果南(カナン)
2024-08-14 21:32:09
3624文字
Public さめしし
 

Satisfied

さめしし。寝落ちしちゃったさめ先生と、眠れなくなったししがみさんのお話。



 風呂から上がってきたら、村雨が寝落ちしていた。
——先生? おい、村雨?」
 呼んでみたが、反応はない。ソファーのお気に入りの場所を陣取って脚を伸ばし、クッションに頭を預けたままの姿勢で目を閉じて、リビングの明るさをものともせずに、すやすやと寝息を立てていた。
 胸の上には、読みかけの本が伏せられたままになっている。薄い雑誌みたいな本だったが、タイトルは英語で、オレが見たこともないような単語が連なっていた。たぶん、専門の学術雑誌か何かなんだろう。本から離れかけた手のそばには、芯が出たままのボールペンが転がっていたので、拾って芯を引っ込める。かちん、とリビングに音が響いたが、やはり村雨は反応しなかった。
「疲れてんだな、やっぱり」
 ローテーブルの上にボールペンを置いて、いったんキッチンへ向かった。大きめのグラスに氷を満たし、麦茶を注ぐ。半分くらいを一気に飲んでから、もう一度グラスの八分目あたりまで麦茶を足して、それを手にしたままリビングへ戻った。
 照明の明るさを、一段階落とす。ダイニングテーブルから椅子を引っ張ってきて、背を跨いで逆向きに腰を下ろし、眠っている村雨を眺めた。
 村雨のほうが先に風呂に入ったから、うちに泊まる時にいつも着ているパジャマ姿になっている。ネイビーブルーの、麻混生地のパジャマ。オレが適当に見繕って買ってきたやつだけれど、気に入ってくれたらしくてずっと着ている。もう何度も洗濯して柔らかくなった生地の袖口から、細い腕が伸びていた。
 髪は風呂上がりにきっちり乾かしていたけれど、それでもいつもに比べてしんなりしているように見える。眼鏡はもちろん掛けたままで、肩口に溜まった金の細いチェーンが鈍く輝いていた。
 深紅の鋭い光を放つ瞳は、まぶたに隠れたままで。
 風呂の後だから、頬もやや血色が良く、薄桃色に見える。
 ——たぶん、オレだけが知っている村雨の姿。
 そう思うと、きゅっと下腹の奥が疼いた。
……よく寝てんなー」
 生じた衝動を誤魔化すために、声に出して言ってみる。持っていたグラスを傾けて、麦茶をあおった。からり、と音を立てて氷が揺れる。
 村雨は、起きない。
「準備、したんだけどなぁ……どーするよ、これ」
 学会の前だとかで忙しかったらしく、村雨が今日うちに来るまで、実はけっこう間が空いていた。当然、ソッチのほうもご無沙汰だったわけで。
 期待は、していた。
 正面きって何か言ったり仕掛けたりしたわけじゃなかったけれど、村雨だってそうだったと思う。オレの作った料理を食べながらこっちを見てくる眼が、いつも以上に艶を含んで嬉しそうだった。それくらいは、オレにだって分かる。
 だから、準備も念入りにやったのだが。
 それで時間がかかったのが、裏目に出たらしい。
……ま、しゃーねぇか。起こすのも、なんか悪いもんな」
 村雨に足りてないのは、圧倒的に休養だ。職業柄仕方がないのかもしれないが、もっと体を労ったほうが絶対にいい。医者の不養生とはよく言ったものだ。

 だから、村雨がオレの家に来て、メシを食って。
 くだらんマヌケ共が、とキレの良い悪口を挟みながら仕事の愚痴をこぼしたり、あれが食べたい、これがいい、なんて平然とした顔で我儘を言ったりして。
 こうして風呂に入って、寝落ちしちまう姿なんて見せてくれたりするのも。
 オレの傍では寛いでくれているのかな、少しは元気にしてやれているのかな、ってそう思えて、これはこれで十分嬉しいことなのだった。

