ながひさありか
2025-08-25 01:51:47
16106文字
Public STR-Phaidei
 

英雄の器

永劫回帰0回目。出会った当初の二人。死にかけたところを救われ、延々と死ぬところを見てしまう話。
キュレネがいます。捏造ばっかりで細部はふわふわです。

「貴様が新兵だと言うのは、オクヘイマ軍に加わって日が浅いという意味か?」
 一時間もの間決着のつかない手合わせを一時中断し、「まあこれはこれで鍛錬にはなるか」と汗を拭きながら考えていた僕に、クレムノスの王子様がそう尋ねた。先週、オクヘイマに移住して来た彼に「貴様が『救世主』と大層な二つ名で呼ばれる黄金裔であるなら、俺と手合わせぐらいは余裕でできるだろう」と今朝、市場で唐突に言われ、なんとなくカチンと来つつも、一度彼とは戦ってみたいと思っていたので、提案を受け入れた。勿論勝つ気だった。
 そう言うわけだったが、決着は面白いほどつかず、瞬く間に一時間も経過していたと言うわけだ。
 彼も汗をかいている様子はあったが、僕とは違ってなんだか涼しい顔をしているのが悔しい。
「半分は正解かな。オクヘイマに来るまではオンパロス中を放浪して傭兵のようなものをしていたけど、まともに剣術を習って来なかったんだ。オクヘイマに来て兵舎に住まわせてもらうようになってから、アグライアや兵士に稽古をつけてもらってる。だから君たちクレムノス人やオクヘイマ生まれの兵士から見たら、新兵みたいなもんなんじゃないかな」
 故郷のエリュシオンが暗黒の潮に襲われ、追いかけてくる造物からなんとか逃げて村を出たのは子どもの頃の話だった。その後は飼い主を亡くしたらしい大地獣に乗って各地を移動し、親切な人に世話をしてもらって剣を手にしたり、食事をもらう代わりに戦ったりもしたけれど、ずっと我流でやってきたから、本格的に剣術を習ったり学んだりするようになったのは前述の通りオクヘイマに来てからだった。
「名だたる戦場を経験したのかと思っていたが、そうではなかったか」
 尋ねた男は意外そうに目を見開き、感心したように笑う。なんだよ上から目線だな、と少しだけムッとしたが、僕の知る限り、戦うことしか考えていないと言われるクレムノス人の中でも、この男が率いる「孤軍」は特に戦いに明け暮れた日々を送ってきたらしいので、そう考えると、戦争自体は経験したことのない僕とは経験値が違いすぎるだろう。
 彼らは各地で戦争をしてはことごとく敵を討ち滅ぼしてきただとか、どれほどの窮地すら生きて戻ってきただとか、嘘か本当かわからない逸話・噂話がいくつもある。
「君と引き分けだったのに、僕が未熟だとでも言いたいのか?」
「未熟ではあるだろうが、悪くはない」
……あ、そう」
 てっきり馬鹿にされているのかと思ったが、眼前で腕を組んだ偉そうな——いや、彼は王子様なので実際偉いんだけど——男は僕に燃えるような金色の瞳を向け、満足そうに頷く。
「新兵——いや『救世主』。貴様に場数を踏ませてやろう。どうせ貴様と手合わせのできる兵士はオクヘイマにはいないだろう。この俺が貴様の鍛錬に付き合ってやる」
 形の良い唇の端を持ち上げて笑う男の言葉は、僕の自尊心を優しく撫でて行くようだった。尊大な態度が似合う顔だとは思ったけれど、上からの物言いはやっぱり気に入らない。
「それ、君にもそっくりお返しするよ。クレムノス人にも君の相手をできる人間がいないってことだろ?」
「そうだ」
……そこは素直に認めるのか」
 ふんっ、とこっちも胸を張って嫌味を返してみたが、意外にもこの男には全く響かなかったらしい。
 変なやつだな、と思いつつ、この妙な素直さに興味が湧いたのは事実だった。
「いいよ。君も僕も鍛練の相手には困ってただろうし、相手をしてあげようじゃないか。僕はオクヘイマ人じゃないけど、ここで暮らし始めて数年は経ったから、僕とクレムノス人の王子である君が接点を持つのは、聖都市民にも移住してきたクレムノス人にも良い影響があるかもしれないしね」
「回りくどい男だ。余計なことを考えずに素直に頷いておけ」
「余計って君な……。オクヘイマ人とクレムノス人は過去に戦争をしていたこともあって、互いの印象が良くないのは事実だろ? まあ、アグライアの『目』が正しいなら、君は血の気が多すぎるわけじゃないみたいだけどね」
 真意を探るように男の目をじっと見つめると、腕を組んだ彼はフン、と偉そうに鼻を鳴らす。彼が軍を引き連れてオクヘイマを襲った——ように見せかけて、交渉の場を設けることに成功した時、確かに、オクヘイマ軍に死人はいなかった。指揮系統の厳しさはオクヘイマも参考にすべきだ、とかなんとか話しているのを兵舎で聞いたけれど、それを達成するには彼ほどのカリスマ性のある指揮官が必要だろう。立っているだけでなんとなく威圧的だな、と思うような人間は、僕の知る限りオクヘイマにはアグライアしかいないし、彼女は正確には軍の指揮官ではない。
「じゃあ、明日から何もなければ毎朝かお昼過ぎにでもやるかい? メデ——あー、」
「モーディス、でいい。お前たちオクヘイマの者には発音がしづらいようだからな」
 名前を呼ぼうとして言い淀んだ僕に、王子様——モーディスが涼しい顔で言う。
「僕はさっきも言ったけどオクヘイマ人じゃない。だから発音に引っかかったわけじゃないけど、その……いいのか?」
「なんの話だ?」
 モーディスは僕の気まずさが全くわからなかったのか、不思議そうに眉を寄せ、微かに首を傾ける。その瞳には嫌味や裏の感情は映っていないように思えたが、果たして見たまま信じても良いのだろうか。
 いささか不安に思いつつも、つまり、と続ける。
「君はクレムノスの王子様なんだろ? 対して僕は貴族のアグライアや巫女のトリビー先生たちやキャストリスさんと違って、君と同じく黄金裔ではあるけれど、農村出の庶民だ。だからその、王子様とか殿下とか、まあなんでも良いんだけどさ、そう言う呼び方をしなくても良いのかい? 不敬とか無礼とかクレムノス人に言われても困るな、と」
 探るように尋ねた僕に、モーディスは数秒沈黙してから、フッ、と一度視線を伏せて笑う。
 顔を上げたモーディスが、今度はニヤリと嫌味ったらしい表情を浮かべる。
「貴様が俺を『クレムノス人』と呼んだ以上に失礼な呼び方もあるまい」
 タレンタムの天秤でのやり取りを根に持っているのか、皮肉そうに笑う男に、「意外と根に持ってる?」と恐る恐る尋ねれば、「初対面での口の聞き方には気をつけることだな」とモーディスがいかにも偉そうに口にした。
「好きに呼べ。他人にどう呼ばれようと俺は元より構わんが、そもそも俺を名で呼ぶのは黄金裔の貴様らくらいだろう。何か言う者がいたとて、盟友関係に口を出すなと言えばそれで済む」
 そういえば、確かに彼は王子様とか殿下とか若と呼ばれていたような気がする。それなら余計に名前で呼ばない方がいいんじゃないか? と思ったけれど、本人がいいと言うならいいんだろう。
「じゃあモーディスって呼ばせてもらおうかな。僕のことは、」
「救世主。——そう呼べと言ったのはお前だろう」
 皮肉そうに笑うモーディスに、もしかしてそれって君なりの意趣返しなのか? と感じた。
 日常で僕を救世主と呼ぶ人なんて、今のところは君しかいない。

