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桐子
2025-08-25 19:45:21
3035文字
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まわる世界②
大変な目にあったものだ。
広い浴槽につかりながら、ゲゲ郎はうっとりと目を閉じた。
ゲゲ郎の毎日の楽しみは入浴で、冷え性のために毎日湯船につかることが欠かせない。亡くなった妻には、「夏場はクーラーいらずね」とよく言われたものだ。だが、そんな至福の時間は『砂かけ婆』から声をかけられて中断された。
「親父さん、電話じゃ」
「なんじゃ。せっかく気持ちよく風呂に入っておったのに」
文句を言いながら上がり、浴衣に着替える。電話をかけてきた相手は時貞翁だという。自室で電話をかけなおすと、時貞の陽気な声が聞こえてきた。
『おお、幽霊の。今日はご苦労じゃったな。で、水木はどうだった?』
「どう、とは?」
何を言わせたいのか。しらじらしい態度が不愉快だが、それがまた彼の厄介なところだ。仕方なく話を合わせることにする。
「なかなか男前でしたな」
『そうじゃろう。では、話を進めてよいな』
「それは困る」
ゲゲ郎はきっぱりと断った。
「わしは再婚する気はないと、何度も言うたでしょう。それに水木殿も迷惑に思うておいでじゃろうし」
『ほう。水木がそう言ったのか?』
時貞翁の口調にはどこか勝ち誇った響きがあった。嫌な予感に、ゲゲ郎は眉を寄せる。
「水木殿は何も言わなんだが
……
」
『なら、お前が勝手にそう感じただけじゃろう。水木は話を進めてくれと言うておる』
「は!?」
思わず受話器を取り落としそうになってしまった。
「嘘じゃろ!?」
『嘘ではない。あれはなかなかの頑固者でな。こうと決めたら絶対考えを変えんわい。さ、これで問題ないな』
「いや、しかし」
『婚礼の準備はこちらですすめておく。お前も組のものたちに伝えるんじゃぞ』
そう言うと、時貞翁はさっさと電話を切ってしまった。呆然としたままゲゲ郎は受話器を握りしめていたが、しばらくして我に返り、すぐにかけ直してみたが繋がらなかった。
「そんな馬鹿な
……
」
ゲゲ郎は頭を抱えた。水木と再婚などできるはずがない。彼はまだ若いし、これからいくらでもいい出会いがあるだろう。対して、自分は子持ちで妻と死別した身だ。こんな中年との再婚話を喜ぶ人間などいるはずがないし、どう考えても世間体が悪いだろう。
「まったく時貞翁も何を考えておるんじゃ」
ぶつぶつ文句を言いながら受話器を戻すと、砂かけ婆が顔を出した。
「電話は終わったのか」
「ああ。時貞翁が勝手に話を進めおってなぁ」
「ワシはいいと思うぞ。親父さん、そろそろ奥方のことを思い出にして、新しい人生を生きるのも」
ゲゲ郎はぎょっとして砂かけ婆を見た。
「わしに岩子を忘れろというのか」
「忘れるのではない。思い出にするんじゃ」
「同じことじゃ!」
ゲゲ郎は怒鳴った。これからもこれまでも、彼女より愛する者など二度と現れないだろう。それなのに、再婚をすすめてくる時貞も、砂かけ婆も、ゲゲ郎の気持ちを少しもわかろうとしてくれない。ゲゲ郎はただ、妻のことを愛し、その面影を抱いて死にたいだけなのに。
「もうよい。出て行ってくれ」
「親父さん
……
」
砂かけ婆は何か言いたそうにしていたが、やがて部屋を出て行った。一人になったゲゲ郎は畳の上に寝転がると、大きく息を吐いた。
あの美しい瞳を、ゲゲ郎を包み込んだ優しい手を、甘い匂いを、今でも鮮明に思い出せるというのに。この胸はまだ彼女のことでいっぱいなのに。
「勝手なことを」
皆、自分の都合ばかり押し付けて、ゲゲ郎の気持ちを少しも分かろうとしてくれない。だが、仕方がない。分かってもらうことを諦めてしまえばいい。妻が亡くなって、ゲゲ郎はいろいろなことを諦めてきた。今は息子の鬼太郎を育て上げることだけできればよい。
