行かないでくれと縋り付くことができたら、物分かりの悪い子供のように駄々を捏ねて泥に塗れて四肢をばたつかせ八つ当たりができていたのならば、現在は変わっていたのだろうか。
きっと変わるわけがないし何度繰り返したって義憤と疑いにとりつかれた自分がそんなことできるはずがない。せいぜい今のスバルにできることはそんな「かもしれない」の分岐を夢想して自分の矮小さと女々しさに死にたくなる気持ちを抱えることだけだ。
生きていれば、命さえあれば。
それだけを想って生きてきたはずだったのだが。
ふと後ろを振り返ってみた時、何か大きな選択を間違えたように感じる。
いつだって瞼を閉じれば青と緑がちらつく。
ふとした瞬間に囁かれる記憶はいつまで経っても褪せないままで。
どうして彼女は心の底から笑ってくれなくなったのですか、どうして俺は貼り付けた笑みを日々浮かべているのですか、どうして大事な人から大事なものを引き剥がすような真似をしたのですか。
どうして、どうして、どうして。
でも、でも、でも。
みんな笑っていない。俺だけが笑っている。
みんな笑っていないのにみんなに笑われている。
何にもできない嘘つきの出来損ない、でもそれって否定することもできないただの正論。
ナツキスバルが俺を見ている。
あの日、魔女の手を取った代わりにすり抜けていった青にみっともなく縋り付く、何にもできなかった俺はいつもそこに座り込んでいる。
「あー、死のう」
***
パッ、とスバルの手から酒の入ったグラスが取り上げられた。緩慢な動作で酒を奪った人間を視界に収めてやろうと頭を上げればどうやらこれは都合のいい夢だったようだ。
「――オットー」
「……こんな飲み方したら体に悪いですよ」
声をかけるつもりなんてなかったのだ。
ただ、グラスが落ちそうで、それ以上にぐらぐらと揺れる細い体が床に叩きつけられるのがはやそうで。
目に余ってしまっただけで。
ルグニカの英雄ナツキスバルはぼうっとした顔でオットーの姿を視界にとらえると名前を呼び、へらりと笑った。ぐわん、と頭が右に倒れてその黒瞳からポロリと涙が落ちる。
「ぅ、あぁ」
「え、えっ」
深酒もほどほどにしろと水の一杯でも渡して離れるはずだったのに。
地竜も泊まれる商人用の安宿、寝台に腰掛けたオットーはそこに転がされたままぽろぽろと泣き続けるスバルを見て困ったように頭をかいた。
泣き止もうと努力はしているらしく何度かしゃくりあげて鼻水を啜る音も聞こえてくる。ただその涙に濡れた双眸がオットーの姿を捉えるやいなやスバルは泣く。
ちなみに泣きやむまで一度席を外そうかと思いもしたのだが酔っ払いとは思えない馬鹿力で外套を引っ張られたためオットーはこうして変わり果てた英雄になった知り合いを見つめている。
「何が英雄なんでしょうねえ」
だってこんなにも弱い。
涙で揺らぐ黒が、どうしようもない弱さをのぞかせている。どれだけ完璧で大衆の前で笑顔を浮かべても、張りぼてをやり通せばやり通すほど脆く、弱くなるのだろう。
「ぅ、ぐすっ」
「ちょっと寝たらどうです?」
「やだ」
「ええ……」
「寝たら、夢、おわっちゃうだろ」
オットーはぱちりとまばたきをした。どうやらこの男は今現在のこの状況を夢だと思っているらしい。無意識に涙の流れ続ける目尻に指先を伸ばせば甘えるようにすり寄られた。
「寝なかったら、オットーがずっとここに、夢だから、俺に都合が良くって、んんぅ」
「……夢の中に僕が出てくるんです?」
「うん。……なんでキスした?」
「僕が出てくるんです?」
「いつもの記憶と違ってなんか今日変だな……」
ちゅうともう一度口を吸ってやれば酔っているのもあるのだろうが全てを夢だと処理したらしいスバルはオットーの首に腕を回してすり寄る。
「まぁいっかぁ。んふふ」
「危機感がない……」
「寂しかったんだから仕方がないだろ、いたいけな男子高校生を甘えさせろ。お前が悪い」
「はあ」
「わかる、わかってるよ。俺が悪い、俺がお前にこれ以上傷ついてほしくなくて、お前も貸し借りがなくなって俺のとこにいる必要がない。そう、全ては必然でどうしようもないことだったんだ」