   *

 提案した通り、ここ数ヶ月もの間、僕とモーディスは互いに何か予定がなければ手合わせをしていた。毎度のように「真剣でも良い」と言い張るモーディスに「流石にだめだろ、と言うか手を抜かなきゃって考えるから勘弁してくれ」と答えては「腑抜けが」と笑われていた。
「そういえば君って『不死身』らしいって聞いたけど、それって怪我をしないとか、数多の死線を潜り抜けてきただとかそう言う意味だよな?」
「違う」
 死角からモーディスの首を狙った斬撃を完璧に対応され、ガキン、と木剣と甲冑がぶつかり合って嫌な音を立てる。彼の手首毎捩じ切るつもりで渾身の力を込めていたが、あっさりと剣は止められ、今はお互いの力が拮抗して筋肉が微かに悲鳴をあげていた。
 普段のモーディスはどちらかと言うとおとなしいと言うか、感情が読みづらい無表情に近い顔をしているけれど、今や瞳も眉も形の良い唇も吊り上がり、楽しそうに炯々と燃える瞳が僕を捉えている。戦っている時の彼と普段の彼は結構ギャップが激しい、と気づいたのはモーディスと鍛練するようになってすぐのことだったが、その差に僕はまだあまり慣れていない。黙っていれば美人なのに、と僕の腹を足裏で思いっきり蹴飛ばしたモーディスから追撃を喰らわないよう、慌てて体勢を整えて剣を握り直す。
 体を低くし、四足獣のように飛んできたモーディスの拳が顎下から脳天へと打ち込まれそうになるのを顔を逸らして避け、手首を掴んで放り投げ、ようとして、反対に体重を利用されて僕の方がひっくり返される。
「不死身と言うのは、死んでも帰ってくると言うことだ」
 はぁ、と大きく息を吐いて笑ったモーディスは、背中を屋根について倒れている僕の喉を軽く踏み「今回はお前の負けだ」と楽しそうに口にした。
 帰ってくるだって? 言葉の意味がよくわからず困惑している僕の見上げた先で、モーディスは顎を滴る汗を手の甲で払い、かぶりを振って目にかかった長い髪を横にずらした。ふう、と満足そうに息を吐き、紅潮した頬をミハニの黎明に晒したモーディスの、汗に濡れた美貌が眩しい。 
 夕焼けに染まる麦穂のような髪を茫然と見上げて、負けた? と呟く。
 ハッとしたように慌てて上半身を上げるが、背中の痛みに呻いて沈む。
「受け身を取り損なったな。いつか大怪我をするぞ」
……怪我させたやつの言うことか、それ?」
「お前の未熟さが招いた結果だ。俺に吠える前に反省しろ」
 悔しいが、モーディスの言うことは正しい。今のところ、勝率は僕の方がやや悪く、たまたま勝てたようなものの僕と違い、モーディスには一瞬の油断やスキを完璧に狙われていた。
「俺と出会ったのが戦場であれば、今頃お前は死体になっていただろう」
「真剣じゃないからどうかな」
 悔し紛れに口の中の血と共に吐き捨てると、モーディスが片眉を跳ねあげる。
「だから真剣でも良いと言っている」
「わかった、やめよう。今日は僕の負けだ。君の手首を掴んだ瞬間に確かに『勝った』と油断した」
「その通りだ。息の根を止めるまで油断するべきではない。暗黒の潮の造物と対峙したことがあるのであれば、よくわかっているだろう」
……………………
 モーディスの言葉に、思わず眉を寄せてしまう。胸に嫌なものが込み上げ、わかってるよ、とこぼした自分の声の硬さを恥じていると、モーディスが小さくため息を吐いた。
「恐れは判断を過つ理由になる。忘れろとは言わん。それは無理な話だ。だが、それでも過去を受け入れ、克服するより他に道はない」
 僕の過去を知らない筈のモーディスが、何かを悟ったような顔で口にし、僕に手を差し出した。その手を無言で掴み、体を起こしてもらう。
「樹庭から確か医者が来ていただろう。念のため診てもらっておけ」
 じゃあな、とモーディスは踵を返し、何やら彼を呼びに来たらしい兵士に頷いている。
「いてて……
 どこかへ去って行くモーディスを見つめている間にも、背中のズキズキとした痛みがだんだんと酷くなっていた。ただ、この痛みは肉体の怪我だけではないような、そんな気がした。