しかし、水木はどうして断らなかったのだろう。彼はずいぶん機嫌が悪そうにしていたし、迷惑に思っている様子だったのに。
「はあ
……
」
ため息がこぼれる。これからどうしたものかと考えながら、そのまま眠り込んでしまった。まあ、そのうちになんとかなるだろう。
そんなのんきなことを考えている場合ではないと、ゲゲ郎が後悔したのは一週間後のことだった。
次々に届けられる箪笥やら布団やらの婚礼道具にゲゲ郎は頭を抱えていた。
「あの爺
……
!」
「親父さん、これはどこに運んだらええんじゃ」
砂かけ婆が衣装箱を抱えてやってくる。
「そのへんに置いておいてくれ」
投げやりに言いおいて、ゲゲ郎は猛烈な勢いで電話をかけた。
『おお、幽霊の。婚礼道具は届いたか?』
「時貞翁、なんじゃあの道具は」
『うちの孫が恥ずかしくないように、最上級のものを揃えた。なに、礼はいらんぞ』
呵呵と笑いながら、ご機嫌な様子で時貞翁が答える。
「そうではなく」
『ああ、婚礼は来月の大安吉日で、招待状も手配済みじゃ。そちらの者にも伝えておけ』
そう言って電話は切られた。外堀からどんどん埋められている。まずい、まずすぎる。時貞翁は、もう結婚式の手配までしている様子だ。
「あのくそ爺」
叩きつけるように受話器を下ろす。ああ、煙草が吸いたい。少し外へ出てこようかと考えていると、ふと視線を感じた。振り向くと、鬼太郎がじっとこちらを見ている。ゲゲ郎は穏やかな笑みを浮かべ、息子のそばでしゃがみこむ。
「なんじゃ鬼太郎」
「
……
とうさん、けっこんするんですか」
大きな目が不安げにこちらを見上げている。顔立ちは自分にそっくりだが、髪の色や目の色は妻に似ている。そんな息子のことを、ゲゲ郎は目に入れても痛くないほどに愛している。一体誰が、鬼太郎に再婚のことを吹き込んだのだろう。大方、一反もめんあたりだろうと見当はつくが。
ゲゲ郎は息子の頭を優しく撫でながら、安心させるように言った。
「いや、お断りするつもりじゃ。父は再婚なんぞせんから安心しなさい」
「ほんとうに?」
鬼太郎はきょとんとしてゲゲ郎を見上げる。
「でも、とうさん。ぼくしんぱいなんです。ぼくがおとなになっていえをでたら、とうさんひとりぼっちですよ。じんせい八十ねんといいますし、じぶんのじんせいのことをもうすこしちゃんとかんがえたほうがいいとおもうんですけど」
「お、おう
……
」
まだ小学校にも上がっていないながら、鬼太郎はおそろしく賢くて現実的だった。のんきな自分の息子とは思えない。しかも、ゲゲ郎が老後を一人で過ごすこと前提になっている。
「倅や。お前は父に、再婚しろと言うておるのか」
「わるいはなしではないとおもいます。ときさだおうのけんりょくはぜつだいですから」
「それはそうじゃが」
「ぼくはとうさんにしあわせになってほしいです」
いつもスンとした無表情の鬼太郎が、にこっと笑ってそう言った。その言葉にゲゲ郎は思わず涙ぐみそうになった。なんていい子に育ってくれたのだろう。父一人子一人で、しかも人様に表立っては言えない裏稼業の家に生まれ、寂しい思いや悔しい思いをさせているだろうに。
「ありがとうなぁ」
小さな体をぎゅうっと抱きしめる。鬼太郎は小さな腕でよしよしと頭を撫でてくれた。これではどちらが親か分からない。
確かに、鬼太郎の言うように時貞翁は力のある男だし、ゲゲ郎が再婚すれば組も安泰だ。水木も結婚を承諾したと言っていたし、このままなるようになるのもいいかもしれない。妻が死んで以来、諦めることは得意だった。
「年貢の納め時かのう」
「そうですね」
鬼太郎は真顔で頷いた。
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