前提として穹には過去の記憶がない。宇宙ステーションで目覚め、星穹列車に乗ると決めたあの日から穹の記憶は始まっていると言える。断片的な光景の残滓であれば多少残っているものの、記憶とは到底呼べないような瞬間を切り取ったもの――それこそゲームのスクリーンショットを撮るような――でしかなかった。列車で過ごし始めた日々は長いようでいて短く、しかし濃密な、退屈する暇すら与えてくれない。出会いと別れを繰り返すもの。穹が持つ記憶とはそういうものだ。
ただ、今回の件に関して言えばそこまで大袈裟な話ではない。もっと短絡的な、しかし致命的な失敗だったと言える。穹の中では何がなんだか分からない。目の前で自分を睨みつけている丹恒の真意は勿論、今に至るまでの経緯すら思い出せない。思い出せないという事象に対しこれ程までに困ったことがあっただろうか。かろうじて今思い出せるのはネクタールを飲み干したことだけで、以降は雑に編集された動画のように場面が飛んでいる。一番、肝心なところだというのに。
そうか。これが所謂、酒での失敗。
「聞いているのか」
正気を取り戻したばかりで状況に追いつけていない穹をそのままに、目の前の丹恒は眦を釣り上げ、心底呆れたとでも言いたげに言葉を連ねていた。全く覚えていないのだが、自分はどうやら危ない目にあったらしい。説教の中で「危ない真似はするな」だとか「もっと危機感を持て」だとか、「状況判断が出来なくなる程飲むんじゃない」という言葉があった為に、漠然とではあるがそうらしいと察した。
この件に関して穹は何も思い出せてはいない。しかし、丹恒の説教を聞きながらどうしてか胸の奥にぽっかりと穴が開いたような虚無だけは感じ取っていた。自分の身に何が起こったのか知る為にも話に集中したいのに、胸の内側がぎゅうと締め付けられる。それから目頭が熱くなって視界が次第に滲んできた。丹恒の驚いた顔もぼやける様に歪んでしまって、見えなくなっていく。
どうしてこんなに悲しくなるのだろう。
「……ごめん。頭冷やしてくる」
目頭が熱くなり、それを合図にボロボロと涙がこぼれていく。遅れてつんとする鼻の感覚がこんなに不快なんて。
今は丹恒の傍にいたくない。こんな感情を抱くのは初めてだし、そう思ってしまった事に戸惑った。丹恒の隣は穹にとって安らぎを与えてくれる大切な場所の一つである。それはこの先もずっと変わらないだろう。なのに、どうしてか今はここにとどまっていられない。心情としては今すぐバルコニーから飛び降りてしまいたいくらいには逃げ出したかった。
出ていく為に身をひるがえした穹の腕を掴もうと、丹恒は手を伸ばしてくる。反射的にそれを避け、ついてこないで欲しいと言葉で突き放した。涙でぼやけてしまって視界はクリアとは言えなかったが、扉を潜るくらいの事は出来る。扉が完全に開くのを待たず、若干開いた扉の隙間に身体を滑り込ませて抜け出した。
これがつい数分前の事である。
そう言った経緯で穹はプライベートルトロから衝動的に飛び出し、宣言通り低温ヒュビロスに向かってとぼとぼと歩いていた。
/
オクヘイマ全体が水の都――もとい、温泉の都なのではと思わせる程に公衆浴場は各所にあるが、穹が目的地に定めた低温ヒュピロスはプライベートルトロから多少離れた場所にある。アンカーを使えば瞬時に近場まで移動できるが、一旦は自分の足で歩いて向かう事にした。歩きながら状況と感情の整理をしたかったのだ。
まず、自分の身に何が起きたのかを断片的でもいいから思い出せないかと記憶を探る事にした。ネクタールを勧められ、それをひと息に煽った記憶はある。どういった経緯ですすめられたのかも、一応思い出せる。飲んで、次第に頭がふわふわとして、それで。何かを、誰かと話したような気がする。相手が誰だったのかは思い出せない。
ネクタールを飲んだ後の事が思い出せないと分かり、ならばとそれより前の事を考えてみる。となると必然的にオロニクスの神座で見たものを思い出す事になった。