 ——そう。これは、オレだけが知っている村雨。
 今だけは、オレだけの。
 誰にも見せたくない、愛おしい姿だった。

「さて、と……寝るか」
 残りの麦茶を飲み干して、オレは立ち上がった。
 椅子をダイニングテーブルに戻し、グラスを流しに置いて水につける。洗うのは明日の朝でいいだろう。洗面所に行って口をゆすぎ、寝室のエアコンをセットして、ドアは開けたままでリビングに戻った。
 照明を落としてから、村雨が眠るソファに近づく。
 顔を近づけると、すうすうと小さな寝息が聞こえた。胸の上に伏せられたままの本が、呼吸に合わせて小さく上下している。
 本を取って閉じ、ローテーブルの上にボールペンと一緒に置いた。それから、背中と膝の下にそれぞれ腕を差し入れる。
「よっ、と」
 ぐっと力を込めると、思ったよりもあっさりと持ち上がった。
 わかっていたけれど、細い。
「ちょ、お前……あんだけ食ってるのに、いったい何処に入ってんだよ? ほんっと肉付いてねえのな……いや、知ってっけど」
 何度も見ている村雨の裸が目の裏に浮かんでしまって、ついでに諸々のアレコレも思い出してしまって、当然の結果として股間が熱くなってくる。抱え上げてるから体は密着してるし、すぐ傍に無防備な寝顔があるし、そもそもがソノ気だったのだ、致し方ない。
 が、ここで情欲にかまけて村雨を落っことすわけにもいかないので、オレは深呼吸を一つしてから、寝室へ向かった。
「お前、ひょっとして六十キロも無いんじゃねーか……? やっぱ食うだけじゃなくて、ちゃんと運動しねーと。また筋トレ誘ってみるかなぁ……でもコイツの場合、何からやらせりゃ出来るンだろ……
 ぶつぶつ言って気を紛らわせてたら、寝室に着いた。ベッドの上に慎重に村雨を下ろしてから、ドアを閉めに行く。
 枕元の小さな明かりだけをつけて、ベッドに腰掛けた。そっと村雨の眼鏡をはずして、サイドテーブルに置く。
「おやすみ、村雨……また明日、な」
 ちょっと迷ったけれど、軽くキスをして。
 タオルケットを広げて村雨の体に掛けながら、自分も隣に潜り込んだ。
 静かな寝息で、本当に穏やかに、村雨は眠っている。オレも目をつぶって眠ろうと努力した。
 でも、無理だった。
 先ほどから感じている疼きが、消えてくれない。こうして村雨の体が隣にあると、否が応でも思い出してしまう。
……獅子神』
 オレの反応を見ながら囁きかける、村雨の声。
 細長い指の、的確な動き。
 肌を這い、奥に侵入し、イイ所を探り当ててくる。オレが我慢しきれなくなって声を上げ、もう無理だからと懇願するまで、執拗に攻めの手を緩めない。高く、果てしなく気持ちよく、オレを飛ばせてくれる。何度でも。
……くそっ」
 悪態とため息を同時に吐いて、寝返りを打った。すやすやと眠る村雨に背を向けて、ベッドの端近くまで移動する。
 自然に、下へと手が伸びた。
 こうなったら、一度抜かないと寝付けそうにない。トイレか風呂場に移動しようかとも思ったが、傍で村雨を感じていたい欲が勝った。
 もし途中で、村雨が目を覚ましたら。何て言えば。
 でも他の場所に移動したところで、村雨が起きて探しに来ればどうせバレる。だったら、このままの方がいい。
「は……ぁっ……むらさめ……っ」
 声を押し殺しながら、手を動かす。村雨に与えられる刺激に慣れてしまっているせいか、自分の手がぎこちなく、物足りなく感じてしまう。それに村雨を起こしてしまったらと思うと、なかなか思いきった動きもできない。
 でも、いっそのことその方がいいのか。村雨が目を覚まして、オレのこの醜態を見つけてくれれば。どれだけ揶揄われたとしても、あの眼でオレを見つめて、優しく名を呼んで、あの手で巧みに触れてくれるのなら。
もう、それで。
「あ、ぅう……違う、もっと」
 迷いながら、悩みながら、でも後には退けなくて、どうしようもなくて。
 一気に昇り詰められないもどかしさに苛まれて、それはそれで頭がおかしくなりそうだったけれど。
……っ! くっ、あ……はぁ……
 何とか果てることができたオレは、事の経緯がバレないように片付けだけはしっかりと頑張った。そして、心地良い脱力感に包まれながら村雨の隣に戻ると、今度こそ秒で眠りに落ちたのだった。



 翌朝、たっぷり眠ってオレより早く起きた村雨は、見たこともないほど悔しそうな顔をしていて。
 あり余る自己嫌悪を抑えきれなかったのか、オレが起こそうとしなかったことに矛先を向けて、ひたすらぶつぶつと文句を述べていた。そして、機嫌の悪さでより研ぎ澄まされた舌鋒でオレを問い詰め、独りで抜いたことをあっさり見破ると、何故それを私に見せなかった、と本末転倒なことを言って睨みつけてくる始末だった。
 でも、そうしてひとしきり駄々をこねた後で、枕に顔をうずめて反省していた(のだと思う、たぶん)姿は、何とも微笑ましくて、可愛らしくて。
 朝メシできたぞ、と声をかければ、機嫌を直してもぐもぐと食べ始める。厚切りのハムを頬張りながら微笑む村雨は、目元の隈が少しだけ薄くなっていて、それはささやかながら、オレだけの誇らしい勲章なのだった。