   *

「トリアン先生、みんなを先に門へ!」
「わかってるって! いいから早くファイちゃんはモスちゃんのとこに戻れー!」

 暗黒の潮に襲われた近隣の村の一人が、大地獣に乗ってオクヘイマに救援を要請してきたのは夕方頃の事だった。なんでも避難してきた人々を住まわせていた村が今度は襲われたそうで、避難民の数も多く、そのせいで暗黒の潮の造物も尋常でない数が発生してしまっているらしい。命からがら逃げてきた村人は震える声で僕の足に縋りつきながら助けを乞う。
 そんなことをしないで、と彼を立ち上がらせようとした僕の耳に、「どうしてあいつが……」と呆然とした言葉が響く。脳裏に、エリュシオンでの最後の夜が蘇り、思わず息を止めてしまう。お兄ちゃん。ガラガラとぶくぶくと耳障りな音の混ざった、とても人間ではない声。あの声が僕に追い縋り、助けて、と黒い鉤爪の手を延ばしている。
「おい、救世主」
 力強く響く声にハッとし、「ほら立って!」と恐怖に啜り泣く彼を立ち上がらせると、ホリプテス達に預けた。
 元老院との議会を中断したアグライアから通達が入り、聖都の防衛はアグライアとキャストリスさんとキュレネに任せ、僕とモーディスとトリアン先生とで避難民の救援に向かう。
 阿鼻叫喚の渦中に移動した僕たちは市民の避難を誘導しつつ、追ってくる造物に対処するが、転んだりパニックになったり怪我をした人、足の悪い人、老人、子ども、身重な女性、様々な人々が泣き叫び恐怖に怯え、僕の声も兵士の声もなかなか届かない。モーディスがずっと無言なのは、きっと駆けつけた時に「クレムノス人!?」と怯えた声で叫んだ老人がいたからだろう。
「みんな落ち着いて! とにかく兵士の誘導に従って坂の上まで行ってくれ、そうすればオクヘイマに通じる門がある!」
 声を張り上げながら人々を後退させていたが、途中でモーディスが「埒が開かない」と僕を睨みつけたかと思うと、突然大地を拳で打ち、赤い結晶で僕たちの間に壁を作る。
「市民を誘導したら戻ってこい。ここで食い止めておいてやる」
「待ってくれモーディス、まさか死ぬ気か!?」
「たわけが、俺は死なん。救世主、貴様は貴様のやるべきことをやれ!」
 結晶の壁の隙間から、振り返ったモーディスが僕を睨みつけて怒鳴る。その瞳には力強い炎が宿っており、確かに、戦地で見た覚悟を決めた男の目とは何かが違っていた。死ぬわけがない。言葉よりも雄弁に主張されているのがはっきりとわかる。
……わかった、なるべく早く戻る!」