それはまるで荒唐無稽な夢だった。場所は星穹列車なのに、乗客はナナシビトではなく星核ハンターだった。姫子と丹恒がカフカと刃にそれぞれ変換されて、それで。星核ハンターと行動を共にしている自分を客観的に見る事になり、ひどく混乱した。
あれは俺の記憶じゃない。存在しない記憶だ。穹はそう思うのにミュリオンは真実だと言う。忘却された記憶だと。ミュリオンの主張を否定したいのにリアルすぎる光景がそうさせてくれない。これが夢でなく記憶だというのならそれを信じるに足る情報が欲しいのに、誰に尋ねても肝心なところで凍り付いてしまう。結局詳しい事は何も分からなかった。
記憶の中で得られた数少ない事柄の中で、カフカは自分を引き留めるために多くの代償を支払っていると刃は話した。それを裏付けるように記憶の中の彼女は当たり前のように穹を仲間と言って、優しい言葉をかけ、甘やかそうとする。
――なぜ。どうしてそこまで。
記憶を客観的かつ鮮明に見ても自分の過去だと思えないのは、仮にこれらの記憶が本当だとしても、穹にとってはやはり「存在しない記憶」だからだ。過去にどれだけ仲間として行動を共にしていたとしても、結果として彼らは穹を手放している。
もしかしたら記憶が忘却された経緯すら、彼らが時折口にする脚本に関連した行動なのかもしれない。
穹は今、星穹列車に身を置いている。それは疑いようのない事実だ。現時点で穹が拠り所に出来るのはその一点だけ。
カフカに別れを告げ、現実に意識が戻って来た瞬間に丹恒の顔を見た瞬間には安堵した。帰ってきたんだと、確かに、安堵した筈なのに。
――なんか、考えるの疲れちゃったな……。
自分の中で折り合いをつけた筈が、依然としてモヤモヤし続ける部分がある。そのモヤモヤの出所を探し続けていたら疲れてきた。一度頭を空っぽにしたい。延々と考え事をし続けてしまう頭の回転にストップをかけたい。
そこではたと気付いた。いや、思い出した。ネクタールを煽る前にも今と同じように考え事をしていて、同じ結論に達したのだ。思考を一時的に止められるならなんだってよくて、道中であった人に勧められるがままネクタールを一息に煽った。
――それから、何があったんだっけ。
歩きながら記憶を反芻するもあと一歩が足りず、思い出せないことへの苛立ちが積み重なるだけだった。居心地の悪さに耐えかねてルトロから飛び出してしまったが、丹恒にことの詳細だけでも尋ねておけば良かったかもしれないと早速後悔する。
すでに出てきてしまった以上、今更どうすることも出来ないが。
「――相棒!」
聞き覚えのある声に足を止めて振り返るとファイノンが小走りで近づいてくるところだった。普段通り、地平のどこまでも続く蒼穹のように爽やかな笑みを携えてやって来た彼だったが、穹の様子を見てその表情を曇らせた。
「公衆浴場で見かけるなんて思わなかったよ。……何かあったのかい?」
「頭を冷やしたくて低温ルトロへ全身浸かりに行こうかと思ってた」
そうだ。頭から爪先まで凍えてしまうような冷たい水に浸かれば、ネクタールのせいでほてる体の熱が下がるかもしれない。それから未だふわふわしている思考もしゃきっとして欲しいし、泣いた時に腫れたのだろう目元の違和感も落ち着いてくれたらいい。穹は今、自分が酷い顔をしている自覚がある。だからファイノンも何かあったのかと尋ねたのだろう。
それらすべての解決を低温ルトロに求めるのは重荷かもしれないが、とにかく酒を抜かないことには丹恒の前に立てない。
――そこまで考えが至った瞬間、落ち着いていた涙腺が再び決壊した。
「うぅ……。涙ってこんなに止まらないものだっけ……!」
「タイタンを前にしても臆さない君がここまで弱るなんて……。一体どれだけのネクタールを飲んだんだい? ああ、乱暴に擦るともっと目が腫れてしまうよ」
手袋を取ることすら思いつかず乱暴に目元を擦ろうとした穹の手首をファイノンは掴んだ。代わりに自身の親指の腹を使って優しく涙を拭い取っていく。随分と慣れたその手付きに、もしかしたら自分は小さい子供扱いをされているのではと頭の片隅で思った。ファイノンの身近に幼い家族か、知り合いがいたのかもしれない。
