やまだ
2025-08-29 19:02:05
6043文字
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インドラ様とアルジュナくんのおままごとの話

 インドラがくつろぐアイラーヴァタのその遥か眼下で、藤丸立香が床に這いつくばっている。両膝を揃えて腕を投げ出し、額は床に擦りつけるほどだ。
 神々の王たるインドラだ。無論人間からの尊崇も浴びるように捧げられており、こういった形の礼でもってそれを表現されることもある。それそのものに対する感慨はない。
 ただインドラは日本という小国にも縁のある神であるため、知っているのだ。日本人は畏怖や感謝のためにこうするばかりではない。土下座、という、最上位の謝罪方法としてのこの形が彼らにはある。いま藤丸がおこなう礼は確実に、その土下座というものだった。
「藤丸よ」
 アイラーヴァタに置いた片肘の上に頬を乗せ、インドラは鷹揚に声をかけてやる。世界の存続を任せられるには随分ちっぽけな小娘の肩がぎくっと跳ねた。
オレという至尊へ拝するにあたり当然の礼容ではあるが、そのように黙したまま居座られては無聊である。面を上げよ。そして答えるがいい。おまえはいったいオレに何を謝罪するのだ」
 へへえっ、と下っ端のような返事をして改めて床を額で叩いた立香が顔を上げる。額に薄赤く痕を残し、頬は青ざめ、白い唇が引き攣っていた。津波のような絶望へ相対しつづけているこの人間がここまで緊張するのも珍しい。
「イ、インドラ神に申し上げます!」
 声など無様に裏返っている。
 はて、とさすがに首を斜めにしたインドラの眼下で、立香が大きく息を吸うのが見えた。
……この度攻略してきたトンチキ特異点でアルジュナの霊基に異常が発生してちょっとややこしいことになりました! つきましてはアルジュナのパパ上であるインドラ神にご相談させていただきたく参上した次第です!」
……のんきに頭を下げている暇があるならそれを早く言え愚か者が!」
「だってインドラ神絶対怒るからわあああやっぱり怒ってる!」
「何がだってだ! 当然だろうが!」
 もはやアイラーヴァタなど邪魔なだけだ。床に降りたインドラはぐずぐずと言い訳を並べる立香の腕を引き、立たせてやってから顎をしゃくる。
オレの先に立つ無礼を許す。疾く我が息子のもとへ案内せよ!」
「うう、はい、今すぐに」
「第一、なんなのだトンチキ特異点とは」
「なんかもうそうとしか言えないような特異点が多々ありまして」
……多々あるのか」
 そりゃあもう、と力強く頷いた立香から道々話を聞いたところ、今回の「トンチキ特異点」とやらはとある地母神が聖杯を手に入れたことがきっかけであるらしい。
 あまねく大地すべての生命の母を自認するアルターエゴは、親になることの素晴らしさを英霊たちへ知らしめたいと願ったそうだ。
「願うまでもなく、大抵の英霊は親であった経験があろう。教わる必要などなく、また我が子を見守った記憶が風化するはずもない」
「おっしゃる通りなんですけど、本人……本神は気がつかなかったみたいで……
 かくして踏み入ると自分は母親もしくは父親であるという認識を書き加えられる恐怖の特異点が誕生した。小川の魚を息子と思い、空ゆく鳥を娘と案じる英霊であふれる狂気の国だ。早期の特異点攻略はレイシフトした一行の総意となり、果たされた。
「果たされたんですが、こっちに戻ってからアルジュナの様子がおかしくて、ですね」
 立香が立ち止まったのはアルジュナが与えられている個室の前だ。ノックをした手を扉に添えたまま、戸惑い顔でインドラを仰ぐ。
……インドラ神」
「なんだ」
「アルジュナのお子さんに、鋼色の肌と金剛石の髪の超絶美形って、いました?」
 インドラは沈黙した。
 より正確に言うならば、絶句した。
……藤丸。藤丸よ。それはつまりオレ——
——マスター! ああ、申し訳ありません。我が子を連れてきてくださったのですね。ご迷惑をおかけしました」
 こわごわ問いかけんとしていた疑問の答えが満面の笑みとともに扉の向こうから現れた。心底から安堵した、という表情のアルジュナは、立香へ軽く会釈しながらためらいなくインドラの肘に触れる。
 神への畏敬を忘れない平素のアルジュナならばまずしない、非常に気安い仕草だった。
「インドラ神……! インドラ神、お気を確かにっ」
 斜め下で立香が何か言っていたが、それどころではない。息子に息子扱いされたのだ。神といえど混乱くらいする。
 声もないインドラに何を思ったものか、アルジュナは柔らかな苦笑とともにそっとインドラの肘を引いた。
「ほら、恥ずかしがらずマスターにお礼を申し上げなさい。慣れぬ場所で迷ったおまえを探してきてくださったのだから」
