来島は律儀に朝食を持ってきた。「影子さんは」とたずねると、彼は言いにくそうに「橋のもとで亡くなった人が、お得意さんだったみたいで」、そう答えた。
「昨日から葬儀の挨拶の準備に駆り出されているようです」
「親族ではないのに?」
「ええ。このところ、忙しないんです。この辺り。人手が足りないみたいですし、俺もこの後すぐ出なくちゃいけなくて」
昨日から慌ただしかったのはそういうことだったのか。島内は確かに人が少なかった。大橋も、渋滞こそしていたものの、島に入ると車も人も閑散としていた。
「植柾さんの前の代では結構人通りも多くて、繁盛している店もあったみたいですけどねぇ」
来島は調査にあまり興味がないのか、何も聞いてはこなかった。朝と夜に部屋と調理場の往復している姿しか見ていない。
彼は食器を乗せた盆を持ち、やはり忙しそうに部屋を出ていった。
「……葬儀の挨拶、ねぇ」
紫垂月頼宗が中庭を見ながら呟く。
「外部の人間なら家も外でしょうし、影子さんも島外に出るのかもしれません」
昨日から植柾影子を見かけていない。口もとに指を当て、思考する。彼女が植柾國雪の異変に気づいているのかいないのかもわからない。義父とも、それほど会わないような間柄なのだろうか。植柾影子の夫は——。
そこまで考え、腕時計を見る。あの女と会わなければならない時間が迫っていた。
「そろそろ、参りましょう」
立ち上がりがてら、中庭を見る。池の水面が微かに風に揺らいでいた。
昨夜飛ばした式神からの反応はない。擬人式神ではあるものの、なにかあれば——例えば攻撃された等——こちらにわかるようになってはいる。単に生気切れをおこしているだけなら良いのだが。
外は風が強い。竹林と、門扉近くの木々がざわめいていた。
「風が強いですね」
猫っ毛の髪が風でかき回される。帽子を被り、そこをおさえた。
昨日来た道を辿る。緩やかな坂を下っていく。潮の匂いが近く、漂っていた。
「……紫垂月殿、お待ちを」
手のひらを上に向ける。ひらりと橙色の和紙が落ちてきた。かなりいたみ、黒ずんでぼろぼろになってしまっているが、間違いなく放った式神だ。
覗き込んだ彼が眉をそっと顰めた。
「植柾國雪の屋敷の周辺を探らせたのですが、この有様です」
「あの妖魔なら式神の一つや二つ、消し炭にできそうだけれど、わざわざ返してくるとはね」
「余裕の表れか、ただ単に面倒だっただけか。妖魔の思うことは分かりませんが」
手のひらの和紙を握りしめ、宙に放る。炎熱符を使い、一瞬燃え盛るとゆるやかに消えていった。
「ここで使う擬人式神は天照本部に持って行けませんから」
「持ち込まないように、と?」
「そういうお達しです」
ふたたび、坂を下る。やがて、小さな家が見えた。古びた鳥居の前で立ち止まる。
「蛇神」
当たり前のことのように転がり出た言葉。祠の前に小さな白い蛇の置物が置かれている。琥珀色の目に黒い瞳孔が描かれている。つるりとしており、陶器製のようだった。尾の方がわずかにひび割れている。
「……」
やがて視線を外し、家の戸の前に立つ。呼び鈴はない。
「すみません」
玄関先で声をかける。やがてぎし、ぎし、という軋む音が聞こえてきて、ゆっくり戸が開いた。
「約束どおり、きたわね」
女は昨日とおなじ、喪服をきている。汗もやはり一滴たりとも流れていない。玄関に招かれ、足を踏みいれると傘立てにはあの白いパラソルが立てかけられていた。
「どうぞ、おあがり」
真っ赤なくちびるがそう囁くので、玄関に上がる。ひんやりとした空気が流れた。汗も知らず知らずのうちに引いていく。
昨日と同じ茶室にとおされ、昨日と同じ座布団に座った。
「天照の許可は降りました。諸々、制限はありますが」
青嵐の言葉に、女は妙に自信ありげに、そうでしょうとも、と言った。
「わたくしはね、植柾の屋敷には入れないの。なぜだかわかる?」
「さあ……」
「招かれなければ入れないの。でも入れればこちらのものよ。わたくしの目からは逃れられない」
「植柾の家にも招かれれば入れるというわけですか」
「そうよ」
自信たっぷりに頷く。この神のようなものにも言霊という制限がつくのか。
「中に入れれば良いのだけれどねぇ。わたくし妖魔は斬れないけれど、中からならめちゃくちゃにできるわよ」
不穏な言葉が出たがとりあえず、流しておく。
「疑問に思ったのだけれど、なぜ君は植柾についた妖魔を斬りたいんだい?」