しばらくはされるがままになっていた穹だが、はらはらと落ちてくる涙は止まる気配がない。道行くオクヘイマの人達も興味や心配からか、ちらちらと視線が向けられてチクチクとささる。
ナナシビトは常日頃から目立つとはよく言われることだが、色々な星で注目を集めては目立ち、目立ち慣れて来た美少女であっても泣きじゃくることで目立つのは流石に居心地が悪い。
泣かないように。泣きたくないのに。そう考えると余計に涙腺が壊れてしまう。
「冷水に浸かるよりもっといい方法がある筈……。まずは気持ちを落ち着けて、酔いを覚ましつつ目元も冷やした方が良さそうだ。とりあえず、落ち着けそうな場所に移動しよう。それでいいかな?」
「……行く。早く酔いを覚まさなきゃ」
目的地を変えて二人は並び歩き出した。穹の状態を聞いて、ここ数時間の記憶がない事を知ったファイノンは神妙な顔つきで石板――穹にはそれがスマホに見えるのだが、彼らは石板と表現する――を取り出した。穹が想定より酷い酔い方をしていると知ったからか、酔い覚ましの方法をヒアンシーに尋ねるのだという。確かに医師である彼女であれば効率的な方法も知っているかもしれない。
「これは確認なんだけど、逆にどれだけ覚えてる? 些細な事でも構わないよ」
「ん。あんまり思い出せない。誰かにすすめられてネクタールを飲んだ事は覚えてるんだけど、そこから先はすごくぼんやりとしてて……」
問診のようなことをいくつか聞かれ、素直に答えた。ファイノンは穹の答えを石板に打ち込んでいく。画面の向こう側にはヒアンシーがいて、的確なアドバイスをくれるのだろう。
「基本的に酷く酔っている間の事は思い出せないんだね」
「うん……」
ネクタールを一息に飲み干した後からプライベートルトロで丹恒に睨まれる場面までを思いだそうとするも、やはりぽっかりと抜け落ちてしまっている。
自分はいったい丹恒にどんな迷惑をかけてしまったのか。全く思い出せない。
「あ、でも――」
しかし、一つだけぼんやりと思い浮かんだ。記憶と言うにはお粗末過ぎる、感覚的な事。
「――この辺が……。ぽっかりなんにもなくなったみたいな」
穹は自分の胸を抑える。そこには多分心臓と、星核が埋まっている。危険物が収まっているというのになぜだが空虚だ。ここには何もない。なくなってしまった。どこかに落としてきてしまったのだろうか。
「何かで埋めて欲しかったのかも」
多分そうなのだろう。自分の記憶を深堀りして、いっちょ前にセンチメンタルな気分になったのだ。お世辞にもいい気分とは言えない。
「……そうか。……よし、連絡も終わったし行こうか」
以降、それ以上の事はファイノンも深堀りしてこなかった。道中他愛のない話をしながら歩いていれば、全開になっていた涙腺のバルブも徐々にだが締まってきたらしく、涙の量が落ち着いてきた。アルコールに追いやられてしまった記憶について、一時的にでも思考をやめる事こそが今の自分には必要だったらしい。
ファイノンが酔い覚ましの場に選んだのは生命の花園だった。屋根がないからか開放感があり、緑豊かな空中庭園といった様子のこの場所は、温かい陽光と心地のいいそよ風を浴びられて気持ちがいい。公衆浴場周辺と比べて人の行き来も少なく、仕事の合間に休憩を取っているキメラがいることから分かるように一休みするにはもってこいの場所だろう。
ケファレの神体が一望できるベンチに腰掛けて、オクヘイマの陽光を浴び風に当たる。今この瞬間、ゆったりとした時間が流れていた。
「少しは気分が落ち着いた?」
「うん。飲む前の記憶ならなんとなくはっきりしてきた。……そう言えば、なんで俺がネクタールを飲んだって知ってるんだ? 何も言ってないよな」
「ああ、記憶がないんじゃピンとこないかもしれないな。僕の口から伝えていいものかは迷うんだけど」
