため息をつき、もうひと口オレンジジュースを啜って、喉にすべり落とす。甘味と酸味が胃に収まるのを待ってから、口を開いた。
「どう考えても、私よりはあなたのほうがこのビニールプールに相応しい。兄もそれを見越して、私に託したのだと思うが」
「
……
オレ、そんなに子供っぽいと思われてるのか? 一希さんに
……
?」
「健康的だということだ」
獅子神はまだ若干腑に落ちない顔をしていたが、それ以上の議論は諦めたらしい。ばしゃん、とプールに倒れて仰向けになった。
ビニールプールの縁に隠れて、私からは獅子神の顔が見えなくなる。時折動く腕や脚と、跳ねる水だけが彼の動作を伝えた。
兄貴の家にあったこのビニールプールは、膨らませてみると予想以上に大きかった。流石に大の大人が足を伸ばして寝転がるというわけにはいかないが、片側に寄りかかって寛ぐには十分な広さがある。夏も終わりとはいえ、まだまだ十分に暑い今日のような日に、庭で冷たい水を張り、ゆったりと体を揺蕩わせるのは、なかなか気持ち良いものだろうと思えた。
だから、獅子神がそうして楽しめれば、と思って此処へ持ってきた。
それ以上の、他意は無い。
私としては、今こうして獅子神を眺めているのが大変楽しい。オレンジジュースは濃厚で美味しいし、大きなパラソルが作る日陰のおかげで、ちょっとした避暑気分も味わえている。アロハシャツとハーフパンツに着替えているから、服の風通しも良い。水しぶきでスーツを濡らす心配も無く、この状況を堪能できる。
そう、これくらいが私には丁度よいのだ。
水に濡れて子供のようにはしゃぐのは、私の性には合わない。
そんなことを考えていると、ざばりと獅子神が起き上がった。顔からも肩からも水を垂らしながら、こちらを振り向く。
「悪ィ、村雨。飲み物取ってくれるか」
濡れた手がぱしゃりと動いて、テーブルの上を指し示す。大ぶりの透明なアクリルのタンブラーは、氷と炭酸水が満たされたままで汗をかいていた。添えられたレモンの薄切りとミントの葉が、爽やかな色彩で美しい。
「ああ。水分補給は大切だ」
私は自分のタンブラーを置いて、立ち上がった。獅子神のタンブラーを持って、ビニールプールに近づく。
プールの縁に片腕を乗せ、そこに顎を置いてこちらを見上げてくる獅子神は、妙に艶のある目つきをしていた。濡れた前髪が額に貼りついて、涙のような水滴をしたたらせているせいもあるだろう。が、その要素を差し引いても何かがある。それが私の診断だった。
——
でも。
「ありがとな、村雨」
獅子神が嬉しそうに笑って、雫の伝う逞しい腕を伸ばしてくるのを見て。
私は自分の診断など、どうでもよくなってしまった。
別に、いいだろう。何があっても。
ここにいるのは、愛おしい獅子神なのだから。
「
……
ん」
炭酸水のタンブラーを、私は差し出す。伸ばされた手が、受け取った。
その瞬間。
「
……
!」
ばっ、ともう片方の手が伸びてきて、私の上腕を掴んだ。そのまま引っ張られて、重心を失って倒れ込む。
「獅子神
……
っ!」
叫んでみたものの、どうしようもなかった。
ばしゃん、と派手な音がして、水しぶきが上がる。視界が水滴に覆われ、身体が一気に水の冷たさに浸される。
私はものの見事にプールの中に転がり込んで、全身ずぶ濡れの状態で、獅子神の上に乗っていた。
「
……
ハハッ! 村雨先生でも油断するんだな!」
弾けるような笑顔で、獅子神がタンブラーをあおる。半分ほどを一気に飲み干してから、プールの外にタンブラーを置いて、ぎゅっと私を抱きしめてきた。
「相手があなただからだ、マヌケ。他の奴らではこうはいかん」
私は抱きしめられたままで、軽くため息をついた。顔だけ起こして眼鏡を外し、軽く振って水気を飛ばしてから掛け直す。
「へーへー。ありがとさん」
「あなたが何か企んでいるのは、わかっていた。が、それでも良いと思った。いずれにせよ、結果がこれならどうしようもなかったがな。あなたが力で何かしようとしたら、私には為す術が無い」
「
……
村雨」
獅子神は神妙な声になると、腕の力を緩めた。
大きな手で私の頬を包み、優しく唇を重ねてくる。
「ごめんな。オレ、ちょっとはしゃぎ過ぎたか?」
「いや、構わない。楽しかった」
私は微笑むと、獅子神の手に自分の手を添えた。前腕から上腕へ、筋の輪郭を指先で辿り、濡れた腕を撫で上げる。
「それにしても、あなたの体の鍛え方は大したものだ。服で隠れているわけでもなく、こうして晒された筋を目の前にしていたのに、動作の予兆が見えなかった。私も、まだまだだな」
「
……
っ、いや、お褒めに預かるのは嬉しいんだけどよ
……
その撫で方、なんかいやらしくねえか
……
っ」
「私はただ、あなたの体を愛でているだけだが?」
「だから、言い方っ! オメーわざとやってるだろ!」
指先が三角筋に達し、大胸筋へ移りかけたところで、獅子神の心拍が跳ね上がる。顔の赤みも増し、筋に余計な力が入って強張ってきてしまったので、私はそれ以上撫でるのを止めた。
これ以上は、戸外ですることでもない。
「
……
まあいい。どうせ濡れてしまったのだから、このまま寛ごう。あなたに寄りかかってもいいか、獅子神」
「おう。ちょっと待てな」
獅子神がいったん私を離し、プールの端に座り直した。縁に寄りかかるようにして態勢を整えてから、手招きしてくれる。
私は獅子神の脚の間に腰を下ろし、逞しい胸に背中を預けた。
濡れたシャツ越しに、じわりと獅子神の体温が伝わってくる。水に浸された下半身の冷たさとの落差が、何となく可笑しくて、心地良い。水中でシャツの裾が揺らめき、水面はきらきらと光を跳ね返す。指を動かせば波が起こり、ぱしゃりと飛沫を立てればぴくっ、と獅子神の体が反応した。
「楽しそうだな、先生」
「そうだな
……
あなたの、おかげだ」
焼けつくような残暑の午後に、庭でビニールプールに水を張って、しとどに濡れて。
こんな時間は、あなたとでなければ有り得ない。
「
……
獅子神」
厚い胸に頭をもたせかけたまま、彼の顔を見上げる。今日の青空と同じ色の瞳を、じっと見つめた。
美しい双眸が軽く見開かれ、次に細められて口元が笑みを刻む。
その唇が優しく降ってくるのを確信しながら、私は瞼を閉じた。
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