 アルジュナの中ではそのように都合がついているらしい。我が子がたまたまカルデアへ遊びに来て、施設内ではしゃぎ回っている。そんなわけがあるかと思うが、それを叶えてしまうのがかの願望器だ。
「い……いいよアルジュナ、全然気にしないで! わたしもたまたま会っただけだし」
「そういうわけにはいきません。こういうことはしっかりしないと……
 と、そこでアルジュナがふと唇を震わせた。眉をひそめ、不思議そうに何度か口を開閉する。……まるでとても親しいはずの相手に呼びかける名を知らぬように。
……はて? 私は、なぜ……我が子の名を……?」
 ざっ、と音が聞こえるような勢いで顔色を失うアルジュナに驚いたのはインドラと立香だ。
 呼ぶ名のないことで聖杯の影響から脱せればよかったところ、生来の責任感が先に立ちすぎている。子の名を知らぬ父などいないと、おそらくアルジュナは信じている。
「アルジュナ! アルジュナ、落ちついて」
……マスター。あなたにこのようなことを訊くのは非常に情けないのですが、マスターはご存知ですか? 我が子の名を」
「ええっと」
 立香がちらっとインドラを窺って目を上げた。
 今の彼に、ここにいるのはおまえの父神インドラだと告げて良いものかと迷う目だ。現実が今のアルジュナには大きな負荷になる可能性がある。けれど、まさか当のインドラの前でインドラを否定するわけにもいかない。そんな困惑しきった目をしている。
……ええっと……
 インドラは今にも気絶しかねない顔色の息子と、冷や汗まみれの小娘を見比べ、そして溜め息をついた。
 前髪を掻きむしる。
 アルジュナと立香の前で、廊下に片膝をつく。
 立香の声にならない悲鳴を聞き捨てに、インドラはアルジュナの両手を捧げ持ちゆったりと微笑んだ。
……父よ。長く離れて暮らしておりましたゆえ、我が名をひとときお忘れになったとしても是非のなきこと。お気になさいますな」
「この愚かな父に、そう言ってくれるのか」
「偉大なる勇者アルジュナが、御自らを愚かなどと嘲ってはなりませぬ。無論でございます」
……ありがとう。おまえのような善き子をもって、私は果報者だな」
 嬉しげにはにかむアルジュナはともかくとして、インドラの視界にちらちら映る挙動不審な立香がやかましい。陸に上がった雑魚のような顔でじたばたしているのも非常に見苦しい。
「父よ、どうぞ中へ。私もこの方へ礼を述べてお傍へ参ります」
「そうか。では、待っているから今度はすぐ戻っておいで。……マスター、この度はマスターに大変なお手数をおかけして申し訳ありませんでした。我が子を連れ戻してくださったこと、心より感謝いたします」
 深く頭を下げたアルジュナの背が部屋の奥へ消えたのを確かめ、インドラは屈めていた身を起こした。あさっての方向を見つめる立香が眼下でがたがた震えている。つくづく不敬な小娘だ。
「おい」
「はいっ」
……よいか。今おまえが目にしたものは他言無用だ。まさかにもヴリトラめに口走ってみろ、世界最後のマスターとやらはその瞬間地球上から消滅することになる」
「心得ております……!」
「ならばよし。アルジュナはオレが相手をするゆえ、おまえたちは構わずともよい。いざとなれば我が手で聖杯の認識を書き換えるが、そこまでする必要もなかろうな。ともに過ごすうちにオレへの違和感が重なれば自ずと目覚めよう」
 そもそもインドラを息子として扱うこと自体に無理があるのだ。おそらくアルジュナはインドラを幼児だと認識してそう扱おうとしているが、身長からして齟齬がありすぎる。インドラとしても、さすがにその年頃の息子として父親へ接するまねは不可能だ。
 無理を通そうとすれば別の無理が生まれる。重なった違和は現実を覆う薄っぺらな願望にひびを入れるだろう。
 息子を父と敬うのはなんとも珍妙な気分になるが、それも僅かな時だけだ。であればインドラが耐えればよいだけの話なのだった。
……無理してませんか、インドラ神」
 アルジュナの前で口ごもる不様を複数回見せてしまっているからか、立香が不安そうにしている。
「何がだ。息子のごっこ遊びに付きあってやるだけではないか。人間の子にはそういう時期があるものなのだろう?」
 鼻で笑うインドラを、立香は瞬きしながら見つめ、そしてだらしなくへらっと笑った。
「そうですね。わたしも、お父さんお母さんとおままごとで遊んだことがありました」
 
 
 アルジュナは子煩悩な父親であったようだ。
 立香と別れ部屋へ足を踏み入れたインドラを見るなり、「父」はとろけるような微笑みでこちらへおいでと椅子を引いてくれた。
「父におまえの話を聞かせておくれ。私の知らない場所で、おまえが何をしていたのかを」
……はい」
 おそらくインドラについてアルジュナが知らぬことはない。神とは存在が大きく慣ればなるほどおよそ秘匿からかけ離れるものだからだ。
 一瞬迷い、結局当たり障りのないところを口にする。