「大丈夫。酔いも結構醒めたし、どんな真実でも受け止める」
ファイノンはそこから欠落した記憶の補完をしてくれた。自分が酔っている間、穹を取り巻くようにひと騒動あった事。そこへ居合わせたのが丹恒とファイノンで、丹恒に自分を連れて離れるよう促してくれた事。成程。正気を取り戻した自分がプライベートルトロにいた経緯が分かった。
ただし、この一連の騒ぎがオクヘイマに張り巡らされた金糸によって、アグライアを始めとする黄金裔達に伝わっているのだけは解せなかった。覚えていないことではあるが、迷惑をかけたことには違いない。
思った以上に大事になっていて流石に罪悪感を覚えた。丹恒が怒るのも無理はない。
「それで、具体的に何があったのかだけど……」
ファイノンは言い難そうに表情を曇らせたが、穹がその先を促したので観念したように口を開いた。
「簡潔にまとめると、君の貞操の危機に丹恒が激怒した」
「えっ」
彼は君を守ろうとしたんだ。――そうファイノンは言葉を続けたが、穹としては青天の霹靂だった。
自分の貞操の危機という一瞬情報の処理を拒否する言葉と、それがファイノンの口から聞かされた事。そして、感情を剥き出しにしたという丹恒。話を聞く前にどんな真実でも受け止めると言ったが、その二つを一度に受け入れろと言われても困るというものだ。
「丹恒もあんなに感情を剥き出しにするんだね。普段はとても冷静だから想像もしていなかった」
「そっか。そっかー……。あ~……。俺、丹恒に謝らなきゃ」
「そうだね。それがいいよ」
苦笑するファイノンの横でぐったりと脱力し、天を仰ぐ。そんな穹の鼻へとまる黄色い影があった。
「はは、随分と可愛らしいじゃないか。相棒」
「そこは鼻であって花じゃ……あ、もしかしてエンドモか? 確かめたいから捕まえてくれファイノン!」
「この蝶をかい?」
「そう!」
この蝶が一体何だというのか。ファイノンは不思議そうにしていたが、身を屈めて穹の顔に手を伸ばす。気遣うように優しく触れてきた指先が蝶に伸ばされた――のだが、その手は蝶ではなく虚空を掴んだ。
「へ……?」
不意に穹の視界が大きく後ろへ引っ張られる。肩に強い力が加わり、引き寄せられた瞬間に身体が上を向いたかと思えば、ファイノンを正面に捉えていた視界がオクヘイマの青空を映し出した。青いキャンバスの中をこれ見よがしに飛んでいく黄色い蝶は残念ながらエントマではない。ただの一般的な蝶だった。
ベンチに座っていた筈がなぜか仰向けに倒れた――いや、倒された穹は、自分を後ろから抱きしめるように回された腕を見る。地面に身体を打ち付けることがなかったのは見慣れた黒い防具と、白と翠を基調とした外套の袖の持ち主が穹の身体を支えていたからだ。
この時点で誰に何をされたのか概ね把握していた穹だが、ゆっくり視線を上へと向けた瞬間に何も言えなくなってしまった。
「た、丹恒?」
肩を大きく揺らす程に呼吸を乱した丹恒が、泣きそうな顔で覗き込んでいる。
呼吸を乱す丹恒など滅多に見られるものじゃない。今は戦闘中でもなければ追われる立場でもない平時だ。であれば尚の事、何かしらの異常事態が起きたのではないかと連想してしまう。
だが、一方で彼の歪んだ表情がプライベートルトロで見た怒り顔と重なった。今はあの時よりも苦しさの方が強いように穹の目には映る。思わず手を伸ばしてしまう程には酷い表情だった。
「大丈夫かい?」
視界の外側からかけられた声が穹の手を止めた。見れば、ベンチの向こう側でファイノンが心配そうにこちらを見ている。
尋ねられたなら答えなければ。穹が開きかけた口を丹恒の手のひらが覆った。代わりに丹恒が口を開く。
「また迷惑をかけたようだ。すまなかった。ありがとう」
「なんてことはないよ。ただ、オクヘイマにも色んな人がいる。いたずらに隙を見せない方がいい。そうでなくとも君達は目を引くからね」
「肝に命じておく」
「それと僕の方こそごめん。わざとではなかったんだけど、嫌な事を思い出させてしまったね」