 トリアン先生に市民を任せ、後退してきた最後尾の兵士たちと共にモーディスの元へ戻る。
「モーディ……
「遅い」
……………………
 全身を血まれにしたモーディスが、永夜で影のようにゆらりと振り返った。雲の隙間から時々月が覗くたびに、黄金の血で濡れた体がてらてらと妖しく光っている。金色の瞳が闇の中で爛々と輝くのが見え、その迫力に思わず唾を飲み込んでしまう。死なない。確かに彼が言った通り、モーディスは死ななかった、らしい。
 引きちぎったらしい造物の頭部を片手に持ったままモーディスははっきりと僕の目を見、そのまま左足でまだぴくぴくと蠢いていた造物の心臓、のようなものがあるだろうと思われる部位を踏み潰した。嫌な叫び声を上げて絶命した造物から足を上げ、頭部を放ったモーディスは煩わしそうに目許に流れてくる血を指で払う。
 倒れ伏した造物の遺体の数にゾッとしたものを感じたのか、兵士が怯えたように息を呑む音が聞こえた。ピリピリと空気が張り詰めるのを感じる。よくない雰囲気だ。
「すまない、市民の誘導に時間がかかって」
 空気を読まずに、あえて馬鹿のふりをして明るい声を出す。モーディスはちょっと今テンションが上がっているだけで、別に話が通じないなんてことはない、筈だ。これまでの手合わせでは少なくともそうだった。
「無事、には見えないけど立ってるってことは大丈夫、だよな?」
「問題ない」
 腹部を押さえながらため息をついているモーディスからは、すでにゾッとするような、手のつけられない獣のような雰囲気は消えていた。出血から考えればあまり大丈夫そうには思えなかったが、「遺品だのの捜索は後日にした方がいいだろう」と淡々とした声で呟くのを聞く限り、確かに本人が言う通り問題はないらしい。
「念のため生存者がいないか確認したい」
「恐らくはいない。が、好きにしろ。……お前達も手伝え」
 腹を押さえていたモーディスは怯える兵士たちに視線を向け、地獄と化した村へと顎をやる。
   
 僕たちは方々に散り、村の外れまで生存者を探したが、残念ながら生きている人はいないようだった。
「残念だがこれ以上の生存者はいない。そろそろ帰還すべきだ」
 モーディスは疲れた顔をする兵士たちに視線を向けながらも、僕に言い聞かせるように口にする。わかってる、と拳を握りしめて俯く僕の耳に「おーい!」とトリアン先生の声が響いた。
「ファイちゃん、モスちゃん、大丈夫か——ってわぁ! モスちゃん酷い怪我だぞ!」
「問題ない。もう治っている」
 飛んできたトリアン先生はひっ、と声を上げつつも、モーディスの顔のあたりまで浮かび上がり、しげしげとモーディスの全身を眺める。
 モーディスはそんな先生の視線を気にもせず、「お前達は先に戻れ」と坂の上の門に視線を向けながら、兵士たちに口にする。僕の顔を伺う様子の彼らに首肯してやり、「すぐに僕たちも行く」と先に兵を帰還させることにした。
「本当だな? 嘘つかれても困るぞ?」
「問題はない。疲れてはいるがな」
 モーディスはトリアン先生の小さな手に大人しく頬を撫でられながら首肯し、坂の上の門を見上げる。
「帰還してもまだ終わりではないが、ひとまずはここを離れた方がいいだろう」
「ん、そうだな!」
 帰るぞ! とトリアン先生が僕とモーディスの背中を押すのに苦笑しつつ、そうだね、と坂を登り始める。
 その時、なんとなく嫌な予感がする、と感じたのは、この村が崖の上にあったからだろうか。
 地鳴りのような音があたりに響き、なんだ? と足を止めた僕たちの耳元で、亀裂が入るような大きな嫌な音がした。足元が急激にぐらぐらと揺れ、まともに立っていられなくなったその瞬間、唐突に体が宙に浮いた。
「え?」
「っ、救世主!」
「ファイちゃん!」
 モーディスとトリアン先生の驚いた顔がぐらぐらと揺れる視界に入り、あれ、おかしいな二人は僕の隣にいた筈なのに、どうして頭上にいるんだ? ——と気づいた時には、突然空いた暗い大穴に、自分が落ちて行っていることを認識した。慌てて延ばした指先に何かが掠ったような気がしたが、そのまま体は暗闇へと落ちて行く。

