桐子
2025-08-25 12:47:13
4869文字
Public
 

まわる世界①


忘れられない光景がある。
細く冷たい雨の降る日に乗った電車。濡れた頬、白いハンカチ。同じ風景を繰り返す路線。窓ガラスに映った横顔。
そこで出会ったのは、運命だったのだと、―――今ではそう思う。






ゲゲ郎は渋い顔をして釣り書きを押し返した。
「何度も言うておるが、わしは後添えをもらうつもりはないし、見合いもするつもりはありませぬ」
何度も同じことを言わせるなと、ずず、と熱いお茶をすすっている老人にあきれた目を向ける。だが、老人はまったく動じるそぶりも見せず、泰然と言い返した。
「そうは言っても、奥さんが亡くなってもう五年じゃろう」
「まだ五年です」
そう、まだ五年しか経っていない。彼女を失った傷口はまだじくじくと痛み続けている。ゲゲ郎はもう一生分の恋をしたので、他の誰と添い遂げるつもりもない。彼女以上に好きになれるものにはきっと出会えない。そう何度も伝えているはずなのに、お見合いの話をもってき続ける老人には、正直うんざりしていた。だが、彼には先代の時分から世話になっているため、そう無下にもできないのだ。
老人―――関東最大といわれる龍賀会の頭、龍賀時貞翁は、わざとらしくため息をついた。
「鬼太郎ちゃんも五歳か。母親に甘えたい盛りじゃろうなあ」
ぐっ、と言葉に詰まってしまった。
それを言われるとゲゲ郎は弱い。妻の命と引き換えに生まれてきた息子を、ゲゲ郎は目に入れても痛くないほどに可愛いがっている。妻によく似た栗色の髪が愛らしい息子は、五年の間にすくすくと育っていた。しかし、やんちゃ盛りであるはずの年齢にも関わらず、鬼太郎はわがままも言わず、泣いたりわめいたりもしない、手のかからない子どもだった。だからこそ心配なのだ。物心がついたころから聞き分けのいい息子は、自分の欲求を押し殺すことに慣れてしまっているのではないか。本当はもっとわがままを言いたい年頃だろうに、いつも口を噤んでいる息子の姿に、ゲゲ郎はどこか危うさを感じていた。
もし、母親がいれば、あの子ももっと子どもらしくいられるだろうか。――――息子を抱き上げるたび、そんな思いが頭の片隅にちらつくのだった。時貞翁は、そんなゲゲ郎の迷いを敏感に察しているらしい。
「鬼太郎ちゃんのためにも、後妻をもろうてはどうじゃ」
「何度も言わさんでくだされ。わしは再婚する気はありませぬ」
「まあまあ、そう言わずに、会うだけでもいいんじゃ。大した美形じゃぞ」
ゲゲ郎は鋭い目つきで時貞翁を睨みつけた。
「時貞翁。仲人がご趣味なのはわかるが、そう押し付けがましいのはいかがなものかのう」
そうなのだ。この老人、趣味が仲人という厄介な男である。自分の娘や親族だけではなく、知人や部下に見合いを押しつけてくるのだ。
「余が縁組をするのも次で百組目。気合も入るというものじゃろう。な、幽霊の。ここはひとつ余の顔をたてて」
九十九組も縁談をまとめていれば、老人の身の回りに独り身の者がいるはずもない。だから、男やもめのゲゲ郎のところへ来て、再婚話を持ち掛けてくるのだろう。
ゲゲ郎は頑固な老人をじろりと睨んだ。
「とにかく、わしは再婚などせん。他を当たってくだされ」
「余の見る目は確かじゃ。絶対にお前の気に入るはずじゃ」
自信満々に言い切る時貞翁に、ゲゲ郎はぴくりとこめかみを震わせた。
「しつこい! わしは絶対再婚などせぬ!!」
そう一喝して、ゲゲ郎は腰を上げた。これ以上話していても時間の無駄だ。
「ちょっと待っとくれ。幽霊の」
老人の縋るような声も聞こえないふりをして、ゲゲ郎は大股で部屋を出て行った。



