鬼太郎が小さい頃、水木の家には星のような形がちりばめられたガラス戸があった。その頃はごくありふれたもので、水木家では、台所と居間の間の引き戸に嵌められていた。
水木は時々鬼太郎の手を取って、これが鬼太郎の星、こっちはみずの星だよ、と茶目っ気のある顔で言うことがあった。
鬼太郎はぐずることはそこまで多くなかったが、全くなかったわけでもなく、そんな時に水木は自分の膝に小さな丸っこい体を抱っこして、ちんまりした指を取って一緒にガラスを触りながら言ったものだ。あまり意味はわからなかったけれど、水木の帰りが遅い時は水木の星とされた少し大きめの星型をじっと見つめたり、何度も指でなぞったりした。そうすれば水木がそばにいてくれるような、彼に触れているような、そんな気がしたからだった。
もう少し大きくなってからは、その引き戸のガラスの上ででたらめな星座をいくつも作った。メザシ座とか、サンマ座とか…、目玉座を作ってふたりでくふくふ笑いあったりもしたっけ、と懐かしく思う…。
畳んだ洗濯物の横、座布団を折って枕にした水木が寝ていた。午後の早い時間なら夜が早い水木にも気を遣わせないかと思ったのだけれど、こんなこともある、ということだ。
起こさないように水木のそばに座り込み、鬼太郎はまじまじと水木を見る。
自分が小さい時とほとんど変わらない。もしかして、気のせいかもしれないけれど、少しだけ目尻にしわができたか…?と思う程度。
胸が規則正しく上下し、寝息に産毛が少し揺れて見えた。触りたい。鬼太郎の胸のうちから自然とその思いはわき起こった。そのまま無意識に手を伸ばしかけ、いけない、と握り込む。
…触れたい。いや、触れようと、指がなぞろうとしたことが、幼い日になぞったでたらめな星座や水木の星のことをなぜか思い出させた。あの時と違い、今は、たやすく触れられる距離にいるし、それを許されてもいる。
それでも指を握り込む。
「…………」
水木は気持ちよさそうに寝ていた。もしかしたら疲れているのかもしれない。夜暑くて寝苦しいとか…、エアコンにはどうにも慣れないとぼやいていたことがあるから、夜も窓を開けるとか、扇風機だけだったりするのかもしれないし。
もう、玄関に鍵をかけなくても良かったような時代ではとっくになくなっているのに。危ないと言ってもどこ吹く風、こんなあばら家に泥棒なんぞ来ないだとか、来たとしても戦争帰りを舐めたツケを払わせてやるだとか、冗談のようなことしか言わない。鬼太郎は気が気でない。烏をはじめ、近くにひそむ生き物たちに変わったことがあったら知らせるよう含めてはいるけれど…。
顔を近づける。生きている熱と、確かに存在している質量がぐっと近くに感じられる…。
触りたい。口づけがしたい。
無意識に自分の唇を舐めていて、ハッとする。ばつが悪い思いで庭を見る。少し草が生えてきている。こう暑くても草だけは元気だと、これも水木がいつぞやぼやいていた。
幽霊族の感覚からすれば、雑草とそれ以外を区別するのは不思議に思える所もある。ただ、そこまで長い時間ではないとしても、水木という人間に育てられ、人間の環境に身を置いていた鬼太郎は、共感や理解はできなくともそういうものだと知っている。
草取りでもしておいてあげようかな、と腰を浮かせかけた時のことだった。油断していたのは否めない。
「…っ、みず、」
膝に、寝ているはずの人の手が触れた。驚いて顔をみれば、物言いたげな顔で水木がこちらを見ていた。
水木が、鬼太郎を。
「…起きて、」
「手」
「え?」
「手、貸せ」
少し掠れた声からすると、完全に狸寝入りだったわけでもないらしい。起き抜けのような声は、共寝をした後の朝のことを少し思い出させる。
知らず頬を染めた鬼太郎にやや眉を寄せた後、水木はまごつく鬼太郎の手を自分で捕まえ、己の頬に導いた。
「あ、あの…?」
「いつ触ってくれるのか待ってたんだぞ」