  *

 はっ、と気がつくと、一筋の光が弱く差し込むだけの空間にいた。空間? 目を覚ます前の記憶を辿りながら起きあがろうとして、肋骨と足の痛みに呻く。
「目が覚めたか」
 ぽた、ぽた、と水が滴るような音と共に、暗闇から声がした。モーディスだ。
 モーディス? 声の方へなんとか首を巡らせると、弱々しい光の下で、モーディスの顔がうっすらと浮かぶ。
「ここは?」
「さあな。崖下か途中か。いずれにせよ崩れた岩の下だ」
 妙な答えだ、と思いながら、ようやく記憶が気を失う前に辿り着く。
 もしかして僕と同じように落ちてきたモーディスは、かろうじて死にはしなかったものの、同じように怪我をして動けなくなっているのかもしれない。痛みを堪えているのか、妙に緊張した声のモーディスの姿をよく見ようと目を凝らし、
「え」
 愕然と、声が落ちる。
 モーディスの腹は長く鋭い「槍」に貫かれていた。いや、それは槍なんてものではなく、落下する途中で岩がぶつかり合って削れ、偶然にできてしまったものだろう。長いそれは杭のようにモーディスを地面に縫い止め、傷口からぽたぽたと血が滴っている。
「モーディス……、」
 手を伸ばせば足に触れられそうな程の狭い空間なのに、体の痛みが強くて動かない。痛みに呻いて沈みながら、更なる違和感に目を凝らす。
「あ……
 この狭い空間がどう言うものだったのか、ようやくわかった。彼はどうやら、その背中と両腕で崩れた地面や岩を受け止めて、ここに空間を作っているらしい。力を抜けば天井が落ちてきて僕たちは二人とも潰れてしまうのかもしれないし、そうはならないのかもしれない。それは僕にはわからなかった。光が僅かにあると言うとこは、きっとどこかに隙間があるのだろう。だから僕とモーディスはまだ息をしている。
 冷静になんとか現状を分析しようとしたが、暗闇に慣れてきた僕の目には、モーディスが背中や頭からもとめどなく血が流している姿が目に入っていた。
「そんな」
 震える声で呟く僕に、「騒ぐな」とモーディスが硬い声で言う。よくよく耳をすませば、彼の呼吸が浅く早い。
「そんな、モーディス」
「黙れ。今トリスビアスがアグライアを呼びに行っている。金糸があればおそらくはどうにかなるだろう」
「き、君……
 いや、アグライアじゃなくて、ザグレウスの手を持ってくるべきだ。きっと持ってきてくれる筈、とこの場にそぐわない言葉を気休めで口にしたかったのに、僕の心臓はぎゅっと緊張に冷えて固まってしまい、言葉がなかなか出てこない。怖い。何が? 僕の目の前で誰かが死んでしまうことが。
 ひゅっ、と細く息を吸った途端、頭の中が恐怖で凍りついて行く感覚がした。怖い。このままでは彼が死んでしまう。いや、彼一人ならもしかしなくてもここを脱出できるんじゃないか? それなのに僕のせいで。
 モーディスは段々と苦痛を隠しきれなくなったのか、みるみるうちに表情が痛みに歪んでいくのが見える。脂汗と血が滴って濡れる感触が僕の方にまで流れてくるのを感じながら、僕はじっと凍りついたようにモーディスを見上げていた。こんな時どうすればいいんだ? 痛みで体も動かない。だけど、何かをしなければきっとモーディスは死んでしまう。僕は、
「おい」
 パニックになりかけた僕の頭に、モーディスの不愉快そうな低い声が響く。
「今からいうことをよく聞け、救世主。もうしばらくすれば俺は一度死ぬだろう。だが慌てずそのまま大人しくしていろ。すぐに戻る」
 モーディスの言葉と僕を見据える目は、状況にあまりにも相応しくなかった。君は絶対絶命だって言うのに、どうしてそんなはっきりと喋れるのかがわからない。
「どういう……
「不死身の噂は本当だということだ」
 突然、声のトーンが細くなったモーディスの首ががくんっ、と落ちて、支えの緩くなった空間が少し狭くなる。どうしてそうなったのか頭が理解する前に現実がモーディスの死を僕に如実に伝え、体の芯から凍りつくような痛みと寒さを覚える。どうして、僕なんかのせいで。後悔と申し訳なさと恐怖で涙がこぼれ落ちた瞬間、フーッ、と息を吐く音が聞こえ、モーディスが目を開け、首が持ち上がる。
…………モーディス……?」
 一瞬止まっていたはずの水音が、再び、ぽた、ぽた、と僕の耳を打つ。枯れ果てたと思っていた彼の体から再び血が滴り始め、頭が混乱する。
 さっき、彼は死んでいた、よな?
「言っただろう。不死身の噂は本当だと。クソ、せめてここに刺さっていなければもう少し力も入るというものだが。おい、救世主。間抜けな顔をしていないで、トリスビアスやアグライアの声が聞こえたら大声を出せ。俺は支えるだけで精一杯だ。おい、聞いているのか?」
「手、手を離して、」
 モーディスが力むたびに、腹部がどくっと血が溢れて来るのが見えた。すぐそこに手を伸ばせば止められるのに、手が持ち上がらない。
 鋭い舌打ちと、聞き慣れない言葉が落ちる。罵られたような気がしたが、本当にそうなのかはわからない。
「離せば遅かれ早かれお前を守りきれない。 ……いいか、救助が来るまで俺はあと何度か死ぬだろうが気にするな。すぐに戻って来る。貴様は情けなく助けを乞う準備をしていろ」
 モーディスは有無を言わせない声でそれだけを口にすると、目を閉じてしまい、後はいくら呼びかけても僕の泣き言には付き合わなかった。