車に乗り込むと、運転手の『一反もめん』が、待っていたとばかりに喋り出す。
「時貞翁は今回もしつこかったと?」
「そうなんじゃ」
袂から煙草を取り出すと、すかさず隣の『ぬり壁』がライターで火を点けた。ふうっと煙を吐き出すと、重く甘い香りが車内に立ち込めた。息子の前では吸わないようにしているが、イライラしている時はこれを吸うと落ち着くのだ。妻が亡くなって煙草の量が増え、部下たちにはたしなめられているが、なかなかやめられない。
「ばってん、龍賀家は美形ぞろいやろう。時貞翁の娘の乙米しゃんも、そりゃあもう別嬪しゃんで……
「乙米どのの亭主に殺されるぞ」
ゲゲ郎はあきれて返した。一反もめんは美女好きで惚れっぽい。そのせいで、何度も痛い目に遭っているというのに懲りない男だ。それにゲゲ郎にとってはどんな美女よりも妻が一番美しかったので、この手の話題には興味がない。
「再婚……?」
ぬり壁が尋ねるので、ゲゲ郎は頷いた。
「鬼太郎には母親がおる方がいいとは思うが、……やはり、わしは再婚などせんよ。相手にも失礼じゃろう」
妻を愛していた。彼女を失った時の悲しみは今も癒えていない。もう誰も愛することはないだろうと思う。だから、再婚する気にはどうしてもなれないのだ。それは亡くなった妻に対する不誠実のように思えてならないからだった。
「それに、鬼太郎にはおぬしたちがおるからのう」
母親はいなくても、幽霊会の仲間たちは鬼太郎を可愛がってくれている。おかげで、子育てに苦労しているという意識はない。社会からつまはじきにされた、はみ出し者ばかりではあるが、根は皆、いい奴らだ。鬼太郎はそんな仲間たちに囲まれてすくすくと育っている。
「そうやね。わしらみんなで、鬼太郎しゃんを立派に育てるばい」
一反もめんがしみじみと言う。ぬり壁も頷いた。
「ありがとうな」
ゲゲ郎は微笑んだ。