少し拗ねたような言い方はわざとのような気もする。鬼太郎をからかっているような。…でも、いくらか、何割かは本当かもしれない。
鬼太郎は息をとめ、そうして、そろりそろりと水木の頬を撫でる。子猫を撫でるように優しく。
「…触って良かったんですか」
水木は気持ちよさそうに目を細め、うん、と頷く。まだ少し眠そうに見える。
「いいよ」
水木は目を閉じる。鬼太郎の手を、したいことを、全てを受け入れてくれようとしている。
それは、育ての親だからではなくて。
「…恋仲だろう?」
ひそめた声は、さすがに水木にとってもその言葉は気恥ずかしいものだったからか。鬼太郎も釣られて少し赤くなったが、はい、としっかり頷く。水木に捕まえられた右手だけではなく、左手も彼の頬に添える。
「…はい。そうです」
繰り返せば、水木は目を開けて少し笑った。目をあわせ、それからもぞもぞと自分の腕を引っ張り出し、とんとん、と今度は指で自分の唇を示す。
「ん」
軽く突き出すような唇。そこまでされて間違うわけにいかない。
…ほんの少し、目測は外れてしまったが。
「…よくできました」
茶化すような言い方をして、その実水木の目元もほんのり赤い。照れ隠しだ。
そうとわかれば、──水木の顎をとらえ、驚いたように見開かれた目から視線わ外さないまま、もう一度口づける。今度はしっかりと重なった。
「…………」
開けてと舌先でつついても、頑固なことに貝の口は開かない。けれど、それはそれで水木らしいように思えて、鬼太郎はゆっくり離れてから肩を揺らして笑った。
「恋仲って、いいですね」
素直な感想は水木の不意を十分についたようで、身構えていなかった彼は呆気にとられ…、耳まで赤くなった。
そこまで照れるとは思っていなくて、鬼太郎はびっくりしてしまう。
「……みずき、さん?」
恐る恐る名前を呼べば、ぷい、と顔をそらした後、まあ、そうだな、と煮え切らない返事が聞こえて、鬼太郎は笑わないようにするのが大変だった。
「…覚えてますか?昔のうちに、星がいっぱいあるようなガラス戸があったこと」
「……?覚えてるが、急になんだ?」
戸惑いを含んだ声ながら、直接には関係ない話だからか水木も返事をくれる。
「さっき思い出していたんです。小さい僕がなかなか寝ない時、これは鬼太郎の星、これは水木の星…って話してくれましたよね」
水木はきょとんとした顔になり、首をかしげた。覚えてないのかな、と思いかけた鬼太郎に、彼は言う。
「そりゃ覚えてるが…おまえ、こーんなに小さかったのに、よく覚えてるな」
「そんなには小さくないですよ…そんな、ミカンみたいな」
水木が手で「こーんなに」と示して見せた大きさときたら、歳暮にもらうミカンより小さいのではという程だった。さすがに呆れた顔をした鬼太郎に、こんなんだったって、かわいくって、と水木はなぜか譲らない。
「…もう。じゃあ、それでいいです」
「なんだよ、それでいいって…」
張り合うのもバカバカしく、というかむきになる水木が子供っぽくて可愛く見え、鬼太郎は肩の力を抜いた。
「…水木さんの帰りが遅い時、あの星に触れていたんです。水木さんのかわりに」
「…………」
いわれて、水木は固いものを飲み込んだような顔をした。
「だけど今は水木さんに触れるんだなあって…、ちょっと、やめてください」
無言で手を伸ばした水木が鬼太郎を抑え込んでくすぐってくる。くすぐったくはなかったが、照れ隠しなのが丸分かりなので、鬼太郎は一応制止の言葉をかける。力でいくらでもやり返せるのだが、だからこそやりたくなかった。…それは「恋人」のやることではない気がして。
「……、バカ!」
頭に血がのぼって他に何も言えなくなってしまったらしい水木に、鬼太郎は笑った。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.