 一晩中、モーディスは僕の目の前で幾度となく死に、幾度となく戻って来ることになった。
 とうとうモーディスは地に両手を付き、最終的に僕の頭を腹の下に移動させて、「足は?」と切れ切れの声で口にした。
「わからない。神経は繋がってると思うけど」
「そうか」
 言った傍からモーディスが吐血し、僕の頬に熱い血が落ちてくる。モーディス、やめてくれ。僕を助けないでくれ。そう叫んだつもりだったが、言えたのかどうかはわからない。
「助けてやるからそれ以上口を開くな」
 掠れた声で呟いたモーディスの声は、ごぼごぼと血の泡の混ざった音がしていた。モーディス。指先が彼の髪に触れ、ひゅー、ひゅー、と隙間を通り抜けるような音がする。
 誰か早く、誰でもいいから助けてくれ。僕じゃなくて彼を助けてくれ。僕じゃない、僕じゃない、僕じゃない!
 がくんっ、とモーディスの肘が折れる。みしり、と骨にひびが入るような音が僕の耳にまで届き、全身に鳥肌が立つ。どうして。滲む視界に震え声で呟きながら、呆然と祈った。誰か助けてくれ。
——ファイノン、生きていますか』
……アグライア?」
 暗闇に、金色に光る小さな蝶がふわりと浮かんでいた。羽ばたいていた金色のエンドモは僕の鼻先に止まり、「すぐに助けます」と聞き慣れた、感情の読めない彼女にしてはかなり揺らいでいる声を出した。
「アグライア、モーディスが、」
 声を聞いて安心してしまったのか、鼻水と涙が溢れてきて止まらない。思わず、鼻先の蝶に向かって泣き言を口にする。
「黙っていろ」
 けれども、僕の泣き言は何度目か目を覚ましたモーディスの不機嫌そうな声に遮られてしまった。モーディスはぐっ、と低く呻きながら肘に力を入れ、狭くなりすぎた空間をもう一度押し上げる。モーディスが咳き込み、ひゅー、と再び嫌な音が響いた。
 アグライアはもう何も言わず、エンドモはモーディスの耳許へそっと止まってから、優雅にふわふわと羽ばたき、上へと消えて行った。

   *

 金糸とザグレウスの手で助けられた僕たちの目の前にはキュレネと樹庭から飛んできたらしいヒアンシー、アグライアの姿があった。オクヘイマはキャストリスさんとトリビー、トリノン先生が残ってくれているとのことで、今のところ避難民の治療や今後の問題に対応してくれているらしい。
「僕は大丈夫、それより先にモーディスを……
「ダメよファイノン。王子様もあなたも同じくらい重症だわ」
 ザグレウスの手で土砂や岩や木を取り除き、ようやく出来た大穴から僕を地上まで引きずり上げ、とうとう気絶したモーディスと僕を同時に癒しているヒアンシーを止めようとすると、横からキュレネが叱るように口を挟んでくる。
 いいから飲んで、と妙に苦い薬を口に流し込まれて暴れそうになったが、全身の痛みで体が強張る。
「あら、苦いって聞いてはいたけど、本当に苦いのね……
 キュレネは悶絶する僕の口を拭うと、気絶しているモーディスの方へ移動し、「飲ませても大丈夫なのかしら?」と眉を寄せる。ラフトラが数体そばによって来たかと思うと、モーディスの上半身をそっと起こし、口を開けさせる。「あなたには必要ないかもしれないけど」と申し訳なさそうな顔をして、残っていた薬を流し込むのが見える。起きた瞬間、あの味がすることを考えて少しだけゾッとした。
「ファイノン様、動かないでください。全身打撲と肋骨にヒビ、右手の中指と人差し指、足首粉砕、それから右足の大腿骨が折れていますから」
 ロッドを握りしめたヒアンシーが喚び出したイカルンが僕の胸の上に座り、ぷわぷわと鳴いていた。
 じわじわと痛みが吸い取られて行く感覚に、折れていると言われた指を動かそうとして、「また折れますよ」とヒアンシーがあくまで穏やかな声で釘を刺してくる。
「でもモーディスが」
「ファイノン。安心してください、彼は疲弊して眠っているだけです。目を覚ませばあなたより恢復は早いでしょう」
 じっと僕とモーディスを見下ろして佇んでいたアグライアが静かな声で言う。
「でも、」
 アグライアは僕に首を振ると、隣に佇んでいた二体のラフトラに「彼女たちの手伝いをしてください」と告げてから、モーディスの介護をしている二体とヒアンシーに顔を向ける。
「私は先にオクヘイマに戻らなければなりません。ヒアンシー、後はあなたにお任せして問題ありませんね」
「お任せください。ファイノン様が動けるようになったら、モーディス様を起こして戻ります」
「起こす?」
「黄金裔が二人も大怪我をしたと言う『噂』は既に市民の間に回ってしまっています。二人の勇士が自分の足で立って戻って来られなかったとなれば、元老院は嬉々として私たちは予言に選ばれていないだのなんだのと責め立てるでしょう」
 心底面倒くさそうにため息をついたアグライアに、思わず、「ごめん」と声が出た。
「何を謝っているのですか。あなたに落ち度はないでしょう。これはただの事故ですから」
「だけどモーディスが」
「ファイノン。今夜のことが、あなたにとって非常にショックな出来事だったと言うことは理解できます」
 アグライアは僕の懺悔に首を振り、何度も僕に言い聞かせて来たように、「火を追う旅に喪失はつきものです」と淡々と続ける。
「彼は私たちの千年にも渡る火を追う旅に同意をし、同胞たちをオクヘイマに住まわせる見返りとして、黄金裔としてその身を捧げると私に誓ってくれました。それは『救世主』であるあなたを、最後まで送り届けることも含まれています。彼は死ねない体です。それはあなたも今夜、嫌というほど見たでしょう。……これ以上、私が彼を代弁することは侮辱することになるでしょう。納得がいかないのなら、後で本人に聞いてください」
 それまで黙って聞いていたキュレネはアグライアと僕の顔をしばらく交互に見つめてから、静かに「そうね」と僕に向かって呟いた。