紫垂月頼宗がいうところによると、放っておいてもこちらには害はない。そう言いたいようだ。
彼女が一度、息をつく。ため息のような息を。
「気に入らないから、ではいけない?」
「気に入らない? なぜ? 放っておけばいい」
「わたくし、植柾にはちょっとした借りがあるのよ。借りは返すものでしょう」
「……そういうことにしておこうか」
彼の意図はわからないが、それ以上言及しないようだ。
「ところで、情報は集まりましたか? 妖魔を斬る条件だったはずですが」
「そうねぇ。植柾の屋敷に住んでるお嬢ちゃん。お名前なんて言ったかしら。ああ、そうそう。植柾夕乃。あの子に昨日聞いてみたわ。あなたのおじいちゃん、最近お加減いかが、って」
お嬢ちゃん、ということはあの屋敷の庭にいた少女のことだろうか。外見を尋ねると、概ね合っていた。
「そしたらね、奥座敷にこもって独り言をよくいってる、ですって」
「奥座敷……。そこに何かしらありそうですね」
植柾の、茅葺き屋根の屋敷。あれだけ大きいのだから奥座敷があるのも頷ける。
ただ——夕乃というあの少女は、本当に人間だったのか、判断しかねる。青嵐もわからないのだ。植柾の家には果たして人間は住んでいるのか。あの家を一目見たとき、からだの中身が悲鳴をあげた。守りが少ない青嵐の、むき出しのなにかを素手で触れられような違和感、あるいは嫌悪感。
目を伏せ、決める。
「もう一度、植柾さんの家へ参ります。今度はしくじりません。絶対に」
それが下緒院に在籍する雲井青嵐という名の刀遣いの矜持である。
「貴女にも、来ていただきます」
「まあ。わたくしを招いてくださるの」
「私たちが屋敷に入れさえすれば、いくらでも」
彼女は笑った。目を細め、瞳孔がぎゅ、と絞られる。
「……」
どこかで見た目だ、と思う。
幼いころ、どこかで。
嵐のない海のように穏やかで、心が豊かで、少年にさまざまな知恵を授けた——大蛇。
(私がはじめて信仰した、神。)
(——まさか。)
(あのとき、私はさよならを言えなかった。あの蛇は、待っていたのだろうか。美しい夜の砂浜で。月を眺めながら、いつものように歌をうたっていたのだろうか。)
「主?」
その声につられ、意識が浮上して紫垂月頼宗の顔を見つめる。
「ああ……いえ。すみません。少し……」
ひたいをおさえる。
どくどくと心臓が痛むほど跳ねた。
(貴女は、あのときの。そう尋ねられるほどの確証はない。)
「明日、今日と同じ時間に迎えに来ます。集められる情報がありましたら、お願いします」
「あら。今日はもうよろしいの?」
「準備がありますので。それとも、なにか話したいことでも」
琥珀色の目はすでに瞳孔はまるくなり、一般の人間のそれに戻っている。
「お仕事、邪魔しちゃあ悪いもの。送るわ」
「結構です。——明日、また来ますから」
彼女は赤いくちびるを緩めて、「待っていますからね」と言った。
坂をのぼる。昨日よりも、足早に。
汗が滲む。あごまで垂れ、地面に染み込む。けれどもその黒い跡は大地に吸収され、なかったことになる。
左手に携えた太刀を握りしめた。
「ごらん、主」
紫垂月頼宗の声がするすると耳朶に入ってくる。足を止め、彼の視線を辿った。
木々の隙間から、水平線がなめらかに横たわっていた。
まだはやい、真上の太陽がその線を輝かせている。
「……私は」
昼の海を知らなかった。
夜の黒く暗い故郷の海でさえ、美しかった。心身もろとも呑み込んでくれるような、おおらかさと貪欲さがあった。
「私にとって海というものは、暗いものでした。夜の海に行き、月明かりの下で過ごしていた」
だからと言って、昼の海がないとは考えていない。一日というものは朝があり、昼があり、夜があるのだから。
「あなたと見る夢はとても明るく、あの景色もまた、美しい。胸が締め付けられるほどに。私が見られなかった景色を、あなたは見せてくださった」
綺麗な香りと一緒に。そう、口が勝手に動く。
「どこかで、思っていたのでしょう。昼の海を。太陽の光が底までつらぬく様を見てみたい、と」
「どちらの海も好きなんだね。君は」
「はい。どちらの海も、好きです」
繰り返し、頷く。昼も夜も、また朝の海も、青嵐にとっては美しかった。それと同時に、恐ろしかった。
相手は自然であるし、いつ牙を向くかわからない程の無意識さと無自覚さがあるのだから。
——カミといった存在もまた、自然と人間との狭間に座すのだろう。