「……他意がないのは分かっている。気にしないでくれ」
穹を置いて頭上で繰り広げられる二人の会話は、確実に穹が知らないことを含んていた。また、ファイノンが口にした「嫌な事」というのが引っかかったが、それを尋ねる前に立たされ、怪我がないことを確認すると丹恒は穹の手を取って歩き始める。その力強さに、もう逃げられないことを悟った。
腕を引かれながら慌ててファイノンに礼を言うと、大人しく丹恒の後をついていく。逃げるつもりなどないが、心の準備はしておいた方がいいだろうなと思いながら。
/
丹恒に腕を引かれ、戸惑いながらも素直にその後をついていく穹という若干心配になる構図の二人を見送ったファイノンは、穹が覚えていないと言った例の騒ぎについて思い返していた。
ファイノンが丹恒と偶然鉢合わせたのは、滝のように水が注がれる広間でのことだった。そこに様子がおかしい穹の姿もあったのは、ある意味では幸いだったのだろう。
ガゼボで誰かと話している穹を丹恒が見つけ、その隣で朗らかに話す相手が誰なのかを理解した瞬間、ファイノンは警戒心を強めた。その者は極悪人とまでは言えずとも、素行の悪さで言えば広く顔の知れた人物である。それだけならまぁ、よくある事かもしれない。穹は善人悪人問わずオクヘイマの者と話している姿をよく見かける。時々、誰かの厄介事を引き受けているのも。
旅の中で色んな人と話すと穹は言っていた。ならば、人の善悪を見極める力を持っている筈。もしもの時は会話に割って入ればいい。そう思っていたファイノンだが、隣で同様の光景を見ていた丹恒に見えたものは違うようだった。
「……穹の様子がおかしい」
険しい視線を穹に向ける丹恒は確信している。だが、ファイノンにはその微妙な違いを見極められない。彼が言わんとすることをどうにか理解しようとして、ガゼポのベンチに腰掛ける穹を観察したが、普段より大人しいかもしれないという不確実な印象を抱いただけだった。
だが、対話中の相手が行動したことで異変に気付いた。
穹はガゼポの内側に沿うよう作られたベンチに腰掛け、対話の相手は立って会話をしている。それが突然穹の隣に座ったかと思えば無遠慮に肩へと腕を回した。それなりに近しい関係性の相手でなければ受け入れがたい距離まで身体を近づけた相手の様子に、思わず顔をしかめてしまう。
だが、穹はその場から動こうとしない。拒否感を顕わにすることもない。ただ大人しく座っている。
「知り合い……、かな」
「いや、あれは」
それ以上、丹恒は言葉を続けなかった。
判断の速さと的確に水球を目的の人物に向かって打つその正確性。弓から打ち出された矢のように鋭く、真っ直ぐに放たれた水球は不埒な者の横っ面へ見事に的中したかと思うと、そのまま身体を吹き飛ばした。それだけで丹恒がどれ程の威力でもって水球を投げたのかが分かる。
これは冷静に見えるだけで、案外そうではないのかもしれない。足早にガゼポへ向かう丹恒のあとを慌てて追いかけ、その後は穹に説明した通りである。
そんな騒動の後で、ネクタールが抜けきっていない穹を丹恒が一人にするとは思えない。そう思ったら心配で、慌てて穹を追いかけたのだ。声をかけてみればまだネクタールが抜けきっていなさそうな様子から、丹恒と何かあった可能性を考えた。丹恒のことだから、まだ正気を取り戻したとは言い難い状態の穹を一人にはしない筈。しかし穹はこうして一人公衆浴場を歩いているし、近場に丹恒の姿はなかった。
もしや、二人の間で何かこじれたのだろうか。――そう想像するのは難しくなかった。
穹が拒否する可能性を考慮し、ヒアンシーに連絡すると嘘をついて丹恒に連絡した。直ぐ様返信があって、謝罪と礼の後でやはりと言うべきか、今どこにいるかを尋ねられた。答えるのは簡単だが、まずはあの騒ぎの後で穹が一人で出歩いていることの理由を聞く。
ややあってことの顛末を聞いたファイノンは、タイミングを見て連絡するからそれまで待って欲しい旨と、生命の庭で待ち合わせようと決めて会話を終えた。先に穹の酔いを覚ます方針を取ることにしたのである。