「私は戦士でした。と言っても父よ、ジシュヌよ。あなたのように常勝とはいきませぬ。勝ち、負け、そして時には勝負より逃げました」
 アルジュナが弾けるように笑った。ぎょっとしたのはインドラで、彼のこれほど屈託ない笑顔などこれまで、生前を含めたとしても、見たことがない。
「素晴らしい。おまえは戦の見極めがうまいのだね、我が子よ。これまでのすべての戦いから生き延びたのなら、それは優れた戦士の証だ」
 そしてインドラの髪を撫でなどする。おまえは額を出したほうが男振りが上がるだろうに、と笑う。
 思わずインドラが顔を顰めると、それにも笑って眉間の皺をつつかれた。
「その長所を伸ばすといい。勝ちにこだわらずとも、勝たずともよい。生きていてくれさえすればいいのだから」
 本心からの言葉なのだろう。アルジュナの声は噛み締めるようで、真摯な響きがあった。神としてのインドラでは決して聞くことのできないだろう言葉だった。
 そして、きっとアルジュナはこれをインドラに知られたくはなかっただろう。インドラの前で、彼は常に誇り高く輝く完璧な戦士だった。
 自嘲で口角を上げるインドラへアルジュナが椅子を寄せる。肩が触れるほどの距離で、彼は笑いながらインドラの髪の中へ鼻先をうずめた。
「なっ……! にを、なさっておいでか、父よ」
 ふふふ、と耳の裏で笑われるものだから落ちつかない。
「私も父上からこうしていただいたことがある。膝に乗せてくださってな。もっとも、当時の私はもう子どもではなかったが」
 インドラはそっと、慎重に息を呑んだ。あまり大袈裟に緊張すると、きっとこの心優しい父はいとけない息子が怯えたと勘違いして離れていくだろう。
「ありがたいことに私にはふたりの父がいてくださるが、おまえはそのうちのおひと方によく似ている。偉大なる雷霆神、インドラ・マガヴァーン、かのお方に」
……父よ」
「うん?」
 アルジュナはまだインドラの髪を嗅いでいる。顔が見えずに、顔を見せずにいられることに安堵する。
「あなたは……お父君を愛しておいでか」
「我が子よ」
 蜜のような声でアルジュナは笑った。
「子を愛さぬ父がいないように、父を慕わぬ子もいないものだ」
 それを聞いてインドラの肩から力が抜けた。
 この子がそう思っているならば、それでいい。彼にとって親がそういう存在なのだったらそれがいい。インドラもそれを信じられる。インドラは息子を信頼しており、愛している。
——父よ」
 体を捻って振り返る。アルジュナは穏やかに微笑んで息子を見つめていた。インドラとよく似た息子を。
「我が名をお教えしよう」
 インドラもまた、息子を見つめて微笑んだ。
「我が名はシャクラ。オレこそがシャクラである。アルジュナよ。我が息子よ」
 アルジュナの瞳が瞬き、数秒ののち頓狂な悲鳴とともに丸々と見開かれるのを、インドラは至近距離から愉しく見守った。
 
 
「大変、大変申し訳ありませんでしたっ……
 椅子の上で器用に正座する息子へ、インドラは横を向く顔の近くでひらひら手を振った。
「構わん。許す。そも、今回おまえは被害者であろう」
「だとしてもです……このような振る舞い、とても英雄とは言いがたく。まさか偉大なるインドラ神を我が子などと……!」
 すっかり普段のアルジュナに戻ってしまった。
 わなわなと震えて今にも霊体化、どころか退去も辞さない覚悟でいるような息子は、間違っても先までのようにとろけるような微笑みを浮かべるとは思えない。
 だが、だからこそ安心した。
 ここにいるのはインドラの父ではなく、インドラの息子なのだから、こうでなくてはならない。
「アルジュナよ。オレは許すと言ったぞ」
「は……しかし」
オレは息子のままごと遊びに付きあっただけだ」
 ぐ、と唇を引き結んで黙りこんだアルジュナを、首を傾けて一瞥する。
「今回はそれだけのことだった。ゆえに、オレはおまえの自罰を望まぬ。……よいな」
……仰せのままに」
 渋々と、本当に渋々とアルジュナは頷き、椅子に器用に正座したまま頭を下げた。丸く小さい頭だ。
「うむ」
 ついそこに手を置いてしまい、置いてしまってからインドラは自分で自分にぎょっとした。
 慌てて、しかし神として見苦しくない速度で引いた手の下からは、案の定ぽかんと目と口をまるくしたアルジュナが現れる。
 許せ、とも忘れろ、とも言えずに見つめあうことしばし、ふっと落とすように笑ったのはアルジュナだった。
……子を愛さぬ父がいないように、父を慕わぬ子もいないもの。あれは私の実体験に基づく言です、……父上」
……む。……うむ」
「ご迷惑でなければ、またお話を聞かせていただけますか。今度は、正しく父と息子として」
…………うむ」
「ありがとうございます」
 アルジュナは晴れやかに笑ったようだった。
 横を向いたまま動けないインドラは、視界の端にそれを映すだけで精一杯になっていた。