それから二か月近くがたち、さすがにもう時貞翁も諦めたか、と思い始めた頃のことだ。
半年後に関東の組織のトップが集まる大きな会合があり、今年は幽霊会がそれを仕切ることになっていた。正直面倒だったが、いろいろと時貞翁におうかがいを立てておかなければならないことがある。その相談をするため、ゲゲ郎は再び龍賀家の屋敷を訪れていた。
通されたのはいつもの座敷ではなく、屋敷の奥の客間だった。どうやら込み入った話をするつもりのようだ。
「失礼します」
襖を開けると、時貞翁の他にもう一人、スーツ姿の若い男が座っていた。
「おお、幽霊の。よう来てくれたな」
やけに愛想のよい時貞翁に首を傾げながらも、若い男の向かい側に座る。
「こんにちは、龍賀水木です」
そう言ってこちらを見つめる男は、とても美しかった。
黒い髪に、健康的に日に焼けた肌。背を伸ばして正座した姿は凛として、まるでそこにだけ光が当たっているかのようにさえ見える。男前だが、目元が少したれているせいでやや幼げな印象もある。何よりも印象的なのが目だった。青い瞳は、冬の空のように澄んでいた。目と耳に傷があったが、それは彼の魅力を損なうものではなかった。むしろ、欠けていたり、不完全であったりすることで生まれる美しさがあることを、彼は体現しているようだった。
……は、初めまして。幽霊会の田中じゃ」
ハッとしたゲゲ郎は慌てて頭を下げた。初対面の男につい見惚れていた自分に気が付いて恥ずかしくなる。龍賀というからには、時貞翁の血縁なのだろう。しわくちゃの爺とは似てもにつかないが。
「この水木は余の孫じゃ。弁護士になるために大学で学んでおる」
「はあ」
「こちらは幽霊会の田中さんじゃ。小さい組じゃが、なかなかのやり手でな。店の経営や土地の管理に詳しい。お前も学ぶところがあるじゃろう」
「はい」
水木と呼ばれた男は小さく頷いた。
何やら嫌な予感がする。初対面の者同士が、共通の知人にお互いの人となりを紹介される――――これはまるで、見合いではないか。
「祖父の余が言うのもなんじゃが、なかなかの美形じゃろう。それに気立てもいいし、卒業後は弁護士先生じゃ。どうじゃ幽霊の。この水木をお前の後添えにするというのは」
「!」
しまった、とゲゲ郎はほぞをかんだ。時貞翁の魂胆にようやく気付いたのだ。忘れた頃にゲゲ郎を呼び出して、孫と引き合わせる。それが狙いだったのだ。
「ち、ちょっと待ってくだされ。わしは再婚など……
ゲゲ郎は焦って水木を見た。彼も戸惑っているに違いないと思ったのだが、水木は静かな目をしてこちらを見つめている。
いや、その前に彼はどこからどう見ても男だ。
「時貞翁、わしも彼も男同士ですぞ」
まさか、さすがの泣く子も黙る時貞翁も、寄る年波には勝てず認知症をわずらっているのやも。孫と孫娘を取り違えている可能性も十分にある。
「言っておくが余は耄碌なぞしておらん。ちゃんと考えあってのことじゃ」
まるでゲゲ郎の考えを見抜いたように、時貞翁は話し始めた。
「まず、今の世は男同士、女同士など結ばれるのに性別を問わんじゃろう。偏見の目で見る者もまだ多いが、時代に合わせて変わりつつある」
「お若いですな……
確かに世は多様性時代。性別は曖昧になりつつある。それでも、ゲゲ郎はまだ『婚姻というものは男女で行うもの』という価値観を捨てきれなかった。
「龍賀組と幽霊会が手を取れば関東一門は安泰。余の死後もお前がなんとかしていくじゃろう。それに幽霊のには後継ぎがおる。水木が男で子を産めんでも問題はない。幽霊は後添えができて、鬼太郎ちゃんも遊び相手ができる。三方よしとはこのことじゃ」
「しかし……
ゲゲ郎は口ごもった。確かに鬼太郎は喜ぶだろうが、水木にとっては迷惑な話に違いない。これだけの美形で、しかもまだ二十歳そこそこの若者が、何が悲しくて倍近い年の子持ちの男と結婚しなければならないのだ。
「水木、幽霊の。お前たちは実にお似合いじゃ。年の差など気にするほどでもあるまい。幽霊のが長生きすればいいだけの話じゃ」
時貞翁は引き下がる様子もない。この強引で人の話を聞かない老人をなんとかしてくれ、という願いを込めて水木の顔を見るが、彼はじっとゲゲ郎を見据えるだけだった。その静謐な視線に気圧されそうになり、思わず目をそらす。
「余は本気じゃぞ幽霊の。この老い先短い年寄りの最期の頼みをきいてくれんか……
時貞翁は、しおらしい声を出して懇願してきた。あと百年は生きそうな爺が何を言うのか。困り果てていると、時貞は「では、お互いを知ることも大事じゃろう。あとは若い者同士で」とさっさと出て行ってしまった。
……
重苦しい沈黙が降りる。水木は何も言わず、無表情にゲゲ郎を見つめている。
……ええと、」
何か言わなければと口を開くが、何を言ったらいいのかわからない。
「す、すまんのう。……時貞翁は言い出したら聞かんお人じゃから……
「いえ」
水木は短く答えた。またそれきり黙ってしまう。
仕方なくゲゲ郎も口を閉じるが、この青年と二人きりという状況がどうにも落ち着かな。水木は相変わらずじっとこちらを見据えているし、どうにも尻の座りが悪い。水木も断りづらいだろうし、それならいっそ今ここで、再婚する気はないとはっきり言った方がいいのではないか。
「わしは、再婚するつもりはないんじゃ。おぬしが嫌だとかそういう訳ではなく、亡き妻のことがまだ忘れられんのじゃ。だから、水木殿からも時貞翁によう言うてくれんか」
……
水木は黙ったままうつむいている。沈黙に耐えきれず、ゲゲ郎は庭に目を向けた。今日は朝から雨が降っていて、庭の草木をしっとりと濡らしている。ハナミズキやサツキは雨に濡れていきいきと生い茂り、くちなしの強い香りがあたりに漂っていた。
こんな雨の日は思い出す。――――濡れた地面、雨のにおい、窓に叩きつけられた雨粒、白いハンカチ。
いつの間にか物思いにふけっていたらしい。ふと、水木の方に視線を向ける。彼の青い目と目が合った。吸い込まれそうな美しい瞳だ。もっと見たいと思ったが、すぐにまた視線がそらされてしまう。少し怒ったように、彼は眉間に皺を寄せていた。

結局その日、水木とはほとんど話をしないまま別れた。