蝶を捕まえるために手を伸ばしたのとほぼ同じタイミングで生命の花園の入り口に丹恒やって来たのを見た。穹の酔いがだいぶ覚めたタイミングで連絡を入れたが、到着が想定よりだいぶ早い。もしや生命の花園まで直通で運んでくれる昇降台の近くで待機していたのだろうか。だとしたら余程穹の身が心配だったのだろう。無事穏やかに再会出来そうだと胸を撫で下ろしたのだが、次の瞬間にはそんな穏やかな安堵など吹き飛んでしまった。
丹恒は穹の姿を見つけた瞬間、ぐっと足に力を込めて弾かれたように走り出した。それはいい。穹曰く喧嘩の末に飛び出してしまったと言うから、丹恒の中で不安や罪悪感が膨らんでいて、急く心が行動に出てしまってもおかしくはないだろう。それに――あの騒動の後では仕方のない反応だ。ファイノンが穹に対して取った行動は、嫌でもその瞬間を想起させたに違いない。
だが、走り出した丹恒を見てあれは本当に自分が知る丹恒なのか、と。ケファレがもたらす陽光が見せた白昼夢を疑った。
長く伸びた髪。額から伸びる二本の角。普段彼が着ているものとは異なる意匠の服。オンパロスのどの地域でも着られていないだろう、異星の服だ。それに身を包んだ丹恒が一歩踏みしめる度に咲く蓮の花。それが大輪を広げたかと思うと、水が飛沫をあげながら軌道を描く。
穹を目指して、真っ直ぐに――。
やっと見つけた穹にたどり着いた瞬間。勢い余って引き倒してしまった丹恒は普段通りの姿をしていた。髪も短く、額には角なんて生えていなくて、ただ穹の身を案じるだけの見慣れた丹恒がそこにいた。
今何が起こったのか。ファイノンには何も分からない。考察するだけの情報もないし、今は尋ねる時ではないだろう。
「鬼気迫る、ってあんな感じなのか」
激情に背を押された者の顔を目の当たりにして、やはり申し訳ないことをしてしまったと一人悔やむファイノンだった。
/
道中二人の間に会話はなく、喧騒と、流れる水の音と、その他諸々で構成されたオクヘイマの日常だけがバックグラウンドで流れている。
どこへ行くのか明言されなかったが、前を行く丹恒の足は恐らくプライベートルトロを目指していた。穹は意識を自分の左手首に移す。正確には手首を掴んている丹恒の右手が、やけにぬくいことが気になっていた。普段、穹よりも低い体温の彼が体温を上げているというのは、もしかして自分を探し回ったからだろうか。
プライベートルトロに辿り着き、背後で扉が閉じる音を確かめたのとほぼ同時に目の前の背中へ抱きついた。丹恒の顔をみたら飛び出してきた時の事を思い出してしまうかもしれない。そして、連鎖的に涙腺が崩壊してしまったらと考えたら嫌だったのだ。きっと丹恒は泣いている自分以上に傷つく筈だから。
無事ルトロに戻れた事でほっとしたらしい丹恒が手から力を抜いた隙を突いて振り払い、腰に腕を回す。右手で自分の左手首を掴むようにしてからその肩口に額を押し付けた。穹にとっては突進に近い勢いだったのだが、丹恒はびくともしない。列車の護衛を務める彼の体幹がしっかりしていることなど、もちろん穹は身を持って知っている。丹恒に押し倒された時、その拘束から逃れられた試しがない。見た目から受ける印象以上に力が強いのだ。
穹にとっては丹恒とまともに話す為に考えた苦肉の策だったのだが、頭上では丹恒のため息が聞こえた。呆れられただろうか。いや、もうすでに何度も呆れられたあとだったような気もするが。
「……これは?」
「何か話すならこのままがいい。……ダメ?」
「仕方ないな。もう逃げるなよ」
「うん。逃げない」
広い部屋の真ん中で対面ではないものの身を寄せ合った。ぎこちない空気が流れるのはきっと自分のせいだ。何から話せばいいのか分からなくて無言が続く。
しばらくそうしていると、丹恒からぽつりぽつりと話し始めた。
「酔っている間の事は思い出せたのか?」
「ううん。でもファイノンから聞いた。俺、危なかったんだって」
