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いさき
2025-08-28 11:09:17
2884文字
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オメガバ鴨(メル)
鴨志田(α)×メルト(Ω)未満
それは本当にたまたまだった。
あまり訪れたことのない場所での仕事。帰りにエレベーターが故障してて、仕方なく階段を使おうと建物内をうろうろと歩いていた。慣れない場所で間違えたのか人通りも少なく、尋ねる相手も見当たらない。そんな時だった。
くん、と鼻先をくすぐるような甘い香り。
αの本能をガツンと刺激するような、頭から全身が痺れるようなその香りと心当たりのあるその正体に、発生源を突き詰めたい本能と面倒ごとは避けたい理性が交錯しつつも、巻き込まれないようにと自然と進める足が早くなる。
しかし進めば進むほど濃くなるその香りに、遠ざかっているつもりだった発生源が進む先にあるのだと気付いた。
やっと辿り着いた階段の、その側にあるトイレ。
人気のないそこから、発情期のΩの香り。
咽せるほどの濃い香りが辺りに充満していた。
関わらない方が賢いことは明らかだと理解していながら、大きな溜め息を吐き出してその中へと足を踏み入れた。
「お邪魔しまーす」
ぶわっと襲ってくるような強烈な香りを辿るように進んだ男子トイレの奥の個室は、ひとつ、扉が閉まっている。
頭がくらくらするほどの甘い誘惑に堪えながら、その扉をコンコンとノックした。
「おーい」
ガタン、と扉の向こうで音がした。誰かがいるのは確かなようだ。
「ヒート? 薬持ってる?」
一瞬、しん、としたあと、扉の向こうで生唾を飲み込んで吐息が漏れるのが聞こえた。
「
……
も、持ってない、です」
色っぽい掠れ声。どくん、と心臓が大きく揺れた。期待する本能を抑え込んで、平静を装う。
声が、若いな、と思った。
ごそ、とカバンの中を探って小さなケースを取り出す。
「念の為に持ち歩いてる抑制剤、合うかわかんないけどないよりいいだろ」
こんな業界だと売れているやつはαの方が多い。とはいえ自衛はしておくに越したことはないと、Ω用の抑制剤も少量ながら常備している。
返事はない。
「あー、知らない奴から渡される薬とかやめとく?」
よく考えたら、向こうからすれば自分のトラブルに都合よく現れた見知らぬ相手から渡される謎の薬なんて怪しさしかない。
受け取ってもらえないなら次の策を、と考えようとしたところに、中から慌てたように返事が返ってきた。
「それは、
……
大丈夫、です
……
ありがとう、ございます」
「そ? じゃあ下から渡すから受け取って」
早く受け取って欲しい気持ちで、言いながらその場にしゃがみ込んだ。個室の扉の下から薬を差し込む。
我ながら随分いつも通りに振る舞えていると思うが、正直頭が眩むほどの状況なのだ。自身の演技力の高さをこれ程喜ぶことはないだろう。
「扉開けんのは怖いでしょ、お互い」
「ありがと、ございます
……
」
差し込んだ薬を相手が受け取る。ちょんと触れた指先から電気でも走ったかのように肌がぞわりと震えた。
「
……
っ」
心臓が、相手にも聞こえてしまうのではと思うくらいに大きく鼓動した。
指先が触れるだけでこうなのだ。扉なんて開けてしまえば、自分も行動に責任が取れない。
噎せ返る匂い。あまりにも甘いこの香りに身を任せてしまえばどれほど気持ちがいいのだろうか。
相手の姿を見たい、肌に触れたい、舌を這わせたい。
抱きしめて、開いて、奥まで暴いて。
日常生活で考えたこともないような、乱暴で邪な自分を自覚させられる香り。理性を手放してしまえばどんなに心地が良いのだろう。
本能を刺激する香り。
呼吸が乱れるのをぐっと堪えて、扉からゆっくりと離れた。この向こうにいる相手を、このままどうにかしてしまいたい気持ちを抑えて、胸元を握りしめた。
数を数えながら息を整え、またなんでもないような仮面を被る。
「それ飲んで落ち着いたら離れた方がいいよ。この辺り、アンタの匂いすげーから」
ゆっくりと落ち着きながらトイレから出た。
頭の中を支配してしまいそうになる悪魔の囁きはその場所から離れるほどに落ち着いてきた。
本当に、自分を褒め称えたい。
一階、二階、三階と階段を下って、もういいだろうかと電池でも切れたようにその場にしゃがみ込んだ。
香りはこの場にはもうほとんどない。近付きすぎて鼻が馬鹿になった可能性はあるが、そうでないことを祈るばかりである。
大きな溜め息を吐き出して膝を抱えて座り込んだ。なんとか荒ぶる本能を抑えて、危険を回避した自分をしっかりと褒めてやる。
まさかΩのヒートに遭遇するなんて。
もしお互いに制御出来ない状況であれば、芸能人生どころか人生が終わる。
とはいえ、ないはずの残り香を探して、くん、と鼻を鳴らす。
回避した安心感で脱力した。それに間違いはないのだが。
実際、あの香りは今まで生きてきた中で何より一番好みだった。
ヒート中のΩに遭遇したことは稀ではあるが初めてではない。それでも、こんなに良いと思える香りではなかった。
勿体無いことをした。余裕が出てくるとそんなことまで考えるようになった。あんな好みの香りをしている相手なんてなかなか出会うことはない。違う出会い方をして、女の子だったら、
————
いや、女の子じゃなくても、きっと繋がりを求めるだろう。
顔が見たい。連絡先をきいて、二人で会って、触れて、舐めて、確かめたい。
自分のモノにしたい。
抑えたはず本能が、牙が疼く。
ハッとして口元を手で覆った。思い出すだけでこんなになるなんて、本当に。
無事に落ち着いてればいいけど、と上階の方を眺めてからゆっくり階下へと足を進めた。
それにしても、あの声、どこかで聞いたことある気がするんだけど。
どこだったかな。
○○○
ぜったい、鴨志田さんだった
……
!
今日は体調が悪くて熱っぽくて、なんだか悪寒までしてきた、なんて油断してたら周期の乱れたヒートだった。慌てて人気のない場所へと走って、とりあえず個室に身を隠したはいいものの、体調は悪化するし体は熱くて堪らないし、茹だる意識で朦朧としていたら誰かが来た。発情期の香りが引き寄せてしまったんだとしたら
……
。人気のない場所を選んだのが悪手だった。助けを呼ぼうにも誰もいない。
コツコツと靴音が近付いてくる。どうか、どうか穏便に済んでください、俺に気付かぬよう、扉を越えてこないよう、個室の中で祈っていた。
すると、聞き慣れた声が、気遣ってくれる言葉が聞こえて、心が震えた。鴨志田さんのことはαだと知っていたから一瞬身構えたものの、気遣いに、安心に声が出そうになってしまった。
少しだけ触れた指先から、αの、鴨志田さんの優しさを感じてしまって。
こういう、心が弱って自分に余裕のない時って、相手の些細な行動すら世界の全てのように感じてしまう。
疑うことなんてなく、薬を飲み込む。
言えないお礼を胸に抱いて、症状が落ち着くまでの時間を自分の肩を抱きながら耐えて過ごした。
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