(あなたは、どうだろうか。人間のように感じることがあるのだろうか。私というただのちっぽけな人間といて、どう思うのだろう。つまらない、と思うことも、楽しい、と思うこともあるのだろうか。)
再び、坂をのぼる。ゆったりとした坂を。
「私はその海と同じくらい、あなたのことを美しいと思います」
歩きながら呟く。聞いていてもいなくてもいい。
「私の神は……、私のバディは唯一、あなただから」
部屋に戻ると、硯、墨、筆と和紙を飴色の机に広げた。
硯を擦り、筆に浸す。——一本の線を描く。
個人で開発した符だ。距離にして直径一メートル。その周辺に結界を貼り、必要な存在以外には姿を隠す術。
守りに徹した符であるから、斬るには刀遣いである自身が刃を振り下ろさねばならない。人間の皮を被った妖魔を。
一度だけ見ただけの植柾の屋敷は少なくとも四百平米はある。その広さに見合うだけの符を足していく。
生気をこめながら、ひたすら符を描く。
——にゃあご、という鳴き声にあごを上げた。
「降魔?」
部屋の中を巡回していた降魔が青嵐を見上げる。彼女を見るたびに、作家としての道をたたれた恨みがましさのようなものが湧き出てくるが、これはただの自責である。
「……紫垂月殿」
そして視線は素直におのれのバディを探した。
彼は目を閉じて座っていた。眠っているのだろうか。凝り固まった肩をほぐしながら、彼に近づく。
そっとその白いほおに指先だけで触れた。人間のそれよりほんの少し冷たい体温。
「たいくつだ」
彼のくちびるがそう紡ぎ、かたどった。起きていたのかと手を下ろす。瞳が開き、こちらをゆっくりとみとめた。
「すみません」
首を傾けながら謝るけれども、それ以上の言葉は出なかった。
符を書いていることなど、彼は当たり前のように知っているだろうから。
「あと何日かかるのだろうね」
「このまま順調にいけば、三日……ほどでしょうか」
「主はここの海をどう思う?」
急にくるりと話が変わる。彼は目の前の青嵐を眺めながら、問うた。
「東京のものよりは美しいと思いますが」
「君は美しいものが好きなんだね」
「そう、かもしれません」
「僕を美しいといったね」
「はい」
淡々と繋がれていく言葉と、言葉。
まるで終わりが見えないようなそれに、少し、不安になった。
「君は美しいものに囲まれて暮らしている」
ふたりの庭には、たくさんの花が咲いている。強く香るものもあれば、無香のものもある。さまざまだ。
「昔も、今も。それは、なぜ?」
純粋に、不思議がっている様子だった。意地の悪い問いではなく。
美しいもの。青嵐の胸中。昔も今も変わらないこと。
ただ一点の曇りもない、本質。
「私はただ、普通に暮らしていたかった。故郷の島で。この肌の色が、目の色が、髪の色が、持って生まれたものが、私の血が、家が、普通とはかけ離れてしまった」
白子であることを家が隠したいのならば、一生かけて隠してしまえばよかったのに。
「故郷の歴史が、それを許さなかった……」
日本人を許さないという凝り。数十年かけて倦んできた感情。
「中途半端にきれいなものを見せつけ、美という概念を私に植え付けた。幼少期に叩き込まれたのはそんな、中途半端な故郷の美しさと、苛烈な憎しみや怒り」
ただ、思い浮かんだものを吐き出していくだけの、会話とは言えない言葉の羅列。けれど伝えなければならない。彼に——彼だけには。
「けれど、私への罰はそれさえも許さなかった。もう二度と故郷へは帰れない。私は日本人がもつ心の優しさを知ってしまった。上京した私を助けたのは紛れもなく日本人だったから」
憎しみと怒り。その矛先がゆがんだ。
彼らの心の優しさが、私をすこしだけ壊したのだ。
「私が美しさに固執するのは信じたいからです。故郷は確かに美しかったと、彼らの心優しさは美しいのだと……」
吐くようにつぶやいた。会話ではない。ただ一方的に吐き続けた。
「愚かだと、あなたは笑うでしょうか」
彼は答えない。失望したかもしれない。つまらないことだと笑うのかもしれない。それでも、これが本質だ。望郷の思いも、憎しみも怒りも、すべて自分なのだ。
——が、それを薄い布でやわらかく包むようにその本質を覆った。
あまりに心地よく、この刀神のために命を使いたいとさえ考えるようになった。
くすり、と笑う。
ずっと、ずっと奪われてきた。けれどこの想いだけは誰にも奪わせない。
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