「どうして他人事なんだ。お前のことだぞ」
「覚えてないから自分のことって思えなくて。でも、二人が嘘つく訳ないからそうだったんだって思うことにした」
「成程。お前らしい結論だな」
ここまで至って普通に話せている自分に安堵した。
「頭ごなしに色々言ってしまって悪かった。俺も自覚していないところで気が動転していたらしい」
「そう、だったのか?」
訳も分からず感情のままに丹恒の前から逃亡してしまった穹だが、彼も同じ状態だったと聞いてもそうとはすぐに思えなかった。冷静沈着が服を着て歩いてると言っても過言ではないくらい、丹恒の感情は表面に分かりやすく現れてくれない。しかし、飛び出す直前の会話を思い返してみれば普段よりも一方的だったような気がした。
丹恒は勢いよく説教するより、理由を説明した上で諭すような言い方をするか、穹の思考を先読みして釘を刺す場合が多い。だから穹も丹恒を「先生」などと呼んだりするのである。声を荒げることもそう言えば珍しいのではなかろうか。
「……お前が、どこの誰とも知らない者に触れられると思った瞬間。雲吟の術で作った水の球をそいつの顔面めがけてぶつけていた」
「そ、そんなにも」
「勿論水球をぶつけられた者は激昂したが、その場に居合わせていたファイノンと複数人の目撃者達のおかげでお咎めなしと判断された。だが、あれは冷静さを欠いた行動だった」
そこで言葉を切った丹恒は、穹が所在なく遊ばせていた左手を不意に握って来た。あっという間に指の間へ丹恒の指が絡められ、手の甲に指先の感触がある。手を握ったりするスキンシップは穹からの事が多くて、丹恒から手を握ってくるのは珍しい。ましてや恋人繋ぎなんて激レアだ。
「俺は自分が思う以上に、お前の身が脅かされることを恐れている」
「……ごめん」
絡めとられた手に軽く力を込めて握り返す。
声音に乗る呆れの感情は穹へ向けられたものか。はたまた彼自信に向けられたものか。だが、ここで言わなければ今後タイミングはなさそうだと思い、穹は謝罪を口にした。
「ああ。これを期に無茶なネクタールの飲み方はやめてくれると助かる」
「努力はする。……考えたくない事が出来たらまた飲んじゃうかもしれないけど」
「その考えたくない事については教えてくれるのか?」
「…………俺の中で整理がついたら」
今は教えられない。自分でもどう納得したらいいのか分かっていないのに、丹恒に話せる訳がなかった。
それ以上を聞き出すことなくそうかと短く呟き、それから彼の左手が穹の頭に触れて優しく撫でていく。髪を逆撫でないよう流れに沿って、ゆっくり慰めるように。
堪らなくなって丹恒の腰に回したままの腕に力を入れて、より隙間がなくなるよう身体をくっつけた。
「そろそろ振り返りたいんだが」
「また泣くかも」
「俺の顔を見るから泣くのか?」
「……分かんない」
「なら試しておくべきだ。もし泣いてしまうなら、その時対策を考えればいい」
手の甲を丹恒の指が撫でたのを最後に、その感触が離れていった。同時に若干の寂しさが顔を出したが、それを引っ込める勢いで身体が宙に浮いた。穹の束縛がなくなって振り向いた丹恒は飲月の姿ではないが、彼の背後から伸びる龍の尾は穹の身体を取り巻くように続いている。その尾が瞑想時に姿を表すものと同じか、はたまた雲吟の術で生み出したものなのか穹には判断できない。
驚いて思わず情けない声を出してしまった穹を見て、丹恒は柔らかく微笑んだ。無表情に近い彼の微かな笑みを見て、好ましくは思えど涙は出なかった。感情が不自然に強く揺さぶられることもなく、どうやら酔いは完全に覚めているらしいと確信が持てた。
「尻尾使うなんて反則じゃない?」
「そんなことはない」
穹の身体を優しい力加減で抱える半透明の尾は、丹恒に引っ付いていた腹と足に巻き付いて強制的に引き剥がした。若干気が緩んでいたとは言え、抵抗する余裕すらなかったことが悔しい。
「どうせ抱きつくなら前からにして欲しいと思っていた」