ぐりぐりと押し付けられていた頭が離れ、巻き付いていた腕もずるりと力が抜ける。密着していた体の間をぬるい風が通り抜けた。
ぐちゃぐちゃになったシーツの上で困ったように涙を流しながらスバルは笑う。
「生きていてくれればいい、命さえあれば、生きていてくれればそこにはずっと可能性がある。俺はお前に想われる価値のない男だし、俺にはお前をしばる権利はないけれど。なぁ、勝手に幸福を祈るくらいの余地はあって欲しいよ。なぁオットー」
そっと両の頬を挟まれて一瞬口付けられる。
「――俺は、お前に友達でいてほしかったよ」
「僕だって……!」
もしかしたら自分たちはまだ、あの森の中にいるのかもしれない。手を離したのはどちらからだっただろうか。
でも手を離すことに同意したのはどちらもだ。
離れた距離を埋めるように、縋るようにずいぶん細くなったと感じる体躯を抱き寄せて唇を寄せる。
背中に回した手を後頭部にずらして逃げ場をなくしてからその薄い唇を割って舌を捻じ込んだ。びくりと驚くように跳ねた足は絡めて固定し、逃げられないように体重をかけ、縮こまった舌を引きずり出してやる。
体に当たる異物が気になり、スバルのペンダントを首から外し、体に変な形で巻き付いていた外套に適当に包んで放り投げた。
一瞬視線がオットーから外れたのが気に食わず、引き出した舌を歯先で軽く噛んでやれば許しをこうようにぺちゃぺちゃと舌先を舐められる。
唇の外で繋がったせいで溢れた唾液がスバルの顎を伝ってシーツにシミを作った。
懸命に追い縋る姿がかわいくて、かわいそうで。 ふ、と吐息で笑えば涙を笑われたと勘違いしたスバルがゴシゴシと目元を強く擦った。
「涙、とまりませんね」
「うるさい……泣きたくなんてないんだよこっちも」
「泣けばいいじゃないですか」
「みじめだろ」
睨みつけてくる瞳からはやっぱり雫が溢れてやまないがなぜだかオットーはそれでいいと思った。
それを現す言葉が見つからないから、薄く口を開いてキスの続きをねだる生き物に応えてやることにした。
懸命に生きてきたのだと思う。
でも彼は大勢が思うより賢明じゃなかっただけで。
「置いていかないで」
オットーは彼が何故ここまで自分に執着していたのかがわからない。なんであの時何も言わなかったんだなんで責める気もない。でも今のオットーが今のスバルを放っておけないという感情だけは無視できなかった。
震える手のひらが可哀想で、唇は離さないまま手のひらの隙間がないくらいにぎゅうと握り込んでやれば安心したのか組み敷いた体の力が更に抜けた。両足もオットーの腰に絡みついてきていて肘でほんの少し浮かせているが体重は全部体の下の男にかかっているだろう。
でもその圧迫感すら望まれていそうで、拒まれないことをいいことに自分勝手な解釈に頷いてオットーは腰に回した腕に更に力を込めた。
***
「……死にたい」
「やめてくださいね?」
赤くなって腫れた目元を晒してオットーに土下座したスバルは項垂れたまま呟いた。
今すぐ舌を噛んで死んでやりたいが残念なことに唇も腫れているし舌先だってちょっと感覚がない。
目を擦りながら隣に腰掛けているオットーに笑いかければ変なものを見るかのように顔を顰められたあと、しっしっと手の甲であおがれた。
「なんですかその笑顔気持ち悪い」
「俺の渾身のスマイルを気持ち悪いってお前」
「そんなんなら昨日の泣き顔の方がうんとマシですよ」
「趣味、わる」
目を逸らせば隣でオットーが大きなため息をつくのが聞こえ、怯えるように肩を揺らしてしまう。
取り繕うように笑おうとするが気持ち悪いと言われた後で表情の取り繕い方がわからない。俯いて固まったスバルの鼓膜をオットーの声が揺らす。
「あれだけ飲んだくれてましたし、変なら笑い方覚えてきているし。どうしたんですか」
「……べつ、に」
「なるほど」
瞬間、スバルはオットーにぐい、と引き寄せられた。まるで友達の距離感で肩を組まれてイタズラっぽく囁かれる。
「ナツキさん、今の僕はあんたの力になれるかもしれませんよ」
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