 アグライアと共に先にオクヘイマへ帰還するキュレネが去っていくと、ヒアンシーと門の管理をするトリアン先生、ラフトラが数体、眠っているモーディスと僕が残された。
「不死身って、本当にそうなのか?」
 ふう、と治療を終えたヒアンシーが一息をついた瞬間に尋ねると、彼女は鳴いているイカルンを僕の腹から持ち上げ、まだ眠っているモーディスの腹の上にそっと置いた。ふわふわと緑色のやわらかな光がイカルンから溢れ、モーディスの全身を包んでいくのを不思議な気持ちで見つめながら、ゆっくりと体を起こす。
「普通の人なら、もうとっくに死んじゃってますよ。安心してください。本当にモーディス様は大丈夫なんです……多分、目を覚ましたらいつもより饒舌になりますから」
 ヒアンシーの複雑そうな表情に、そっか、と答えるより他にはなかった。
 死んだように眠っているモーディスの顔色は恐ろしく悪かったけれど、それでも本当に生きてはいるらしい。血を拭われた胸は確かに上下しているし、呼吸に嫌な音も混ざっていない。何度も目の前で見た腹の傷も既に塞がっていた。
……ファイノン様、助けられたことを、気に病まないでくださいね」
「え?」
「モーディス様は、ただできるからそうしただけだと思います。私が患者さんを癒すのと同じです。だから、どうか苦しまないでください」
……努力はするよ」
 みんなが僕を慰めてくれる優しさが今は痛かった。
 本当に僕が完璧な英雄で、救世主なのか? 幾度となく繰り返した自問が脳裏を巡っていた。

