racmon
2025-08-26 23:02:40
2316文字
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【web再録】Bye-Bye,Locksmith.

以前発行したweb再録本の書き下ろし2本の内、
表題作の再録です。

「ろしょンちの鍵返すわぁ」
 後ろから降ってきた声に、奥歯がギリリと音を立てる。狭いリビングには、どの角度からも奴の荷物が視界に入る状態だった。合鍵ももはや私物のうちだ。
「あとで大家さんに直接渡せや!」
 そう言い放った勢いのまま、重い荷物を持ち上げた。一旦廊下まで移動させ、またリビングに戻る。それを何度も繰り返している。汗が滴るほどに働いている俺の後ろをついてくるだけの簓は、数えるのも嫌なほどのそれをジャラリと鳴らした。
「俺無断で作ってるもん。絶対怒られる」
「おーよう分かっとるやないか」
「たぶん盧笙も怒られる」
 はたと動きを止めた。たしかに、大家からしてみれば、無断で作ったのが簓であろうと、その管理が出来ていなかった俺の責任を問うだろう。無意識に声が低くなる。
「ほな俺に返したかてしゃあないやないか」
「せやねん。どないしょ」
「どないしょて、なんでそれを今言うねん」
「だって名残り惜しかってんもん」
 寂しげな瞳で訴えられてもまったく共感できない。黙って見下ろすと「調べてみる」と小さな声で申告しスマホを取った。
「フン……
 しばらく勝手にさせておくことにした。俺は荷造り作業に専念する。要らないものはある程度処分したつもりだったが、次々に段ボールが積み重なっていく。ここまでの段階にくるのにも大変苦労した。
 台所の肥やしとなっていた調味料を使い切るためここにきて自炊をはじめてみたり、着倒したお気に入りのTシャツを泣く泣く雑巾にしたり。
 決して広くはない部屋に、随分と物を溜め込んだ。思い出もたくさん、数えきれないほどある。
 隣の独り言が静かになった。視界の端で、簓はおもむろにキャップ帽を被り立ち上がった。
「おいどこ行くねん」
「鍵屋さんやわ盧笙」
 こいつは手放すのを諦めて永久に増やし続けるつもりなのか──顔を歪めた俺に、簓はすっきりとした表情を見せた。
「頼んだらどないかしてくれるらしい! 今までのお礼も言うて、挨拶してくる!」
 半袖にハーフパンツ、ビーチサンダルを履いた後ろ姿が勢いよく飛び出していった。玄関が開いてから閉まるその一瞬に、刺すような日差しと蝉の声を浴びた。いつかの夏と記憶が重なる。
 お互い少し痩せていて、でもアイスクリームなんかはいくらでも食べられた、今とは似て非なるあの頃の俺たち。
 手元にはちょうど、当時の品が詰まった段ボールを抱えていた。

 ◇

 夢の中でも完璧に再現できる道を、今日はじっくり眺めながら進んだ。馴染みのアーケードをくぐり、所々錆びた看板を目指す。店先に顔を出すと、鍵屋の店主は大袈裟に仰け反った。年季の入った回転椅子が軋む。
「またか! 僕もうええ加減ソラで作れてしまうわ」
「今日はちゃうねん。これ全部処分してもらおおもて」
 店主は鼻先にかろうじて引っかかっていた老眼鏡をかけなおし、鍵の山をまじまじと見た。
「卒業やねん」
「それは、それは──」
「俺ら一緒に、あの部屋から」
 俺がVサインを見せると、店主の体はぴょこんと跳ねる。それから「それはそれは!」と嬉しそうに繰り返した。
「ちゅうことで、大家さんには返されへんし、頼れるんおっちゃんしかおらへんねん」
「まあ僕も共犯みたいなもんやからなあ」
「最初にここで作ってもろてほんまによかったわ。誰も噂なんかせんかったからなあ」
「当たり前や! 僕を誰やおもてんねん!」
 彼は口端から見えないファスナーを引いて、最後に手首をくいっとひねる。頑丈に施錠されたその口に俺は膝を叩いた。

 早く戻らないとそろそろ盧笙に叱られてしまう。俺は店主に鍵を託し、最後の会計を済ませると引き戸に手をかけた。時間があったとしても、長居はしなかっただろう。
「もう二度と来るんやないぞぉ」
 オオサカの商売人の風上にも置けない台詞だ。しかし全くその通りではあって、参ってしまう。
「ワハハ! ありがとぉ!」
 店主は椅子から立ち上がり、曲がった背中を限界まで伸ばして手を振った。俺も大きく両腕を広げる。
「ほなね!」
 この場所にさよならを言えるときが来るなんて思いもしなかった。一度頬をつねっておくべきだろうか。商店街を歩きながら、両頬を思い切り引っ張ってみた。
「アイタァ!」
「そらそやろ!」
 すれ違う街の人たちが一斉に振り返った。頬は痛いし、みんなは面白いし、さすがに笑い過ぎて涙が出そうだった。

 部屋に戻ると汗だくの盧笙が廊下に転がっていた。目の前でエコバッグを揺らしてみる。
「アイス?」
「よう分かったな!」
 冷気が、と茹だる暑さから逃れるように中を覗き込んだ。プリン味があれば迷わずそれを選ぶが、クリーニング屋の軒先にある冷凍庫にはそんな洒落たものはなかった。バニラ味の棒アイスか、かき氷の二択。どちらも懐かしい味だ。
「好きな方食べ」
 盧笙はかき氷を取った。密かに予想していた選択は大当たりだった。巻かれたラグを背もたれにして、床に腰を下ろす。よく見るとフローリングには細かい傷が刻まれていて、ここで過ごした日々の長さを感じる。
「盧笙住所覚えた?」
「まだー」
 荷物の山から書類の束を手繰り寄せる。新しい住所を読み上げて、盧笙に聞かせた。二人で暗唱して、馴染ませる。
「ちゅうか鍵、標準渡しで六本てな。そんないっぱいいらんよな」
「どの口が言うてんねんほんま」
 呆れ顔で一瞥されたが、向き直ってから言った声色は笑っていた。

 鉄骨階段を踏み鳴らす。たくさんの思いと共にあった音色を奏でる。二人分の荷物と、明るい未来への期待をいっぱいに抱えて。