尾は穹を丹恒の目の前へ下ろす。今度は丹恒が穹を束縛するように両腕を広げ、真正面から抱きしめる番だった。今度は逃げだそうと思う事はなく、優しい束縛を受け入れられた。そしてなんとなくだが、先程までの落ち着かなさがなくなっていることに気付いた。
穹の肩口に顔を埋める丹恒が、大きく息を吐き出す。
「顔を見ないことを目的にするなら、これでも問題ない筈だ」
「うん。……うん。……うーん」
「どうした? ……なにか不服か?」
「不服じゃないんだけど……。不服じゃないから不服というか……」
「何だそれは」
「丹恒は俺をキュンとさせるのが上手ってことだよ」
不自然に涙が出てしまう感情の動きがネクタールのせいだとするなら、髪をかき乱し叫び出したくなるような心臓の高鳴りはきっと丹恒のせいだ。酒は抜けたにも関わらず、乱されっぱなしの感情を慰めるのに必死である。そんな穹の心情など知る由もない丹恒は、穹の背中をポンポンと規則的に叩いて落ち着けようとしてくる。そのまま寝かしつける気か。
同じ抱擁でも背中からと真正面からではだいぶ違う。より丹恒を感じやすいと言えばいいのか。一本的に背中へ持たれていた時とは違い反応がわかりやすい。彼の息遣いや行動など、顔が見えなくても分かることがある。例えば今、少し驚いているとか。
「――お前の不服を取り除くにはどうすればいい。どうしたら俺はお前の顔を見られる?」
ぐずる子供に尋ねるように、丹恒の声音は優しい。
「……キスしてくれたら、泣かなくてすむかも」
「どういう理屈なんだ」
「そんなのないよ。して欲しいって思っただけ」
すると、穹のこめかみに柔らかく押し当てられる感触があって、一瞬遅れて聞こえたリップ音を聞いてようやくキスしてくれた事に気付いた。速戦即決が早すぎて混乱したが、丹恒は続けざまに額、瞼、頬と場所を変えてキスを降らせる。
そして最後に額同士を合わせて来たかと思うと、穹の頬を両手で包み込むようにわんわりと固定する。手のひらがぬくいことに気を取られていたら、親指の腹で唇を撫でられた。あ、次はここか――。そう理解するのとほぼ同時に唇同士が重なった。
その内に酸素が足りなくなって、苦しさに涙が滲んでくる。
「結局泣かせてしまったな。それに、キスをしていてはお前の顔が見えない」
「はは、確かに。でも次は泣かないかも」
涙が零れてしまう前に穹の目尻へと丹恒は唇を寄せ、とうとう零れた一滴を涼しい顔で舐めとる。まるで猫の毛繕いのようだ。
穹が次を口にした時、丹恒は呆れたように笑った。
「俺がもう泣かないって思えるまで、いっぱいキスして」
今流したのは酔いの影響ではなく、生理的な涙だと丹恒には分からない。それをいい事にズルいねだり方をした自覚はあった。だが、丹恒からしてくれるキスが優しくて、心地好くて、気持ちいいから。もっとして欲しくなってしまった。
返事をするより行動に移したほうが早い。それを体現するように丹恒は顔を近付けてきた。だが、一つやり残したことを思い出し、丹恒の唇へと人差し指を添えて静止する。
「待った。これは今言っておかないと」
これから先、ただ慰めるだけのキスではすまなくなる。穹はもっと、たくさん気持ちよくなりたくなっていたし、大人しく待てをしている丹恒から注がれる視線は「どうしてここで止めるんだ」と文句を言っているように見えた。
「助けてくれてありがと」
「……ああ。礼には及ばない」
今度はお互いに距離を近付けて唇を重ねた。優しく啄ばむキスが次第に舌を絡める深いものに変わっていく中で、胸に空いていた穴が満たされていくのを感じていた。
きっと自分はもう大丈夫だ。忘却された記憶から目を背ける訳ではないけれど、必要以上に不安を抱える必要もない。この日のように再び不安を抱える時が来たとしても、その時に丹恒がいてくれるなら虚無に呑まれたりはしないだろう。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.