   *

 ヒアンシーの言った通り、しばらくして目を覚ましたモーディスは既に立ち上がっていた僕を見上げると、「死にはしなかったか」と感情の読めない声で口にした。そこには僕がみっともなく喚いたことを揶揄するような色もなく、無事を確認できたのであればそれでいい、と興味すら持っていないかのように感じ、なぜだろう、言葉に言い表せないもやもやとしたものが残った。
 手足や首の動きを確認するように体を動かしたのち、モーディスはいつまでもひっついているイカルンを掴んでヒアンシーに渡し、「助かった」とふわふわの体をそっと撫でた。イカルンは嬉しそうにぷぅぷぅと鳴き声を上げるとポワッとその場から消え、モーディスが目を覚ますまで背を支えていたラフトラが「坂の上まで運びましょうか?」と声をかける。
 モーディスはいらん、と首を振り、ふぅー……、と疲れたように、長く息を吐く。
「モーディス」
 オクヘイマに帰る前に話がしたい、と思ったが、腕を組んだモーディスから静かな、それでいて鋭い一瞥を受け、口を閉じる。
「なんだ」
 てっきり「口を開くな」と言われるかと思ったが、モーディスはそうは言わずに、続きを促してくる。ヒアンシーがちらっと僕とモーディスに視線を向け、困ったようにため息をついた。
……先に坂の上で待ってます。手短にしてくださいね」
 仕事を無くしたラフトラを連れて、ヒアンシーは門の前で待っているトリアン先生の方へ歩いて行く。その背を追っていた僕に、「救世主」とモーディスが焦れたように声を上げた。
……どうして僕を助けたんだ?」
 恐る恐る尋ねた僕に、ハ、とモーディスが鼻を鳴らし、「くだらん」となんだか失望したような声で言った。
「どうしても何もない。俺が助けなければお前は死んでいた。俺にはお前を救うことができた。それだけの話だ」
 アグライアやヒアンシーの言っていたのと同じようなことを言われ、もしかして彼のことをわかっていないのは僕だけだったのかもしれない、と感じた。
「君のことがわからない。僕を未熟だと言っていたのは君だし、僕だって君に比べたらそうだと本心から思うよ。それなのにどうして……
 俯き、情けなさや色んな感情で拳を握る。あんな風にモーディスを何度も死なせて、苦しめてまで、僕は救われるに値するのか? アグライアやモーディスやトリビー先生たちに比べたら僕はただの剣士で、闘いはそれなりに慣れていると思うけど、まだそれだけだ、と常々感じていた。勿論オクヘイマのためにアグライアの仕事を手伝ったりはしているけれど、それは別に英雄でなくてもできる仕事で……
「ファイノン」
 そんなことを悶々と考えていると、呆れたように、諭すように、静かな声でモーディスが僕の名を呼ぶ。
「助け甲斐がないと思わせるな。お前は腕が立ち得難い戦士のようだが、確かに心根は救世主には程遠い『新兵』のようだ。——救世の予言が正しいのであれば、お前は最後まで生き残らねばならないだろう。お前にまだ覚悟がなくとも、お前を救世主と呼ぶ者たちはお前にそうあれかしと望んでいる。当然、俺自身もな」
 普段のモーディスにしては、随分と口数が多く、穏やかな声だった。
 ヒアンシーの言っていた「饒舌になる」と言う言葉は真実だったらしい、と考えながら、モーディスの言葉を、黙って受け入れる。
 人々にそう望まれている姿を見せる。それが英雄なのだ、と長年、人々を導いて来たモーディスの言葉が重く突き刺さっていた。
 そんな彼が、僕に救世主であることを望んでいる、らしい。
「お前が自身を救世主と名乗ったからには、その責任と運命からはもう逃れようがない。お前は剣の腕が立つだけでまだ愚かで、未熟で、過つこともあるだろうが、その運命とやらに押し潰されずに達成できるのだと、あのアグライアも信じているのだろう。フン、俺と互角に渡り合えるお前が救世の大役を成し遂げられんとは俺も思わん。……わかったなら、二度とくだらないことを聞くな。
 俺にはお前を助ける力があった。だから助けた。ただそれだけのことだ。後悔するくらいなら、二度と俺に手を貸されぬよう、精進することだな、『救世主』」
 皮肉そうな口振りだって言うのに、モーディスの言葉はどこまでも優しく、僕の心を慰撫するかのようだった。
 うっすらと微笑みを浮かべ、永夜の星空で僕をしばらく見つめていたモーディスをじっと見返す。いつものモーディスであれば、きっとこんな優しい言葉はかけてくれないだろう。今の彼は普段、何重にも覆っている為政者としての仮面が全て剥がれ落ちてしまった後のようで、きっと、それが彼の本質なのだろう、と何故か、確信めいた感覚があった。
「さて」
 モーディスは坂の上に視線を上げ、ヒアンシーに向かってそっと手を上げる。
「お前のお喋りに付き合ってやるのはここまでだ。流石に今夜は疲れている。もう話しかけるな。……オクヘイマに帰還した後は寝る。間違っても手合わせをしろなどと宣ってすぐに起こしにくるなよ」
……お見舞いには行くかもしれない」
「いらん。静かに寝かせろ」
「ザクロを持って行くくらいはいいだろ。後、次に起きたら食事でも奢るよ」
「いらん。が、どうしても俺と食事をしたいと言うのであれば、同席は許可しよう」
 王族がたかが剣士に奢らせていると噂されても困る、と真面目な声で呟きながら、モーディスは何事もなかったかのように、けれど、足取りはなんだかふらふらとおぼつかないまま、歩いて行ってしまう。
「メデイモス」
……もう話しかけるなと言った筈だ」
 ぴた、と一瞬足を止めた後、モーディスは再びふらふらしつつも歩を進めて、あっと言う間に半分も坂を上ってしまう。おかしいな、僕の方が彼に比べたら軽症の筈なのに、と思いつつ、慌ててその背を追いかける。
「助けてくれて、その、ありがとう」
 はぁ、と大袈裟にため息をついたモーディスが僕を振り返り、「お前は耳がないのか?」と呆れたように口にした。
「なんだよ、お礼くらい言わせてくれたっていいだろ。それとも、クレムノス人は感謝の言葉を知らないのか?」
 モーディスは僕の言葉にぽかんと口を開け、呆れたような表情をした。
…………………
 何かを言おうとしたのか、モーディスは唇を微かに動かしながら腕を組み、僕をじっと見つめたのち、結局目を伏せ、眉を寄せた。
 しかし五秒後に瞼を開けたモーディスは瞳も表情も既に凪いでいて、彼が何を思っているのか、僕には読み取れない。
「◾️◾️◾️」
 もう一度、僕の知らない言葉を口にしたモーディスに、「なんだって?」と尋ねても、モーディスは「先ほどまでのしおらしいお前の方がマシだったな」と言うだけで、答えは教えてくれない。
……おふたりとも、帰ったら三日は絶対安静です。それから、いつまでもこんなところでおしゃべりしていないで帰ります!」
 腰に両手を当てたヒアンシーが、珍しく額に青筋を浮かべて僕たちを睨んでいた。トリアン先生も「そうだそうだー」と門の向こうから顔を出し、いい加減帰るぞ! と唇を尖らせて怒っている。
「ごめん」
…………………………
「まったく、戦士のみなさんはちょっと元気になるとすぐ喧嘩するんですから」
 ヒアンシーは僕とモーディスの腰に手を当て、ぐいぐいと小さな手で僕たちを門へと押して行く。


「アグライアへの報告はせず、部屋へ戻って構わないな」
 オクヘイマの正門に辿り着き、ほっと、一息をついた僕の隣で、モーディスが硬い声で言う。
「大丈夫です。ゆっくりお休みください。でも、体調に何かあればすぐに石板で呼んでくださいね」
「ああ。——救世主、お前もしっかり休め。休むのも戦士の仕事だ」
「君の方こそ」
 フン、となんだか偉そうに口角を吊り上げ、僕にありがたい「忠告」をして去って行くモーディスの足取りは本当に何事もなかったかのようにしっかりしていた。
 クレムノスの人々が彼に何事か声をかけるたびに、彼は為政者らしく堂々たる足取りと声で返答をしている。あれだけ死んだことを衣服の乱れと身体の汚れ以外では悟らせないその背をじっと見つめ、英雄か、と小さく声が漏れた。


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